港町にて再会し 壱
ぽう、と遠くから抜けるような音が聞こえた。
能天気で明るく、けれどもどこか郷愁を感じさせる音だ。
書類を記入していた手を止め、耳をすませた。
また、ぽうーと音が聞こえてきた。
開け放していた窓の向こうへと目をやると、青く光る沖合いにその音源を発見した。
「蒸気船っていいっすねえ」
神奈川県警に勤務する岩尾巡査は、ゆっくりと動く黒い点を見つめる。
開港以来、横浜は日本有数の貿易の地である。行く船も来る船も日々事欠かない。
「何じゃい、藪から棒に」
その岩尾巡査に反応したのは、向かいの机に座る金田警部であった。
太い眉を寄せながら顔をしかめているが、別に機嫌が悪い訳ではない。いつもの癖というだけだ。
「いやあ、だって警部、あれに乗れば海を越えてどこまでも行けるんですよ。遠く亜米利加までも船一つでえんやこらと来たら、男の浪漫が掻き立てられませんか」
「若いのう、岩尾は」
金田警部は鼻を一つ鳴らした。机の上から煙草の箱を取るが、どうやら空っぽだったらしい。残念そうにそれを潰す。
「えー、そうですかねえ。警部だって子供の頃に思いませんでしたか? わくわくしましたね、僕は」
「さて、黒船を最初に見た時はぶったまげたが、別に乗りたいとかは無かったのう。それよりかは、給料日まであと何日かの方が重要じゃった」
「かーっ、夢も浪漫もありませんね」
「あほう、男は結婚して家庭持ったら、夢や浪漫なんてあやふやなもんに目をやる暇はない。現実だけで手一杯になるからな」
ぬるい番茶を啜りつつ、金田警部は小さく笑った。その笑いに何か嫌な物を感じ、岩尾巡査は身を固くする。
「――ところで、岩尾。お前もぼちぼち身を固める頃じゃないかと、心優しい上司のわしは思うんじゃが?」
「お、お心遣いはまことに有り難いのですが! まだまだ未熟者なので、はい、もう少し成長してからと考えてまして!」
「あほ抜かせ。人間なんていつまでたっても未熟なんじゃ。成熟するのを待ってたら、その内ポックリ逝って終わるだけ。だから、ほれ、見合いの一つも......って聞いてるか?」
「聞かないことにしましたっ、あーあー、耳が蒸気船の汽笛でやられたあー」
両の耳を手で塞ぎながら、岩尾巡査が床をごろごろしている。
身を張った演技にそれ以上追及する気も無くしたのか、金田警部は「家庭持つんも悪くはないぞ」と付け加えるに止める。
そこで何か思い出したのか、持っていた湯呑みをゆっくりと机に戻した。
「なあ、岩尾」
「あーあー、何も聞こえません、ああー」
「今日、東京から大事なお客さんがいらっしゃる日じゃなかったっけか」
微妙に震えている金田警部の声に、岩尾巡査が跳ね起きた。先程までの軽い調子はどこへやら、その視線は緊張感を孕んでいた。
「......警部。僕の記憶違いでなければ」
「......おう」
「警視庁本庁特務課第三隊の、三嶋巡査と紅藤巡査が」
「おう」
「横浜に来るって言ってたの、今日でしたよねえー!」
「確か一時に横浜駅じゃったか!?」
「はいっ、そして今は十二時四十分ですねぇー!」
二人が顔を見合わせたのは一瞬に過ぎなかった。机の上から財布だけをひっつかみ、猛然と横浜署から飛び出る。
「岩尾おおお、ちゃんと覚えとけええ!」
「警部こそ忘れてるじゃないですかあああ!」
「うぬう、口が回るようになったな、というかこんな言い合いしている暇はないんじゃ! 走るぞ、横浜駅までえ!」
「遅れたら僕達の首が飛んじゃいますからねえぇ!」
「岩尾ぉ!」
「警部ぅ!」
「岩尾おぉ!」
「警部うぅ!」
罵りあいながら、あるいはお互いに励まし合いながら、二人の警察官は一路横浜駅へと走るのであった。
******
柄にもなく、三嶋一也はおののいていた。
陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車を降りたまではよかったが、目の前に広がる光景は何だろう。
駅の木製のプラットホオムには、大の男が膝をがくがくさせている。しかも二人も。
「はっ、はっ、はっ......い、いやあ、三嶋さんに紅藤さん、お、お久し振りっでっす」
「え、遠路、はるばっる、横浜まで、げふっ、ご足労いただき、本庁のっ方々に」
「え、ええと、お久し振りです、岩尾巡査に金田警部。あの、なんでそんなにぜえはあ言ってるんですか」
若い岩尾巡査はまだしも、中年の金田警部は瀕死の有り様である。声をかけるのが躊躇われる程、汗びっしょりであった。
季節は春、桜も見頃の四月であるというのに、それだけ見ればまるで真夏のようだ。
「お二人とも大丈夫ですかー? 一体何があったんです?」
「そ、そりゃあ本庁からの方々をお待たせする訳にはいかんですからな! ははっ、ほれ、岩尾、しっかりせえ!」
見かねた小夜子が声をかけると、金田警部は根性で立ち直った。部下に発破をかけながら、ぴしりと敬礼の姿勢を取る。見上げた小役人根性――もとい、礼儀正しさだ。
だが、彼の視線は一也と小夜子の間の、もう一人の人物に注がれていた。金田警部に続いて敬礼しながら、岩尾巡査も口を開く。
「犯人の移送、お疲れ様であります。噂だけは僕らも聞いていました」
「ああ、よろしく頼みます。この女性があの事件の唯一の生き残りである――」
「高城美憂です」
一也の言葉を引き取るように、その女性は一礼した。
肩までの髪も、常に着ているメイド服も変わりはない。唯一異なるのは、両手首に嵌められた白い布の輪である。
手錠の代わりなのか、言依仮名がびっしりと記されている点が風変わりであった。
「話は本庁から聞いております。まず横浜署の方へどうぞ。刑務所の方にも話は通してますから」
「お願いします」
金田警部に頭を下げながら、一也は美憂を促した。右腕を小夜子に抑えられながら、美憂は大人しくついてくる。その赤紫がかった目からは、何の感情も伺えなかった。
******
「ほう、いや、大変だったんですな。当事者の口から聞くと、迫力が違うというか」
「秩父の事件は、僕らにもちらっとは情報まわってきたんです。けど、ほとんど伏せられてましてね」
金田と岩尾は、二人して神妙な顔になっている。
横浜署の一室だ。殺風景な部屋ではあるが、一也ら五人が余裕を持って座る程度の広さはある。
ちなみに一也も小夜子も普段着なのは特例である。
今回の横浜行きは、危険性が低いと認められたが故だ。
「物凄い大変でしたよ。体ぼろぼろなのに、事件の概要掴まなきゃ終わらないし」
「三週間ばかりこの人を問い詰め続けて、漸くでしたよねー」
一也も小夜子もうんざりといった顔である。
横浜の事件とは違い、山深い秩父という場所がそもそも面倒であった。
応援を頼む為に、あの蒸気駆動式自動車で飯能と秩父を往復する必要があったのである。
更に本庁に応援を頼む為に、一也に至っては単独で東京と飯能を二度ばかり往復せねばならなかったのだ。
運転技術は飛躍的に向上したが、面倒なことには変わりは無かった。
「それでまあ、目処がついてきたんで横浜に移送と決まった訳ですな。よう三週間でそこまでこぎつけましたな」
「犯人は私一人だけですから。別に不思議でも無いでしょうに」
つ、と顔を上げて、高城美憂が呟く。
予期せぬ反応に、金田警部はちょっとだけ驚いた。
横浜署に連れてこられてから、彼女はずっと沈黙していたからである。
「比較的素直に答えてくれたんで、それは助かりましたよ」
「私には何故か反抗的だったんですけどね......」
一也はともかく、小夜子は渋い顔である。小夜子の表情を認め、美憂はうっすらと笑った。
「え、だって直接敗北を喫した方ですもの。素直に答えるのも何だか癪じゃありません?」
「負けた直後は私にお礼まで言ってたのに、何なんですか。へそ曲がりの根性悪って言われても知らないですよ」
「ふん、どうせ私は根性悪いですから。それに」
不意に美憂の言葉が途切れた。視線を窓の外へと流しつつ、その目が二度三度瞬く。
「......貴女の尋問に素直に答えてしまうと、今までの自分を全否定してしまうようで、ちょっと抵抗あるんですよね」
「話の最中悪いんだけどさ。それはそれとして、自分がしてきたことが悪かったという意識はあったんだよな」
「それはありました。何度かお答えしました通り」
口を挟んできた一也の方へと、美憂が向き直る。
答えながらも、彼女は一也が聞いてきた意図を推測していた。
恐らく神奈川県警の二人に聞かせる為だろう。
「流刑囚とはいえ、危害を加えたり命を奪うのは単なる私刑であり、重罪行為だと分かっていたと」
「ええ。意図的に痛め付けたことはほとんど無かったですけれどね。作業中に怪我をしたり、病気になる囚人はどうしても発生しますわ。そうした囚人を対象に自然脱落させろと、そう御主人様はおっしゃいました」
「それに従ってきたと」
美憂は頷く。
別に反論する気はない。流刑まで処せられる囚人である。
大なり小なり罪を犯しているのであり、彼らがどうなろうとあまり興味は沸かなかった。
この美憂の淡々とした態度に、金田は少々気味の悪さを感じた。三週間も取調べを受けたからという経験のせいかもしれないが、余りに反応が薄い。一也に許可を貰った上で、直接問うてみることにした。
「のう、嬢ちゃん。あんた、怖くはないんか?」
「怖いとはどういう意味でしょうか?」
「横浜に連れてこられた意味は、知ってるわな。特殊事情がある重罪人は、関内の刑務所へと収監される。公判はまだこれからじゃが、少なくとも数年はそこにおることになるじゃろう」
「らしいですね。三嶋さんと紅藤さんが教えてくれました」
「刑務所が怖くはないんかい。罪を漱ぐ為の場所じゃ、自由は当然無い。出所出来ても、前科者として汚点がつくんじゃけどな」
自分の質問の意図は理解出来たのか、金田は一瞬不安になる。それほどメイド服を着た少女は、望洋とした顔であった。
隣に座る岩尾も気になったらしく「君、聞いてる? お茶でも飲む?」と美憂に声をかけた。
「いえ、お構い無く。ええ、そういう点では余り不安も恐怖も無いですわ。ご主人様にお仕えしていた時に、こうなる可能性も考えてはいましたから。なるべくしてなったなあ、というふわふわした感触があるだけです」
「なるべくしてなった、ですか」
「ええ、それに」
岩尾に相槌を打ちつつ、美憂は瞼を閉じた。
金田と岩尾に注がれていた赤紫がかった瞳が閉ざされ、また開く。
春の陽射しを受けたその眼光は、何故か透明度を増して見えた。
「何故犯罪行為に手を貸したというならば、私は逆に言いたいですわ。ならば、貧民窟で貧困に喘いでいた兄様と私を助けてくれたのは誰なのかと。その命の恩人の為ならば、罪だろうが何だろうが背負う覚悟があるのがいけないのかと」
「――そうっすか。聞くだけ野暮でしたかね」
岩尾は頭を横に振る。
恐らく自分と高城美憂では、考え方の出発点が異なる。
人は誰でも犯罪者になりうるということを、警察官になった直後に教えられた。それを思い出した。
散々その辺りの事情は聞いてきたのだろう、一也と小夜子は黙ったままだ。事実を理解することは出来るが、個人の心情までも理解することは難しい。理解しようという努力は必要にしてもである。
「美憂さん、一つ聞いてもいいですか」
短い沈黙は、小夜子の問いにより破られた。
黄八丈の着物に身を包んだ彼女は、警察官というよりは町娘のようにも見える。
それでも体全体から醸し出す雰囲気は、修羅場をくぐった者のそれであった。
「逮捕した私が言うのも筋違いかもしれませんが、この場で言わなかったら二度と言えそうにないので言っておきますね」
「......ええ」
「出所したら何がしたいですか? 貴女がやりたいことって何ですか?」
唐突な問いであった。答に窮したか、美憂は顔をしかめる。
「急に言われても出てこないですわね」
「探すべきです。貴女にはその義務があります。だって、生きていれば何でも出来るんですよ。美味しいご飯だって食べられるし、好きな人とお話ししたり、珍しい物だって見られるんです。生きてるって、それだけの可能性があるんですよ」
常に無い熱弁を振るいながら、小夜子は美憂を見詰めた。
「何でもいいです、美憂さんがやりたいと思える事を見つけてくれたらいいです。それを見つけた後で、九留島子爵が犠牲にしてきた人の事を振り返って欲しいんです。その人達だって、やり残した事とかあったと思いますから。今の貴女にそれを感じてほしいと言っても、多分難しいとは思うけれど」
「やりたい、こと」
「自分の人生大切にしないと、他人の人生の価値だって分からないじゃないですか。それは悲しいと思いますから」
小夜子の言葉はどこまで届いたのだろうか。美憂の表情からは分からない。
けれど、小夜子は信じていた。この少女は希望も絶望も感じるだけの心はあると。
かち、と部屋の柱時計の針が鳴る。三嶋一也は時間を確認した。午後三時、そろそろ関内刑務所へ移送する頃合いだ。
「なあ、何か食べたい物とかあるなら今の内に言ってくれ。滅茶苦茶高価とかでなきゃ、最後に食べさせてやれるけど」
声をかけられ、美憂は即答した。躊躇いなど微塵も無かった。
「お優しいのですね。それならばコオンスウプをいただけますか。それだけで結構です」
「え、コーンスープ? そんなのでいいの?」
「はい。私にとっては懐かしいお料理ですから」
舌の記憶。過去の風景。小さな自分。
それらを連鎖的に思い出しながら、美憂はもう一度窓の外を見た。横浜の海が切ない程に青く見えた。




