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最初の一歩

 "空が広いなあ"



 一也は何とはなしにそう思った。

 彼は今、河原に寝転がっている。視線を左右に転がしてみても、そこには高層ビルは無い。多くは平屋の家屋が並ぶだけだ。

 瓦葺きの渋い家が並ぶ様は、どう考えても田舎の風景なのだ。しかし一也は、ここが都心のごく近くであることを知っている。だから違和感があるのだ。



 柔らかい草から半身を起こし、左に視線を転じる。

 茶色く煤けたような色の橋が川にかかっていた。そこを行く人々のざわめきが伝わる。

 風呂敷に包んだ荷物を抱えたどこぞの商人がいた。

 天秤棒を両肩に乗せ、そこからたらいを吊るしている男も見えた。

 確かあれはしじみ売りだな、と小夜子が昨日教えてくれたことを思い出す。すぐに「深川の朝どりのしじみだよー」という威勢のいい声が聞こえ、正解だったと分かる。



 橋のたもとの看板には、柳橋と書かれていた。もし一也の記憶が確かなら東日本橋辺りにある橋だ。

 この橋がかけられているのはすぐ近くの隅田川から枝分かれした支流である。

 支流とはいっても河口に近い位置であり、それなりに川の幅は広い。堂々たる都会の水脈は平成の時代ならば灰色に濁っていただろうが、この明治の世においては青々と澄んでいた。



 帝都東京に赴いて二日目。

 三嶋一也は、自分の認識と異なる日本の中心地の光景に馴染もうとしつつ柳橋の欄干を眺めていた。

 和装の者と洋装の者が行き交う様は、目まぐるしく移り変わるこの時代の縮図のようだ。

 柄にも無く、そんなことを考えながら。




******




 吉祥寺から東京都内まで徒歩で移動する――正直勘弁だ、と一也は考えていた。

 一日で本当に着くのか、と懐疑的になりつつ歩いていたのが、つい一咋日のことである。



「大丈夫ですよ。たったの七里です!」



「どこがたったのなのかな......」



 土が剥き出しの街道を歩きながら、一也はそう小夜子にぼやいたものだった。

 一里が約四キロメートルなので、七里ならば約二十八キロメートルだ。フルマラソンとは言わないが、ハーフマラソンよりは長い距離である。

 こんな距離を普通は歩かないと思ったが、愚痴は胸の奥にしまいこんだ。言っても仕方がない。



 それでも自然豊かな景色を見ながら歩くのは、新鮮と言えば新鮮な風景だった。

 二十三区で言えば杉並区、中野区を左から右へ横断する形で移動したことになる。

 一也の記憶の中では住宅地であったこれらの地域は、物の見事に田園である。それも軽トラやトラクターの代わりに牛が鋤を引いている――そのような昔の農業がそこにはあった。



 思わず「耕作機械とか無いんだ」と呟いてしまい、小夜子に妙な顔をされたが特に何も言われなかった。

 一也のことを異人の文化に詳しい人とでも勘違いしているのだろう。あながち間違いでもない。



「東京に着いたらまず」



「名所観光ですね。浅草とか銀座とか行きたいです」



「――け、警視庁に推薦状持って仕事探す話は?」



 旅人相手の一膳飯屋での昼食時、一也は小夜子の返事につい突っ込んでしまった。

 しかし正面の相手は「一日二日くらい遅れても、お仕事は逃げませんよ! せっかく帝都に行くのに観光くらいしたいですよ!」とサイドテールをいじりながらのたまう。



 のんきな話だ、と思わなくもなかったが、小夜子の気持ちも分かる。

 それに一也も明治の東京に興味はある。少しばかり見学してからでも遅くは無いだろう。一週間ならともかく、一日二日ならば許容出来る範囲だ。



 そんなこんなでしんどくも賑やかな道中であった。

 重い銃二挺を持つ一也がペースダウンを余儀なくされたため、何とか日暮れ時に早稲田まで辿り着いたのが一昨日。徒歩移動の疲労を考慮して、昨日は浅草近辺まで移動して宿を変えただけであった。

 余談ながら、瞬間的な体力はともかく持久力なら小夜子の方が上と分かり一也が落胆したのは、ここだけの話である。




******




 チャプチャプという水音が一也の耳に心地よい。

 オフィス街であるはずの東日本橋も昔はこんな風景だったのか、と改めて思いつつ柳橋の欄干にもたれる。

 腕時計を見るまでもなく、午後の四時過ぎくらいかと日の傾きから判じた。そろそろ小夜子が戻ってくるはずだ。



 朝から上野、神田を回った。そこから湯島を経て銀座界隈まで見たその後、小夜子とは一旦別行動となったのだ。

「東京に出た友人がいるので挨拶してきます」と言われれば「分かった」と言うより他は無い。

 それに一也も誰かとべったり一緒にいるのは、些か気を使うこともある。少し一人になりたいな、という気分でもあったので、二時間後に柳橋でと約束して別れたのであった。



 "悪くない"



 サイダアのぶ厚い硝子瓶をぷらぷらと行儀悪く指で弄びつつ、一也はこの目で見た東京をそう判断する。

 明治二十年というのはそれなりに文化度は高い。

 まだ帝都東京に来て二日目ではあるが、それが一也の感想だった。

 事実、一瓶が四銭とやや割高ではあったが、彼の嗜好品であるサイダーもサイダアという名称で売られていた。コンビニではなく、露店商が売っている点に時代を感じるがそれはまあいい。



 意外にも食文化に関してはそこまで平成とは差が無いようだ。

 洋食の導入が軍隊の体力向上にも繋がるということで政府が奨励した、という理由もあるらしい。

 そのせいか、レストランこそないものの洋食を出す食堂は幾つかあった。

 銀座の某パン屋で、かの有名なあんパンも売られていたし、麦酒と呼ばれるビールもある。



 無論、そこは一也も現代っ子である。

「そういうちゃんとした食文化より、コンビニ限定のスナックとかがないのは困る」と内心思わなくもない。

 だがもっと明治というのは時代遅れだ、と危惧していたせいか、思ったよりましだ、とちょっと安心した。

 電気が一般的にはまだ広がっていないとか、通信網が未発達など気になる点は無論あるし、それらは今後ストレスになりそうだがそれはそれである。



 "食べ物が口に合わなかったら生死にかかわるもんなあ"



 そう思いながら軽くのびをした時、見慣れた小柄な人影が目に入った。赤を基調とした着物をまとう小柄な姿――小夜子である。



「ごめんなさい、待ちました?」



「多少ね。全然待つ気でいたからいいけど」



 小夜子と違って、別にはっきりとした行くあても無い一也である。

 ぶらぶらと築地を覗いたり、隅田川沿いを見ているだけで二時間くらいは潰せた。見慣れない時代というのは、好奇心を刺激し飽きさせないものだ。



 そろそろ夕暮れが近くなった時間であり、道行く人がどこか忙しない気がする。

 それに紛れて二人は歩く。隅田川沿いに上流へ、大雑把に言えば浅草の方だ。

 そちらに向かうのは二人の泊まっている宿がある、という事情も勿論あるが、それ以外の理由もあった。

 小夜子がどうしても行きたいと願った場所へ向かっているのである。



「一度大人の店って行ってみたかったんですよー」



 まだまだ子供らしい幼さが残る顔をほころばせ、小夜子は笑みを浮かべた。

 邪気も裏も無いその顔に、一也も思わず頬が緩む。

 一瞬頭の中を"同年輩の女子と二人歩きとは......デート!?"という考えがよぎり、すぐさま自分で打ち消した。



「そんなに有名なの、そのさ、神谷バーって」



「はい、七年前に出来てから凄く人気あるお店なんですよ。電気ブランていうお酒が有名らしくて」



「――ああ、なんか思い出したかも。聞いたことある」



 神谷バーという店名は記憶になくても、電気ブランという単語は聞き覚えがあった。

 一也は飲んだことは無いが、大学の飲兵衛の先輩がその名を口にしていたはずだ。

 確か、相当強い酒だった気がする。



「そんなの飲んでも大丈夫かい。酔っ払ったらしんどいぞ」



「一也さんがいるから安心して飲めますね」



 小夜子の言葉に一也は苦笑した。

 信頼されているのか、舐められているのか。

 手を出す気は毛頭無いが、これでも十九歳の男である。もう少し警戒しても良いのではなかろうか。



「ほどほどにしときなよ。俺、いくら軽いと言ってもおんぶとかしたくないし」



「そんなに飲まないですよー。あ、でもこんな会話してると何だか」



 小夜子は一度言葉を止めた。徐々に傾く陽射しが彼女の横顔を照らす。



「――デエト、みたいですね!」



「――は?」



 予想外の一撃に呆気にとられつつ、一也は小夜子の横を歩き続ける。

 ああなるほど、先程自分が考えたことを小夜子も考えているらしい。

 いや、しかし、これはそういうロマンスを女子が夢見ることは分からなくもない。

 無下に否定したり、拒絶せず暖かくリードしてあげるのが年上の自分の役割ではないか――数秒でそこまで考えを巡らしたまでは良かったが。



「じじじじじじじゃあいいいいい行きましょうかかかかかか」



「だ、大丈夫ですか、ほんの冗談ですから、そんな本気にしないでください、デエトなんてー!」



 三嶋一也の口調も体のうごきも、ギクシャクとして鈍く堅かったのであった。

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