傍話 時雨ほろほろ 前編
「これが江戸の町並み、いえ、東京の町並みでありんすか。物凄い変わりようでありんすねえ」
道行く人には聞こえぬよう、時雨は声を潜めて呟いた。
もともと姿も隠しており、余程霊感が強い者以外はすぐには分からぬように配慮しているのだ。
念の為、といった意味合いが強い。
「そうだろうなあ。時雨さんが生前見ていた頃は、ここは将軍家のお膝元の江戸だったもんな。今とは違うだろうよ」
背後を気にしながら、三嶋一也が答えた。こちらも時雨と同じく小声である。
「時雨さんが亡くなった時の年号って、覚えてます?」
口を挟んだのは、紅藤小夜子であった。一也の左を歩きながら、さりげなく背後にも気を配っていたのだろう。
「確か文化だったでありんすねえ。十一代将軍様の家斉様の治世でありんしたよ。もっともわっちのような女にとっては、誰が治めていても、そんなに変わりないでありんしたけど」
「そんなもんなのか?」
「そうやよ、一也さん。それにお江戸の町自体、わっちは見る機会少のうござんした。花魁やからと言うたら、分かるでありんしょ」
時雨の言葉には、暗さは無い。けれどもどこか胸に来る物はある。
吉原という男に夢を売る場所は、女を籠の鳥にしなければ成り立たない。
その事実がさりげなく、当事者の口から飛び出しのだ。
"あ、あら、わっちとしたことが"
時雨は焦った。
一也と小夜子の二人が、気まずそうに黙ってしまったからである。
気を使わせてしまったと気がつき、慌てて声をかけた。
「そないなこと、今はもう済んだことよし。それより一也さん、小夜子さん、ほんまにわっちに東京の町見せてくれるん?」
期待に弾んだ声は、けして嘘でも芝居でもない。
死後から今まで、時雨は吉原内でしか行動出来なかったのだ。
不幸な病死による未練が、彼女を地縛霊にしてしまったからである。
浄霊祭で一也にその呪縛を解いてもらうまで、実に八十年以上もその状態は続いていた。
「ああ、時雨さんが成仏するのがいつなのか分からないけどさ。明治の町並み見てから成仏しても、遅くないだろ」
「ヘレナさんと順四朗さんにも許可もらっていますしね。だから遠慮せずに、外の世界を満喫して下さい」
一也と小夜子が優しく声をかけてくれた。
業務ではあるのだが、その内容は町歩きである。その性質を考慮して、二人とも私服である。
一也は書生風のシャツに袴を合わせ、愛用のインバネスコートを羽織っていた。
小夜子は赤を基調とした着物に、若い女性らしく小紋を散らした角袖羽織を纏っている。
「本当に何て感謝の言葉を述べたらええんか――お二人には頭が上がらないでありんすよ」
声を詰まらせた時雨であったが、湿っぽい気持ちはすぐに吹っ飛んだ。
折角の町歩きである、楽しまなければ損だ。
その為に、一也と小夜子が時間を割いてくれているのだから。
「じゃ、行くか。何処を見たって物珍しいだろうし、適当に回るからな」
「よろしゅうお願いします」
「ふらふらしたら迷子になるから、気をつけて下さいよ? 浮浪霊なんて見つけたら、その場で除霊しちゃう人だっているんですから」
「重々承知しているでありんす」
一也と小夜子に神妙に答えつつ、時雨は早くも期待に胸を膨らませていた。
明治二十一年二月某日、薄日が雲の切れ間から覗く肌寒い天気なれども、三人の足取りは軽かった。
******
「......はあ、これが東京」
時雨は感嘆の溜め息を洩らした。
一也の背にくっつきながらではあるが、町並みを伺うことくらいは出来る。
江戸の町並みすらよく覚えてはいない彼女にとって、それはまさに衝撃であった。
その気持ちを伝えると、小夜子が得意そうに「そういう気持ちをですね、文化的衝撃っていうんですよ」と教えてくれた。
「ははあ、かるちゃあしょっくと言うんでありんすか。英吉利語には面白い表現があるんすなあ」
「自分の常識とは違う文化に触れて、があああん! となった時に使う単語なんです。私だって英吉利語の一つや二つくらい知っていますよ、ふふん」
「よく言うなあ。この前ヘレナさんに教えてもらったから、覚えてるだけだろうに」
得意そうに説明していた小夜子だったが、一也の呆れたような顔に怯む。
「か、一也さんは人の向上心をへし折って、それで楽しいんですか! それでも警察官なんですかあ!」
「あ、俺、警察官である前に銃士なつもりなんで。そこんとこ宜しくね」
「ぐっ......何という屁理屈っ」
二人のやり取りは日常茶飯事である。
それはさておき、時雨はもう一度町並みを眺めた。
文化的衝撃とやらは、心の隅に置いておく。
自分の中の江戸の町並みと今の明治のそれを比べて、具体的に何が違うのかを整理してみた。
「吉原でも気がついてはいましたけれども、殿方の髪がちょんまげではないんでありんすね。でも女性はそれほど違わないんよ」
「あー、それは目につくよなあ。俺だって初めて目にした時は、これがあのざんぎり頭かあってちょっとびっくりしたもんな」
「あれ、一也さんって私と二歳しか違わないですよね。生まれた時には、断髪令が出てたはずでしょ?」
小夜子の首を傾げながらの問いに、何故か一也は視線をさ迷わせていた。「いや、ほら、こんなにたくさんの断髪した人を一度に見たこと無かったからね」と返してはいるけれど、どうにも怪しい。
しかし、時雨も小夜子もそれを問い詰めはしなかった。大人げがないと思ったのである。
「時代が変わったゆうんは、幽霊なってからも分かってはいたでありんす。けれど、こうして町に出て見てみると、本当の意味で実感しやんなあ」
時雨が存命していた時代は、江戸時代全体から見れば後半である。
西暦で表せば凡そ1800年前後、識者の中には西洋の脅威に気が付き始める者もいるにはいた。
だが、殆どの民は泰平の世が続くと疑わなかった時代であった。
「あの頃は異人さんなんて、長崎の出島に行かんと見られへんかったんよね。それも幕府に交易免許を交付してもらった商人だけ。それが今では東京で――天皇陛下のお膝元でも、ちらほらいるんでありんすなあ」
「ああ、聞いたことある。蘭国とは限定的に貿易してたんだよな」
「蘭国って確かおらんだっていう国の事ですよね? えーと、タアヘル・アナトミアっていう医学書もおらんだの本でしたっけ」
小夜子が尋ねるも、時雨には分からない。代わりに答えたのは、一也であった。
「まあ、そう考えていいよ。元はドイツの医者が著した医学書だ。欧州各国で翻訳され、そのオランダ語による訳書がターヘル・アナトミアという。それを日本語に訳したのが解体新書という本だね」
「あっ、思い出しましたよ。杉田玄白っていう偉いお医者さんが翻訳したんですよね」
「うん、俺もそれ以上は知らないけれど」
肩をすくめるようにして、一也はその話題を打ち切った。
一也の博識ぶりに、時雨は驚くしかない。医者でもないのに、何故一也はこんなことがすらすらと出てくるのであろう。
「はあ、一也さんは物識りでありんすね。大学とか行かれてたん?」
「あっ、私もそれ知りたいです。一也さん、時々物凄く博識ですもん」
時雨の問いに小夜子も同調する。けれど、一也は「別にいいだろ、そんなこと」とぷいと顔を背けた。
話したくないことなのだろうか。
時雨と小夜子は視線を合わせる。数秒の躊躇いの後、小夜子が話題を元に戻した。
「あっ、じゃあこの話は無しで。えっと何でしたっけ、そうそう、今では異国の人ってそこまで珍しくないですよね。ヘレナさんだって独逸人だし」
「そうでありんすな。今もほら、ちらほらと青い眼の方いらっしゃいますしなあ」
「んだな。政府のお雇い外国人だろ」
数は多くはないものの、確かに外国人の姿がぽつぽつと見受けられる。
馬車や人力車に乗っている者が殆どだが、これは彼らが無精だからではなく、暴漢に襲われる可能性を減らす為だ。
開国したとはいえ、外国人に敵意を持つ日本人はまだいた時代であった。
時雨は視線を周囲へ巡らせた。
建物は江戸の頃から残る家屋も多く、所々に西洋式を意識したとおぼしき家屋もあるといった具合だ。
焼き煉瓦の赤茶けた壁をした西洋式の家屋が、和式の立派な土塀に瓦屋根の家屋の中にぽつりぽつりとある。
「不思議な風景でありんす」
自分が生まれた村には、このような町並みは無かった。
茅葺きの粗末な屋根の家には土と藁の匂いが染み着いており、このような綺麗な場所があるなど想像すら出来なかった。
「時雨さん、あれ何か分かる?」
「あれ?」
物思いを中断し、時雨は一也の指差す先を見た。黒い線が空中に渡されているようだ。
建物から建物に渡されている線もあれば、道端に立てられた木の柱から渡されている線もある。
「何や、空が狭く見えるでありんすな」
「そうそう、私も東京に初めてきた時にそれ思いました。空が区切られて見えますよね」
小夜子も時雨に同意する。説明してくれたのは、またも一也であった。
「あれは電線と言うんだ。電報という道具があるんだけど、それを使う為に必要になる」
一也が説明を続ける。
その電報という道具は、文字を遠くの人間に送り届ける為の物らしい。
まず、電報の送り手と受け手が専用の機械を設置する。
送り手がその機械に備え付けられている仮名文字の盤を叩くと、電線を通してその入力された文字が受け手の機械に届く。
受け手の機械は届いた文字を認識してから、機械内の用紙に文字を印字する。
簡単に言えば、このような仕組みであった。
「それはつまり、あの黒い線の中を文字が走っているんでありんすか? 線を切ったら、文字がこぼれてくるとか?」
「......そ、そうだね、それでいいんじゃないかな」
「......違うんでありんすね」
「専門的なことは省くけど、入力された文字は電線で送られる時に、電気信号という物に変換されるんだ。この電気信号という物は、目には見えない。それが受け手の機械に辿り着いたら、文字に戻る」
一也が丁寧に説明してくれたが、それでも時雨にはぴんと来ない。
ただ、人間が手紙を運ばなくても、電報とやらは文字を送る事が出来るらしい。それだけは何となく分かった。
しかし、呪法では駄目なのだろうか。
「小夜子さんの式神でも、同じことが出来るのでありんすか?」
「式神に御手紙持たせたら、近いことは出来ますよ。でもそんなに遠くまでは飛ばせませんし、雨の日には濡れちゃいますよね。一也さん、電報って東京と横浜の間で連絡出来るんですよね」
「出来る、というか日本で最初に電報が開通したのが、東京と横浜の間だし」
「そんなに距離が離れていながら、文字を送る事が出来るんでありんすか!? 想像も出来やんことが、明治にはありんすね」
思わず、時雨はぽかんとした表情になってしまった。
電報は人力不要の仕組みらしい。それでは、江戸の頃に手紙や荷物を運んでいた飛脚は、もはや廃れてしまったのだろうか。
「飛脚は今は地方にしか残っていないですよ。けど、筆で手紙を認める文化も、それを運ぶ制度もありますね」
小夜子はそう言いながら、道路の片隅を指差した。
そこにあるのは、何やら四角い木箱である。
大きさは大人が一抱えするくらいであり、上の方には黒い口が開けられていた。
「あれは何でありんすか、ん、んん?」
時雨が目を見開いたのは、ちょうどその時、その箱に近づく男を見つけたからである。
警察官の制服に似た紺地の詰め襟服を着こんでおり、肩には大きな鞄をかけている。
男は箱の裏手に回り、そこをガチャリと開けた。
「ちょうど集荷の時間だったみたいですね」
「あ、あれあれ、あの方、手紙や封書を鞄に入れているでありんす」
「あれが飛脚に代わって、国が手紙や封書を届ける制度だよ。郵便って言って、明治四年から導入された。切手という印紙を事前に買ってきて、手紙に貼る。そしてあの郵便箱に投函する。あとは郵便局の職員が、あのように決まった時間に回収して、手紙に書かれている住所に届けてくれるって訳だ」
「えっ、お上が手紙を運んでくれやん? それもあの郵便箱いう箱に放り込むだけで?」
信じられないといった口調で問う時雨に、一也は事も無げに頷く。その横から、小夜子が口を挟んだ。
「そうなんです。昔みたいに一々個人で飛脚を捕まえて、料金交渉して、御手紙出さなくてもいいんですよ。書きたい時に御手紙を書いて、切手を貼って投函するだけなんです」
「あの郵便箱に入らないような手荷物なんかは、郵便局に持っていって運んでもらえばいいんだ。ま、民間の荷運び屋もいるから、その人達に頼む人もいるけどな」
驚き過ぎたのか、時雨はもはや言葉も無い。
百年近く前の江戸から見れば、明治の文化とは驚愕に値するようだ。
一方、これらは一也からすれば当たり前なのだが、それでも近代日本の夜明けが始まったという点では素直に頷ける。
「そういえば小夜子さん、実家に手紙とか書いてたりする? 東京に来てから結構経つけどさ」
「時々書いてますよ。今日は牛鍋が美味しかったとか、ミルクホウルで西洋のお茶を喫したとか。こう、文字にする度に目の前に飲食の記憶が甦り――って、一也さーん!? 時雨さーん!? 何処行くんですかあ、置いていかないでー!」
小夜子がはっと気がついた時には、一也と時雨が明らかに距離を開けていた。「まだまだ色気より食い気の年頃かあ」という一也の呟きが刺さる。
「あのお、一也さんって私の事、馬鹿にしてますよね! まるで食い意地しか張ってないみたいに!」
「えっ、違うんでありんすか。この前も順四朗さんが買うてきてた、あの魚の形したお菓子、ええと何でありんしたか」
「鯛焼きだろ」
「そう、鯛焼き! 小夜子さん、一人で三匹も食べはって!」
事実だけに言い逃れは出来ず、小夜子がぐぐっと言葉に詰まる。「だ、だって働いてたらお腹空くじゃないですかあ」と言い訳するのがやっとであった。
そんな小夜子を見て、一也は笑った。時雨も口許を着物の袖で抑える。
何だかんだと言いつつ、小夜子を見ていると微笑ましい気分になるのであった。




