雪中の石
血の描写が出てきます。人を喰う描写が出てきます。
鬼の部屋。蔵の窓から俯瞰されるのは鬼の部屋だ。灯火に照らされる床や壁は赤い跡がいくつも見られ、その中に黒い筋が張付いている。部屋の隅にある、奇妙な箱は鉄なのだろうか。大の大人が五・六人も入れそうな鉄の箱が、これまた鉄であろう二本の細長い棒の上に小さな車輪を乗せている。天井に行燈の光が届く事 は無く、女の上を闇が覆う。
そう、女。この女は鬼の部屋から奇妙なほど浮き、おぞましいほど調和していた。遠目から見ても美しい女は、灯火を傍らに部屋の中心に座り、人の腕を喰っていた。肉を噛む音が響く中ただ無心に、男の太い腕をただ無心に喰っている。
「ひっ」
敦之は小さく悲鳴を上げてしまった。悲鳴が聞こえたのか、女は敦之を向いた。その目はどんよりと沈み、口からは噛みかけの肉が見える。
視線が合った。そう思った瞬間に、敦之は逃げていた。
月はふくよか。雪風の無い、澄んだ空気を通る、月明かりが雪を照らす。
かんじきを交互に押し出す。月明かりを頼りに走る。時に体勢が崩れる。猟銃を落とさぬようにしっかりと握る。背中の荷物がざっざと音を立てる。
敦之が逃げ始めて間もなく、一陣の風が敦之を襲った。表面の粉雪を舞い上げ視界が奪われる。俯く顔を腕で庇いながら進もうとする敦之を風は容赦なく襲い続け、そしてふつりと大人しくなった。
顔を上げた敦之の目に飛び込んできたのは、白い肌に映える赤い唇。次に、冷たくも無いが暖かくも無い黒々とした瞳。すっとした鼻梁は凛とした顔をさらに引き立てる。艶やかな長い髪を全て後ろでまとめ、雪より白い首筋を舞う粉雪に晒す。月明かりを淡く柔らかく暖かに受ける着物を身にまとうその姿は、次の瞬間には消えてしまいそうな儚ない幻のようだ。
「お待ちください」
女は敦之の、眼前に立ちふさがっていた。
***
女は自らを小春と名乗った。人で無いとよくわかる、美しい女だ。
小春は敦之を家へと連れて行き、ある一室へと入れ、ある程度の自由を奪った。部屋は一人で使う分には少し広すぎる程度で、調度品が一つも無いから余計に 広く感じる。あるとすれば布団と行燈が二つのみ。戸窓が一箇所あり、戸を引くと格子の向こうに冬眠する山があった。荷物の中にあったのこぎりで格子を断ち切ろうと試みたが、不思議と歯が立たず、逆にのこぎりの歯が欠けてしまうほどであった。敦之はそれを荷物の中にしまった。
敦之。若い猟師である。腕はまったく良くない。ほかの猟師が兎を三羽獲っている間に一羽獲れればいい方。一度山に入って無駄玉だけ撃って帰ってきた事は何度もある。貴重な弾を無駄遣いすることは良しとされず、いつ猟銃を取り上げられてもおかしくは無いような男だ。
そんな敦之はこの家で数日を過ごした。ひどい扱いは受けていない。むしろ、暮らしは村よりもいいぐらいだ。しっかりとした食事が毎日三食与えられる。家の中を自由に動いていいし、厠も布団も使っていい。風呂も温かな湯が並々と入った湯船に身を浸けられる。村では早々考えられない事だ。そのほか、何かしたいと思えば何でもできた。ただ、外には出られないだけだ。
そんな日々を敦之は過ごしていた。
「あ、あの。村へ返してはくれないでしょうか」
とある夜。夕食後のお茶を、囲炉裏をはさみながら飲んでいる時に、敦之は小春に問いかけた。
「村へ、ですか」
涼やかな声が通る。小春は両手で湯呑みを包み膝の上に落ち着かせた。
「貴方の村は川上でしたね。町上の隣村であると言う。何で生計を立てているのでしょうか」
「猟と紅花です。こんな山じゃ米だけで年貢は賄いきれません。ですから猟と紅花で何とかやっています」
敦之は、不思議と小春を怖いとは思わなくなっていた。共に食事し、家の掃除や機織りを手伝わされるうちに、あのときの光景は嘘だったかのように思えてくる。自分は幻を見ただけで、山で迷った時に小春に助けてもらっているだけでないのかと。そう思えてならないのだ。
しかし、ことあるごとに外に出るなと言われると、その幻は幻となって散る。
「そうですか……」
小春は片手を頬に当てて考えるような仕草をした。首をかしげると、細い黒の線がはらはらと落ちる。
「実は悩んでいるのです。貴方を村へ帰そうか、帰すまいか。私はここで静かに暮らしたいですけど、貴方は川上の村ですから……」
「川上の村だと、どうして駄目なんですか? どうして町上が出てくるのですか?」
小春は手を膝の湯呑みに戻して少し笑いながら、しかし瞳を細めて敦之に問いかけた。
「お聞きになりますか? 私がここにいる理由を」
***
紅葉の頃。小さな女の子が村の入り口に立っていた。ぼろ同然の布を体に巻きつけている。履物は無い。見るからにやせ細り、今にも倒れそうである。当然、村の子ではない。
「どこから来たんだい?」
気が付いた村人が聞いたが、女の子はただ首を横に振るだけだ。
仕方なく村の集会所に連れて行くと、何か何かと村人がわらわらと集まってきた。村人は口々に問いかけたが、女の子はただ首を振るだけだった。
「捨て子かねえ」
「そうだろう」
「どうして私たちの村に」
「山奥に捨ててここに来たんだろう。かわいそうに」
「どうする。誰か引き取るか?」
「そうするしかあるまいが……」
誰も引き取ろうとはしない。不気味なのである。見知らぬ子ということもあるが、一言も話さないのが気になる。
もしかしたら喋れぬ子かもしれない。親もそれで捨てたのではないか。ある者がそう言い、仕舞いにはもう一度捨ててこようと言い出す者も出た。喋れぬならこの先不幸になる。今捨ててやった方がこの子のためにもなる、と。
「待ってくれ」
そんな中で一人の男が名乗りをあげた。
「譲ちゃん。一緒に住むかい?」
「うん」
この時初めて女の子は口を開いた。
「ならば今日からうちの子だ。名はあるか?」
「ない」
小さいが高く、かわいらしい声だ。
「ならばお前は今日から小春だ。小春日和の小春だ」
女の子は男に小春と名づけられ、晴れて男の家族となった。
男には元々の家族がいる。妻と一人の息子である。古くから猟と紅花で生計を立てる村であったため、妻は紅花を育てる人手に加わり、男は山へ猟に出ていた。男の腕は良く、一度山に入れば数人分の成果を上げてきた。
さて、息子はまだ小さくちょうど女の子と歳が近かった。村に歳の近い子供が少なかった事と、誰もが口数の少ない女の子を気味悪がって近づかなかった事があり、自然と二人で遊ぶ事が多い。最初は気味悪がっていた息子も、遊ぶに連れて口数がどんどん増える女の子に、だんだんと興味を持っていった。
それはいずれか、家族同様の親愛を生んだ。
「今日は竹馬だ」
「たけうま? おもしろそう!」
その様子を見ていたほかの子供も少しずつではあるが、女の子と遊ぶようになった。
また、男は小春に自分の事を父さんと呼ぶようにと言い、妻の事を母さんと呼ぶようにと言った。これで初めて、小春は男の家族となったのだ。
そして、時は流れる。
息子は一人前の猟師となり、小春は美しい娘に成長した。二人は仲睦まじく、少し前に結納の話が持ち上がった。男の発案である。村の誰もが望んだその話は、二人が顔を赤らめる事により決定した。小春の希望により結納は先延ばしされたが、二人はめでたく結ばれる事となった。
みなが祝うその出来事は、いとも簡単に崩されたのだが。
ある日。小春は紅花の世話をしている最中に、男の妻に呼び出された。集会所にである。数年後の結納に備えて準備があるから来てほしいと言われたのだ。
「母さん。結納の準備ってなに?」
「あ、ああ。ちょっと持ってくるからここで待ってておくれ」
そう言って、男の妻は小春を集会場の窓の無い一室に連れて行き、戸をぴしゃりと閉めて立ち去った。小春は男の妻の、少し慌てたような言動を不思議に思いながらも、待てと言われたので待つしかなかった。
小春はしばらく待った。しかし、男の妻が帰ってくる気配は無い。それどころか、さっきから物音一つしない。さすがに不審に思った小春は、戸に手をかけそっと引いた。
しかし、開かなかった。
おかしい。開かない。どんなに力を加えても戸はびくともしない。目の前の物がまるで戸の形をした岩のように、まったく動く気配が無い。しかし、この部屋にはここ以外に出口は無い。小春はたちまち混乱した。閉じ込められたと。
「誰か! 誰か開けて! 誰か!」
戸を力一杯叩く。しかし、誰かが来る事は無い。誰も来ない。ただ小春の声と、戸を叩く音だけが響く。
「開いて、開いて!」
祈りながら戸を叩き続ける。すると、不思議な事に今まで少しも動かなかった戸が、かたかたと音を立て始めた。横にも少しずつだが、ずれていく。小春ははっと戸に手をかけて思いっきり引いた。すると、戸は何事も無かったかのように、すっと開いた。
光に目が慣れてから周囲を見渡しても誰もいない。男の妻の姿は見えず、いつも集会所で話し合いをしている村長と村人たちの声も聞こえない。小春は怖くなりとにかく外へ向かった。廊下を走り、大きな部屋を通り抜けて近道し、草履を履いてこれまた閉じられている土間の戸を開けると――
「来たか妖怪」
集会場の周囲に立てられた柱。その間を張り巡らされた荒縄。荒縄に貼り付けられた何十枚と言うお札。そして小春の目の前に立つ法衣姿の老婆と、その後ろで猟銃やくわ、かまを構える村人たち。
「随分と出てくるのが早かったのう。妖怪には開けられぬように戸に札を貼ったのだが、あれをいともたやすく破ったところを見ると、随分と凶悪な妖怪じゃな」
小春は呆然と立ったままだ。目の前の状況に追いつけず、何も言う事ができない。
「小春お前、妖怪だったのか」
男が言った。その声で小春ははっとした。
「父さん違う! みんな何してるの。私は妖怪なんかじゃない!」
「ほう。ではこちらまで来ていただこうか。この結界を抜けられたらぬしは人間じゃ。良いな?」
そう言って老婆は荒縄の外まで下がった。
「できるのじゃろう?」
「それは……」
小春はためらってしまった。十数歩だけ進めば荒縄をくぐれる。しかし、小春の足は依然として進まない。
これが、小春が妖怪だと言う証拠となった。
「村の衆! こやつは人に混じり好機を窺い、村人全てを喰らおうとした妖怪じゃ! 生かしておくでないぞ!」
村人は無言で猟銃を構えた。全ての銃口が小春を向く。その中には、小春の父がむける物もあった。
小春の全身に冷水がかけられ、頭の中が熱くなる。
そして、銃口が一斉に火を吹いた。
***
「そのあと、どうなったのですか?」
敦之は、すっかり冷めてしまったお茶を片手に、囲炉裏の火を見つめながら尋ねた。小春は湯呑みに両手を添えたまま何も動かず、口を開いた。
「傷を負った私は、命からがら谷を越えて山奥へ逃げ帰りました。しかし、老婆が何か入れ知恵をしたのでしょう。しばらくすると、村人が私を殺しにやってきました」
はっと顔を上げて、敦之は小春を窺った。小春は目を伏せ、先ほどの敦之と同じように囲炉裏の火を見つめている。
「最初は何とか追い返していたのですが……段々と激しくなってきまして、ある時」
湯呑みを包む小春の手に、自然と力が入る。
「ある時一団全員を、殺してしまいました」
「全員……」
殺した。敦之は空気だけを吐き出す。
「それからは堰が切れたと言いますか、何と言いますか。村人が来ては殺し、来ては殺し、殺しては喰い、殺しては喰い。逃げた者は村に私の恐ろしさを伝え、その話は瞬く間に広がりました」
小春は湯呑みを包む手にさらに力を入れ、微かに口を歪ませた。
「挙句の果てには江戸まで届いたようで、鎧武者や法師がぞろぞろとやって来た時は、それはもう可笑しくて可笑しくて……」
ふっと言葉が途切れた。指先から力が抜けていく。歪んだ口元が元に戻る。先の言葉を恐れながら聞いていた敦之は、その様子を黙って見守るしかなかった。
「それが、そうですね、七十年ほど続きましたか。来る者もほとんどいなくなった頃、独りの法師がやってきました。今すぐにでも死んでしまいそうな爺です。爺を喰っても旨くは無いので、その時はすぐに追い返そうとしたのですが……」
小春の雰囲気が変わったと、敦之は強く感じ取った。
「どうなったのですか?」
小春は口元に笑みを浮かべ、実に嬉しそうに言った。
「逆に封印されてしまいました。法師と、ある程度の取り決めをして、この家に縛り付けられたんです。動けるのは家と家の周辺のみ。そして餌さえも与えられて、矜持がぼろぼろになっています」
「餌って、あれですか……?」
鬼の部屋の光景が脳裏に甦った敦之は、背筋の寒気を気にかけつつ小春に聞いた。
「ええ。法師との取り決めで、町の罪人が村を通してここまで送られてくるんです。それを喰えと、言われました。人など喰いたくは無いのですが……そのおかげで生き長らえているのも事実です」
鬼の部屋はそのためのものだった。
「い、今までの食事は……」
「大丈夫です。人の肉は入れていません。人に人を食わせるなど、酷過ぎるでしょう」
全身の毛が立ち上がった敦之は、ほっと胸をなでおろした。そして、ずっと胸につっかえている言葉がすとんと腹に落ちてきて、すっと口から出てしまった。
「村に行ったのは、何故ですか?」
「それは……」
小春の表情が元に戻る。目を伏しがちにして囲炉裏の炎を見つめ、口元の歪みは消え、嬉しそうな気配はどこかへ行った。
「人に、混じりたかったのでしょうか。ずっと見ていたんです。笑って悲しんで怒って、また笑って。相手を気遣い合う家族や村。次第にそういったものが、どうしようもなく暖かく思えて、手に入れたいと思って、どうしても、あの中に入りたくて」
ああ、と敦之は思う。
「詰まる所、人間になりたかったんだと思います。だから人の子になって、同じ様に育って、あの人に恋をして……でも、やはり妖怪は受け入れられませんでした。妖怪は駄目なのです」
ああ、と敦之は思う。
「私も、私もあなたと同じです。村に移ってきて、しかし受け入れてもらえません。あの暖かい輪の中に私は入れてもらえないのです。怖くて進んで話す事もできず、冷たい目で見られ続けて、村は地獄です」
頭を下げて吐き出すように、敦之は訴える。
「お願いです。私を喰ってください。もうあんなところは嫌です。親兄弟はみな死にました。思い残すこともありません」
そんな敦之を、小春は不思議そうな顔で眺める。
「村に帰りたいのではないのですか?」
「しばらくしたら村から逃げるつもりでした。でもあなたに喰われるなら別にいい。お願いします」
敦之は一向に頭を上げない。すると小春は、ふふうふふふ、と笑い始めた。
「大丈夫ですよ。勇気を持って輪に割り込みなさいな。最初は辛いだろうけど、みんな良くしてくれますよ。なんたってあなたは、貴方は彼らと同じ、人なのですから」
その言葉は、敦之の胸を激しく荒らした。胸の奥が熱を帯びて、どうしようもなく落ち着かない。胸を掻き毟っても、どれ程押さえつけても、どうにもこの荒れ狂いは治まりそうに無い。
これがなんなのか、何を表しているのか、敦之にはまったくわからない。
「村へお返ししましょう。ただし私のことは話さないでください。川上の村は私を知りませんし、知って退治されるのも嫌です。封印されているのですし、死ぬまでは静かに暮らしたいと思います。よろしいですか?」
敦之は頭を上げ、何か言いたそうな目で小春を見つめたが、すぐにまた頭を下げた。
「わかりました。山の神に誓ってお守りします」
***
翌日。夜明けとともに、敦之は小春に示された方角へと足を進めていた。
目の前に獲物が飛び出そうとも猟銃を構える事はしない。敦之は、ただただ物思いに耽ながら歩を進める。
村へ帰ったらどうするのか。やはり、春と同時に逃げ出すか。準備は整っている。道々で追い剥ぎの真似事をすれば、金の問題はない。曲がりなりにも猟師をやっているのだ。そこら辺の人間よりも体力に自信がある。
「本当に……これでいいのか」
迷いは断てない。
小春の言った通りに村に留まるか。人の輪に入るか。しかし、そんなものは地獄でしかない。受け入れるはずが無い。大勢の中にいるのに孤独を感じるなんて、なんて拷問なんだ。やはり、駄目か。
しかし、胸に張り付く小春の一言がその決心をどうしても鈍らせる。
終わらない思考の中、気が付けば敦之は見慣れた木々の間を歩いていた。村の猟場に辿り着いたのだ。このまま行けば村に着くことは必死。どうすればいいのか、敦之は決めかねていた。
「敦之!」
突然名前を呼ばれた。顔を上げると、前から数人の村人が駆け寄ってきた。
「敦之大丈夫か?」
「怪我はしとらんのか。骨が折れてはいないか?」
「食い物はどうした。幹でも何でも剥いで食べたか?」
口々に敦之を心配する声が出てくる。体は冷えていないか。雪崩にでもあったか。村のみんなが心配している。早く帰るぞ。
「心配、しているんですか? この私を?」
唖然とした敦之の口から無意識に言葉が滑り落ちた。
「何言っとる。当たり前でないか」
「村人を心配せん村人はおらん」
「小池下のゆみちゃんなんて、毎日神棚にお参りしておったぞ」
ああ、と敦之は思う。
「いていいのですか。私はいていいのですか。あの村に、私の居場所があるのですか」
村人は顔を見合わせて、不思議そうに言いました。
「お前は村人じゃ。村に居場所があって当たり前じゃろ」
ああ、暖かい。
敦之の視界が歪む。
雪は溶け始めた。
どうも、紅炎です。
落選作品です。三日で仕上げりゃそうなるわなって奴です。
一週間推敲してもこれ以上品質は上がらないって言う悲しみ。
テーマも審査員受けが悪いのでしょう。うん。一番悪いのは私の書き方だろうけど。
これ、まじめに批評批評批評とか、評価とか欲しいです。お願いします。
読んでくださりありがとうございました。
では、失礼します。