上を向く、自動階段。
足に少しくる振動。
腕には、ゴム質の感触。
僕はいつのまにか、エスカレーターに乗っているようだった。
なんで、エスカレーターに乗っているかというのか、
そういった前後の記憶を掘り返そうとするも、なかなか思いだせない。
強いて思いだせるのは、蒲田宗治という名前くらいだった。
記憶の欠如による不安から、ふいに視線をあちこちに動かした。
そこは、どこかのデパートのようなところで、自分の右手の方には壁、
左の方には、もう一つのエスカレーターのようだった。
デパートのようなところ、といっても自分のイメージで、壁とエスカレーター以外確認できない。
先ほど視線を動かしている間に、高所恐怖症ということに気付いて、
それから下を覗けなくなってしまった。
と、同時に下がどうなっていたのかも記憶が飛んでしまったようだった。
それにしても静かな場所だなぁ、と
ふとそう思ってしまうほど、ここは静かな場所で、
普段は気にしないエスカレーターの機械音が目立っていた。
呟きが自分に言い聞かせたみたいに、僕の心に落ち着きが戻ってきた。
右手にあるゴム質のベルトコンベアーの動きで、どうやら上に向かっていることにようやく気付いたぐらいだから。
しばらくして、僕はある違和感に気付くことになる。
――このエスカレーター、いつになったら着くのだろうか、と。
首を横に振れる範囲で確認できる景色は一向に変化を見せない。
同様に、上を仰いでも、目に映るものは変わらないように思える。
はぁ、と溜息をついていい加減立ちっぱなしも疲れたので、エスカレーターの階段部分に腰を下ろした。
そうした直後だろうか。
今まで無機質な機械音が支配していたこの世界で、新しい音が現れたのは。
「ねぇねぇ、おかあさんってば」
声変わりも済んでおらず、男女と判別できない声が隣のエスカレーターから聞こえてくる。
何もない変化に飽き飽きしていた僕は、人の視線も気にしないような目線を声の方に向けた。
「はいはい、聞いてるって。何かな?」
やさしそうな、女性の姿とその女性の腰ぐらいに顔が見える少年が仲良く並んで話し合っているようだった。
「きょうのばんごはん、なににするの?」
「あらあら、くいしんぼうさんねぇ」
にこやかに笑うその女性に、僕はなぜか見覚えがあった。
ふと声をかけたくなったが、喉が塞がったように僕の口から音は発せられなかった。
次第に、談笑している二人の姿が下に流れていく。
なんだか名残惜しいようで、微笑ましいようで。
そんなことを思っているうちに、隣から声が小さくなっていった。
ふと寂しい思いに近い感情が湧いてきた後、
それはまた新しい好奇心によって打ち消されていた。
またもや、左隣から声である。
今度は、背丈がだいぶ同じであろう少年と三十代後半の女性がこの動く階段によって流されてきたのだった。
「なぁ、今日の晩飯はなんにするんだ?」
「ふふっ、昔から変わらないね、この子は」
「うっせぇよ」
聞く耳を立てて、会話を盗み聞きしていると、どうやらまた食事関係のようである。
二人の姿をじっと見ると、なぜかやはり見覚えがある。
感情任せに、言葉を放とうとしてみるも、やはりでない。
口をパクパクと開くだけで、あちら側から見ると魚が餌をもらう時の動作に似ているような、アホ面を引っ提げているように思える。
赤面して顔を下げている間に、無情にもエスカレーターは流れていく。
そして、人影は高所恐怖症には無理であろう範囲へと飲み込まれていってしまった。
なんだか知らないが、僕は次にも人が流れてくるであろうという確証めいた自身が湧いていた。
二度あることは、三度あるのではないか。
期待感に満ちた心持ちで左隣を眺めていると、
今度は今までより速いスピードで影が隣のエスカレーターから駆け下りてくるのが見えた。
だが、その時の僕はなぜかそれがスローモーションのようにはっきりと捉えることができた。
必死に焦った表情にあった身体の躍動感。
それを見てなぜか僕は、
「これ以上、先へは行くなっっ!!!」
と思っても見ない怒鳴り声で叫んでいた。
だが、その影――先ほどの少年の成長した姿――はその声がまるでなかったかのように、一直線に、下へと突っ込んでいった。
走っていない僕の方が息切れをしている。
怒鳴ったせいだろうか。
深呼吸と共に、瞬きを何回か繰り返す。
瞼を閉じた瞬間に、瞳に閃光が駆け抜ける。
これが、フラッシュバックって奴か、という実感もなく脳が映像を運んでくる。
先ほどの知っていた女性。
その女性が誰なのか。
そしてその隣にいた、少年は誰なのか。
霧が晴れていくかのように、視界がクリアになる感覚を味わう。
思い出した。
僕は、その少年がその後どうなるのかを思い出していた。
――僕の記憶が正しければ、その少年は勢い余って階段から足を踏み外し途中で転落。
意識を失い、それから――
そして、その理由を作り出したといえるのが少年の隣にいた女性、彼の母親の存在である。
病弱で、寿命もそろそろという状況という、いかにもありそうな展開に、
少年は最後に、母の好物を思い出の場所で買おうとしていたのだ。
その焦りが、少年の命を奪った。
そして、僕の罪悪感とも呼べる感情は――ここから来ているものだった。
目頭に熱がこもっていく。瞼から抑えきれない涙があふれ出てくる。
そして、僕はそれを抑えようとは到底思えなかった。
涙も収まらぬまま、僕は力の抜けていた膝に活を入れる。
足の裏に渾身の力を込めて蹴った。
それは連続した蹴りで、僕の下にある流れていく段差とは反対方向の運動を生みだしていた。
涙が出る度に、悔しくなった。
涙が出る度に、力が湧いていった。
逆向きにかかる力に反発しながら、僕は見えないゴールへと突っ走る。
恐怖症でおびえる心を叱咤しながら。
そういえば落ちたから高所恐怖症になったのかな、と呑気な考えで打ち消しながら。
僕はひたすらに落ちていく。
変わらない景色の中で、ふと僕は隣に何かとすれ違った。
それは僕の膝から十分に力を奪うもので。
逆に涙が増えるもので。
そんな、大切な大切なものが。僕の横をすれ違っていった。
途端に来る無気力感。
それにやられて、僕の肩が落ちた。
進行方向をぐるりと変えて。
僕は静かに上を仰いだ。