45.幻想具
目を覚ました時には全てが解決していた――そうだったならどんなに良かっただろう。肌に刺さる不吉な気配とリアの厳しい表情を見て、クリスはまだ何も解決していないことを悟った。
周囲を見渡せば、ここは先ほどまで立っていたはずの農場ではなかった。乾いた硬い土の地面がどこまでも平坦に続いていて、大木のような太く長い岩の柱があちこちに立っている。どこを向いても同じような景色が広がっていて、生命の気配がまるでしない。空に浮かんでいるはずの太陽は分厚い雲に完全に隠されていた。
「クリス君、大丈夫ですか」
「ゲホッ、……あ、あのひとは一体何者なんですか」
とんでもないプレッシャーだった。とても人間だとは思えない。そんな感想と自分が口走ったことが交じり合って、クリスはふとある結論に思い至った。
「まさか、あの女が魔王なんですか」
しかしリアは首を横に振る。そして彼女から正体を教えられたクリスは絶句して――なぜか気分が高揚していることに気がついた。「このままでは逃げられそうにないです」という絶望的な見解を告げられても、まるで恐怖を感じないのだ。
「フェリン、でしたっけ。相当怒っていましたね」
「……クリス君?」
どうせ死ぬのなら足掻いてやろう、なんて前向きな結論を出せないくらい圧倒的な力の差を感じたのに。人の体は強すぎる痛みを受けると逆に感覚が鈍くなるが、今まさに精神がそんな状態になっているのかもしれない。それとも自分は壊れてしまったのか。
クリス自身にもよくわからない。ただ、気分が良いことだけは間違いなかった。
がしゃん、と割れるような音がする。反射的に上を向くと暗い光が明滅していた。針の先ほどの点が一瞬で大きくなり、周囲を覆うように生じている青い光の幕と衝突した。
規則的な間隔で青い幕が悲鳴をあげる。恐らく今もフェリンに攻撃されているのだ。既に亀裂が生じているこの状態では、あと数十秒もすれば壊れてしまうだろう。
「安全なところってありますか?」
クリスの意地悪な問いかけに、リアが降参するように首を振る。
「ここから脱出するためには、この空間に相当の負荷をかけて穴を空けるか、フェリンさんに相応のダメージを与えるしかありません」
どちらにせよ、あの化物と戦うことは避けられない。クリスは短剣を握り締めて、その結論を歓迎するように小さく笑った。
* * *
黒い点のような光が灯り、直後にまっすぐに伸びてくる。クリスが微かに右へと重心を動かすと、それにすら反応して光の軌道が変化する。全力で体を投げ出しても圧倒的な速度からは逃げられず、貫かれた膝付近から血が吹き出た。
声が漏れてしまいそうな痛みだが、直後にリアによって癒される。そうなることが分かっていたからクリスは足を止めずにフェリンへと向かう。両手に光る銀の刃に雷を纏わせて、褐色の体へとまっすぐに突き刺した。
しかし届かない。刃が褐色の肌に触れる前に黒炎が激しく燃え上がり、まるで盾に突き刺したような手応えが伝わってきた。
驚きに目を見張るクリスの手元で魔を切り裂く銀の刃が軋む。このままでは壊れてしまうと直感したクリスは咄嗟に腕を引いた。
「……え?」
一瞬だけ、フェリンの身体が消えたような気がした。
何か魔術でも使ったのかと緊張したが、それにしては何も起こらない。やっぱり気のせいかと頭を切り替え、次の手を模索していたクリスの目の前で相手の指が天を指す。
つられるように指の先を見上げると、巨大な黒槍が次々と天から降ってきた。
降り注ぐ槍がクリスの逃亡ルートをなぞるように次々と地面にめり込んでゆく。辛うじて回避を続けていたが、視界の端に見えた黒い光に意識を奪われた直後に左足に激痛が走った。地面から生えてきた黒い槍に足の先を貫かれて、その場に縫い付けられたのだ。
慣性力が全身を引っ張って左足が嫌な音を立てる。叫びたくなるほど痛くても、そんなことに構っていたら命を失ってしまう。クリスは縫われた左足の甲を中心にぐるりと体を動かして、心臓を狙っていた黒い光から辛うじて身を隠した。
「……ッ」
傷口が広がる痛みに歯を食いしばる。黒槍を両手で掴み、燃えるように熱いそれを一気に引き抜いた。それを待っていたかのように癒しの雨が降り注ぎ、あっという間に出血が収まってゆく。クリスは痛みを振り払うように左足を乱暴に動かして、問題なく使えることを確認する。
しかし、クリスの顔は苦痛に歪んだままだ。血は止まっても残像のように居座る痛みはなかなか治まらない。まるで空気が希薄になっているかのように息苦しく、まだ数分も経っていないのに呼吸が激しく乱れていた。
「……ッ、どうしよう、かな」
このままでは手も足も出ない。両手に光る短剣を握り締めながらクリスは考える。
魔族の王に妹がいるなんて話は知らないが、この圧倒的な強さを見せつけれられれば認めざるを得ない。回復の助けが無ければ既に三回以上は死んでいるはずだ。兄に仇なす不届き者に手加減するわけもなく、相手の攻撃は一撃一撃が致命的な重さで、加えてこちらの攻撃はまともに当たらない。全力をもって繰り出した自分の一撃が全く通じなかったのだ。片手一本だったが、仮に両手の短剣を同時に突き刺したとしてもそれは変わらないだろう。
だったら、他の手に賭けるしかない。
倒すべき相手は何も言葉を発しない。ただ機械的に黒い光や槍を繰り出してくる。その動きに規則性はないが、攻撃間隔だけは常に一定だった。付け入る隙があるとすればそこしかない。
黒い点が伸びてくる。それに背を向けてクリスは走り出した。
ぐるりと囲むように立つ岩柱の側面に手を触れて、すぐさま離れる。黒い光に身体を貫かれても足だけは止めないで、ひたすらその行動を繰り返したクリスは十個の岩柱に手を触れた。そして最後にもう一つ、一際大きな岩柱の根元に手を触れて、意を決して背後を振り返った。
クリスが使う魔術は一般的な範疇から外れている。幻想具と呼ばれるそれは、想像した物を魔力を用いて具現化し、実際の道具のように使うというものだ。
彼が創りだす道具は、一言で表せば"紐"だ。
ただの白い糸を小指ほどの太さに縒り合わせたような外見をしている。それは任意の長さに伸ばすことができて、触れるだけでどんな物にも簡単に接着できる。耐久力も普通の紐と比べれば遥かに高い。
この便利で頑丈な紐の最大の特徴は"力の伝達"が自在にできることだ。
例えば二つの紙風船を紐で繋ぎ、片方にだけ潰れるような衝撃を加えると、もう一方の紙風船も潰れてしまうのだ。繋げられる数の上限は100個までだが、多くのものを繋げることは滅多に無い。意図しないものにまで衝撃を与えてしまえば事故になってしまうから、クリス自身が確実に把握できる範囲でのみ使うことにしている。
この紐を使って岩柱同士を繋げた。そして左手に持つ短剣にも繋げてある。あとは発動さえすれば紐が具現化して衝撃が伝わるようになる。
狙いが成功する確率は希望を込めて半々といったところ。岩柱の重心がどちらを向いているのかも把握済みだが、計算が間違っているか、最初の一手をしくじればそれで失敗だ。
クリスは手にした短剣を目の前に掲げて、奥歯に力を入れた。
鍔が大きいこの短剣は相手の攻撃を受け流すことに長けている。何度も体を貫かれて目が慣れてきた今ならきっと成功する。
クリスは大きく息を吸って、肺の中身を空にするように吐く。そして半分ほど息を吸ったところで止めた。
前回の攻撃からきっかり三秒後に黒い光が生じる。針の先ほどの点がだんだん太くなって指先ほどになり、心臓目掛けてまっすぐに伸びてくる。
光が生まれてから体を貫くまでの時間はまさに一瞬。クリスは反射的に避けようとする体を意思の力で押さえ込んで、大きな鍔に光を当てた。
「痛ッ!」
完璧に成功したのに、まるで感電したかのようにダメージが腕を伝ってくる。それでも光の力は狙い通り紐を伝い、最後に触れた大きな岩に吸い込まれていった。
根元を大きく削られてグラリと岩の頂点が大きく揺れる。それを確認する前に、クリスは防御を一切考えないで前へ突き進んだ。
次の攻撃が来るまでの猶予は三秒。相手までの距離はクリスの歩幅で十歩以上。あと少しの間合いを詰めきれずに肩を貫かれて血飛沫が舞う。それでも前へと進む。進まなければならない。次の三秒がやってくる前に間合いの内へ飛び込んだクリスは、両手の短剣を相手へと突き出した。
褐色の肌に刃が刺さる寸前に黒炎が燃え盛り、硬い物にぶつかったような手応えが返ってくる。当然のように受け止められてしまったがこれは予想の範疇。大切なのは、相手をこのまま釘付けにすることだ。
相手は密着する敵に攻撃する手段を持っていない……はずだ。最初に詰め寄った時には警戒するあまりすぐ離れてしまったが、それでも攻撃するだけの時間は与えてしまっていた。なのに相手が何もしなかったのは、攻撃する手段を持っていなかったら。そうとしか考えられない。
クリスは自らを鼓舞するように叫び、相手を押さえ込むように短剣を持つ手の力をさらに込める。炎に炙られて感じるはずの熱さが感じられない。それがどんな理由によるものかを考える余力も全て腕に込めて、小さな全身のありったけの力を振り絞って――とてつもなく長く感じた時を耐え切った。
「――来た!」
グラグラと揺れていた大きな岩がこちらへと傾いて、広げた両腕よりも幅がある岩の柱が重力に引かれるままに勢いを増す。それに引きずられるように周囲の柱十本が傾いて、クリスたちを押しつぶすように次々と崩れ落ちた。