33.氷vs炎
「……えーと」
魔剣術士クラリスは、目の前に立ち塞がった生物について思い悩んでいた。
全身を護る銀の甲冑が困惑する主の心のように鈍く光り、まっすぐ腰のあたりまで伸びた髪が覇気なくユラユラと揺れている。丸っこい目を半分ほどに細めて首を右に傾けた。
「ここから先は、この私が一歩たりとも通しませんっ」
目の前に立ち塞がるのは、顔を上から半分以上覆う真っ黒のマスクを被り、今日の日差しには不自然すぎる襟巻きをぐるぐると首に巻きつけて、さらに体型がわからない位にモコモコとデタラメに着込んでいる謎の生物。背丈はクラリスの胸ほどで、全身のシルエットは丸い。
余計なお世話かもしれないが、防御力以前に自分の邪魔にならないのだろうか。そんな感想を浮かべたクラリスの首が今度は反対側に傾く。
「さっさとパージと合流しないと怒られちゃう」
ともかく、自分の前に立ち塞がる以上敵意ありとみなした方が自然……なんだろうか。今までに遭遇したことがないタイプに困惑して、彼女は対話からはじめることにした。
「えーと、アンタはアタシと戦いたいの?」
「はい。大人しく帰ってもらえるなら、それが一番いいですけど」
「それはムリ。……それにしても、そんな格好で? アタシにはとても戦う格好に見えないんだけど――」
困惑が続くクラリスの視界に何かキラキラとしたものが出現する。何事かと目を凝らして一歩を進めた彼女から、ザリッと硬い何かを引っかく音がした。
「いやー、今日は寒いですねー」
「ちょ!? ちょっと待って、どうしてアタシの脚が凍ってるの!?」
「今日のお天気は、晴れときどき吹雪ですから」
「イヤイヤ、この辺りで吹雪なんてあり得ないし! そもそもどうしてアタシの周りだけ……ってまさか、その格好――」
ここに至ってようやく正しく認識する。この異常気象は目の前のヘンな相手が巻き起こした人災なのだ。
氷は既に大腿部にまで侵食し身動きが取れない。クラリスはあちゃー、とまだ健在な右手で目を覆った。
「このまま、大人しく凍ってくれると嬉しいんですけど」
「――このアタシをあまり馬鹿にしないでくれる?」
ガントレットに覆われた右腕に赤い光が灯り、それを起点に彼女の全身が一気に発火した。
膨大な熱量が甲冑にこびり付いていた氷をジュウウ、と一気に蒸発させる。具合を確かめるようにぷらぷらと足を動かして、クラリスが直刃の黒剣を手に取った。全身の炎が黒剣に集い眩いほどに燃え盛る。「せーの」とやる気が無さそうな掛け声と共に一閃すると、周囲の冷気が熱風によって全て掻き消えた。
「アンタみたいなのと遊んでいる暇は無いの。これ以上邪魔するなら本当に殺しちゃうわよ?」
「そんな簡単に人を殺す、なんて言っちゃダメですよ」
脅したつもりだったのに、余裕の態度でそう返されてカチンときた。黒剣が光を放って熱を撒き散らす。そのまま腕を振ると、相手の周囲にいくつもの火柱が巻き起こった。
「あれ、思ったよりずっと可愛い女の子ね」
火柱が溶け合い渦となった陰から現れたのは一人の少女だった。戦場に似つかわしくない清楚な姿はまるでどこかの令嬢のようだ。いつの間にか手にしていた大きな剣がなければ、とても戦うような格好には見えなかった。
美しい刀身といい、柄に施された見事な意匠といい、まるで稀代の名工が創った業物だ。全身がほのかに青白く発光していることから魔法剣の類だと思うが……なんだろう、あの剣はどこかで見たことがあるような気がする。
何だっけ、と頭を捻るクラリスの目に、ガントレットに刻まれた自国のエンブレムが映る。そうだ、あれになんとなく似ている気がするのだ。
「……なんて、んな馬鹿な」
そんなことはありえない。聖剣エクスガリオンは今も所在不明の、文字どおり伝説の剣なのだ。こんな小さな国の人間が持っているなんて笑い話にもならない。
クラリスは妙な事を考えた自分を小さく笑って、頭を切り替えた。
それにしても、コイツはとんだ食わせ者だ。全身火傷になるはずの一撃を涼しい顔で回避するのはフレイにすら難しい筈。細い腕にはまるで似合わない剣を軽々と振り回す様も、相手に気付かせず魔法を発動する手際も警戒に値する。
「わかってるよエクちゃん。早く倒してロベリアさんの所に行かなきゃね」
「誰と喋ってるのよ……つーか、このアタシを雑魚扱いとはいい度胸ね?」
不遜な態度に鋭い歯を剥き出して笑う。黒剣を両手で水平に掲げると、クラリスの周囲から爆発するように炎が顕現した。周囲の雑草を一瞬で燃やし尽くす程の熱量が発現し、空気がぐにゃりと揺らめく。
《――爆ぜろ》
黒剣を握る手にグッと力を入れた瞬間、相手の足元が炎に包まれた。
しかし当たらない。一呼吸前には既に前へと跳んでいた相手の剣が、水を纏って迫ってきた。
「ッと」
肩口を狙ってきた一撃を辛うじて受け止める。予想以上に速く重い。おまけに外見からは想像もつかない軌道で幾重にも打ち下ろしてくるので、攻撃に転じるのが難しい。炎の剣と水の剣が何度も互いを削りあった後、大上段からの一撃をクラリスがやや強引に押し返した。
押された敵の足が地に付く瞬間を狙って剣先を伸ばす。相手は剣の腹でそれを受けて、衝撃に逆らわずふわりと後ろに着地した。
《――命を刈り取る炎よ。我の激情を糧に猛り狂え――》
安息の時間など与えるつもりはない。クラリスは燃え盛る黒剣を逆手に持つと、距離が開いた相手の足元目掛けて投げ放った。またしても避けられるがそれは織り込み済み。本命はこの後だ。相手が見せた驚きの表情に満足して叫ぶ。
《――吹っ飛べ!》
地面に突き立った黒剣が、地鳴りを引き起こすほどの爆発を引き起こした。
炎が渦を巻きながら上昇し、夕焼けのように染まった視界が徐々に正常に戻ってゆく。サアッと風が吹いて濁った空気が流されると、爆発付近にあった岩が焼け焦げて墨のようになっていた。周囲の土はすり鉢状に抉れ、吹き飛んだ黒い土が周囲に散乱していた。
「……ふん」
周囲に動くものはない。音は……風に乗って兵士の喚き声が微かに聞こえるが、静かなものだ。さすがにやりすぎたかと頬をかく。その肌が何かにチリチリと炙られるような痛みを感じて、クラリスは空に視線を移した。
「んなッ!?」
視界いっぱいに浮かんでいた大量の水にぎょっとする。ぽかんと開いた彼女の口へ飛び込むように大量の水がどばっと降り注ぎ、まだぶすぶすと燻っていた周囲を洗い流すように地面を覆いつくす。ついさっき造られたすり鉢状の窪みに水が溜まって、ちょっとした池になっていた。
全身がずぶ濡れだ。クラリスは張り付いた髪を乱暴に後ろへと撫で付けて顔を拭う。胸元に目を落とせば、強固な鎧の僅かな隙間からチョロチョロと水が漏れていた。冗談じゃない、こんな間抜けな状態で――
「――こんな状態でまた寒くなったら、どうなると思います?」
耳元で囁かれた声に、血の気が引いていく音を聞いたような気がした。目を凝らして声の主を探すが何故か見つからない。明らかに浮き足立つ彼女の背中をポンポン、と叩いた誰かが「ごめんね」とだけ言って――
* * *
「思ったよりも手間取っちゃいました。難しいよねエクちゃ……ん? 大丈夫だよ、このくらいじゃ死なないからね」
キラキラと光を反射する氷像を背にして、リアが手元に語りかける。右の手が押さえている腹部の辺りが赤く染まっていて、小さな雫がポタリと垂れた。
「みゃ?」
「もう、こんな危ないところで遊んでたらダメだよ。死んじゃうから」
足元で甘えるように鳴いていた子猫の頭を撫でる。小さな舌に舐められてくすぐったそうに笑った彼女は「気をつけて帰ってね」と残してテクテクと歩いていった。