15.宝玉の間・1
ハイグレイ王城の後方に広がる森は、神聖な森だと教えられる。この国を守る神様がそこに居るからみだりに入ってはいけないと、子供の頃から口煩く教えられる。
ひっそりと広がるそこには何もない。美しい花も、甘い実をつける木も、日々の糧になる動物も何もない。虫すら禄に見かけない。
誰からも見向きされない只あるだけの森だが、その周囲は国に厳重に監視されている。深く立ち入るほど凶悪になる罠が至るところに張り巡らされ、森の周囲は常に交代で見回りが立つ。ただ、見回りの兵士ですら何故その森を守る必要があるのかを知らない。そして何故か誰もその事に疑問を持ったりしない。
サキはラインハルトの腹心として一度だけ案内されたことがある。万一の時は何を差し置いても、例え王を見殺しにしてでもこの神殿を死守せよと教えられた。
この場所の存在はごくごく一部の人間しか知らないので決して口外してはならない、とも教えられた。そう教えたラインハルトが見たことが無いほど厳しい表情をしていたのを、サキは良く覚えている。
入り口は小さい。知らなければ只の岩の集まりにしか見えないその隙間に体を潜り込ませると、中には驚くほど広い空間が待っている。長く伸びた天然の通路には仄かな明かりがポツポツと並んで辺りを薄暗く照らしていた。
「…………。」
サキの目が訝しげに動く。入り口から近いこの通路には蜘蛛の糸のような細さの封がされているはずだった。それを切れば仕掛けが発動し、侵入者を更なる地下奥深くに叩き落し、そのまま朽ち果てるまで封印してしまう筈だ。しかし床に罠が発動した形跡は無く、ただ糸が切れている。
(誰かが先に侵入している? 罠を解除して?)
サキはそう考えたところで、あの忌々しい金髪の男が何やら楽しげに吐いていた言葉を思い出した。
サキの思考が一気にして沸騰する。駆け出したくなる衝動そのままに足を動かそうとしたが、グッと歯を噛み締めてそれを耐えた。
(……ダメだ。落ち着け)
背中に感じる壁にぴたりと身を寄せ、息を吸う。一瞬止める。ゆっくりと時間をかけてそれを吐き出す。
もう一度。
息を吸う。サキは落ち着けと自らに言い聞かせながら、細心の注意を払って息を吐いた。
まるで存在を消してしまうかのように息を潜める。目蓋の瞬きすら聞こえてしまいそうなこの無音の空間は、王ですら勝手に立ち入る事が許されない場所なのだ。サキがここに存在する理由なんてどれだけ探しても見つからない。
ゆえに、バレたらそこまで。
サキの過ちは、すなわちラインハルトその人の過失となる。いくら「自分が勝手にやったこと」だと主張した所で、主が責任を問われる事は避けられない。絶対に、絶対に失敗など許されない。
一瞬ごとに血を巡らせる鼓動の音がうるさい。じわりと滲んだ汗を拭った。愛刀を握る手が肝心な時に滑らないように、そっと握りなおす。ただの兵士の見張りならばここまでの緊張などしない。ここの守護者は、人間ではないのだ。
サキの耳と肌が相手の気配を捉えた。圧倒的な威圧感を受けて勝手に震えだそうとする体を押さえ込み、気配を殺す。
(大丈夫、まだバレていない)
強すぎる気配ゆえに感じ取ることは容易だった。歪な十字に伸びる薄暗い通路の奥で、そいつが周囲に目を光らせているのが手に取るように解かる。きょろきょろと首を左右に振った守護者が後ろを向いたところで、サキはそっと壁の隙間から姿を確認した。
深紅の翼を持つ偉大なる竜族――レッドドラゴンだ。
その口から放たれる業火を受けて、形を留めていられるモノなど存在しないだろう。
宝玉が守護者に護られているという噂は聞いたことがある。しかしそれは御伽噺であり、今時子供ですら話半分にしか聞いていないような他愛も無い作り話でしかないと、サキは今の今まで思っていた。
それが本当のことで、しかもその守護者が竜族だったなんて。
ドラゴン種は極めて希少な存在だ。冒険者と呼ばれる人々が一生に一度その姿を目に出来るかどうかというレベルであり、それが叶ったならばとてつもない幸運だという。
(私は今とんでもなく不幸だけれど)
目指す宝玉はすぐ近くにある筈なのに、幸運のそれが邪魔をする。とんだ幸運のシンボルだ、と愚痴った後でやっぱりそれは間違っていないのだろうな、と情けなくサキは笑った。私欲の為に宝玉を壊そうとする行為は誰が考えても悪なのだから。
今ならまだ引き返せるかもしれない。ここを諦め、血眼になって他の方法を見出す方が良いのかもしれない。仮にこの宝玉を首尾よく手に入れたとして、その後に待つものは主との永遠の別離に他ならない。取り返しのつかない大罪を犯した人間が傍にいられる理由など無いのだから。
でも、他の方法を探していたのでは間に合わないとサキ自身が反論する。主の容態を考えると残りの時間は恐らく数日もない。そしてその間に代替案が浮ぶとはとても思えない。
主を守る事こそが全て。それはあの日からずっと変わらぬ誓いだ。例え世界中から非難されようと構わない。絶対に主様を救ってみせる――サキは握りすぎて白くなった手をさすり、感覚を確かめた。
グルルルルル……
――底冷えするような低いひと鳴きを残して、重苦しい足音を残しながら気配が遠ざかってゆく。もう一度手の感触を確かめながらその姿を見送った。
(……アレを倒すのはまず無理と考えたほうがいい)
なんとかやり過ごし、隙を突いて目的を達成するしかない。サキはここを諦め他のルートを探そうと一歩を慎重に踏み出した。
うわあああああああ!!
耳に痛いほど響いた叫び声に身を竦ませたのは、丁度そのときだった。
* * *
(ん……う……?)
唐突に目を覚まして辺りをぼんやりと見回していたグレイスが「何かおかしい」と考えたのは、妙に視界が暗いからだった。今はまだ日中の筈なのにどうしてこんなに薄暗いのだろう。そう考えた王は近くに控えているはずの侍女に声を掛ける。しかし返事は一向に返ってこない。
「マリン? 何処に――」
「わっ!!」
「うわあああああああ!!」
突然背後から声がして、こんなに動くのかと驚くほど心臓が跳ねて絶叫が木霊する。反射的に背後を振り向いた視線の先で、金髪の男がケタケタと腹を抱えて笑っていた。
「な、な……」
「やあ、やっと目が覚めたかい?」
「ふざけるな! 私を誰だと知ってのことか!?」
「知ってるよ。最近即位したばかりの、蛙に操られていたお飾りだってコトもね」
闇目の少年が唇を歪めて笑っている。たったそれだけの仕草に何故か心臓を掴まれる様な悪寒を感じて、グレイスは一歩後退した。
「まあまあ、そんなに怖がらないでよ。言うことさえ聞いてくれたら命なんて取らないからさ。ね? ほら笑ってよ?」
男の不可解な言葉に不快感が一層強くなる。少しも笑う気になどなれず、笑うのは恐怖に震える膝だけだ。グレイスはそれでも恐れを意地だけで押さえ込んで、状況を確認しようと周りを見渡した。
そして、ここが何処なのかを理解して愕然とする。
「ここは……ここは宝玉の間ではないか! 貴様、何故こんな所に!?」
「うん、その宝玉をいただきに参りました」
――あまりに平然とした口調で返されて、グレイスはぽかんと口を開けてしまった。
(どうして僕もコイツもこんな所にいる? 今まで僕は何をしていたんだ? 闘技場で何かをやろうとしていた気がするけれど……闘技場? 僕はどうしてそんな場所に……)
グレイスの思考は混乱するばかりで一つの仮説にすら辿り着けない。何故か苦しくなるほどの胸騒ぎが収まらず、白い顔を青くしてごくりとツバを飲み込んだ。
「混乱している所悪いんだけどさ、そろそろコレ開放してくれない?」
少しも焦っていない口ぶりで急かしてくる相手の目は、絶対的な優位に立つ者そのものだ。だけど、だからといってハイそうですかと頷いて良いワケがない。
「馬鹿な事を! これを失った国は遠からず滅びの地になる。誰にも渡す訳にいかないのは当然だ!」
「知ってるよ。でも君の国がどうなろうとも、そんなコトはどうでも良いじゃないか」
「ふざけるな! 話にならない、即刻ここから立ち去れ!!」
「そっか、うーん残念だなぁ」
少しも残念がっているように見えない気配で「仕方がないなあ」と男はグレイスに歩み寄ろうとする。反射的に後ずさった姿が可笑しいのか、くっく、と金の髪を揺らした。
「平和的に話し合いで解決するように言われているんだ。もう一度だけチャンスをあげるからさ。――早くしなよ?」
(気圧されている事を相手に悟られてはダメだ。例えハッタリを使おうとも、弱みを見せたらお終いだ)
そう口煩く自分に教えた教育係を思い出す。ラインハルト――彼ならこの局面を如何にして切り抜けるだろう、と。
(――そうだ、宝玉の守護竜は何処にいる?)
誰彼構わず襲い掛かる凶悪な赤竜だがこの状況なら贅沢も言っていられない。上手くけしかけられたらどんな相手だって――
「無駄だと言っているのに、どうして解らないの?」
必死に頭を動かしていたグレイスが闇色の目を見た途端、動きが止まる。
彼の記憶が続いているのはここまでだった。
* * *
「あーあ、やっちゃった。だって仕方無いよね、この子強情なんだもん」
光を失った瞳を覗き込みながら男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ま、いいか。意識を奪っただけで変な痕跡は残らないし。許容範囲内だよね。……ったく、サクッとヤっちゃえば簡単なのにさ」
サキがようやくその場に辿り付いたのは、あの男が宝玉を台座から取り上げようとしていた時だった。厳重に封印されているはずのそれを難なく拾い上げた男は、白く輝く球状の宝物を満足そうに眺めて「さて」と呟いた。
「――そこのキミ。何か用かな?」
反射的にサキの体に緊張が走る。
(気配は消えているはず、なのに)
「そんな熱い視線を無視できるほどボクは鈍感じゃないんでね。隠れていないで出ておいでよ?」
「……ふん」
もとよりコイツから逃げるつもりは毛ほども無い。サキは一瞬だけ目を瞑り、意識を戦闘用に塗り替えた。
「じょーとー、なの」
キッチリ決着をつけてやる。
そんな決意を胸に鍔を親指で弾いて、サキは舞台へと降り立った。