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14.サキ

 私は、自分の言葉が嫌いだった。発言の最後に付けるそれは私にとって一種のまじないであり、護身術だった。




 もうハッキリと顔も思い出せないが、両親は私が6歳になった頃に他界してしまった。私の生まれはハイグレイ領の端にある寂れた山村で、一人で厳しい世の中に放り出された子供が生きる為には他人の庇護がどうしても必要だった。


 意外な事に、私の引き取り手はすぐに見つかった。余分な人口は排除される事も珍しくない村なので、それは幸運だったかもしれない。しかし私にとってそんな事は気休めにもならないほど現実は厳しかった。


 引き取り手に名乗りを上げたのは村唯一の商人だった。まだ大人の腰程の上背しかなかった私は、使用人として雨の日も風の日も雪の日も数キロはなれた小川までの水汲みを一日の労働として課せられていた。

 

 水汲みの量は一家一日の消費量だから、自分の小さな手に持てる桶で水瓶を満たすには数十回も往復する必要があった。運ぶ水の量は幼く非力な私にとってあまりにも多すぎた。それこそ死ぬ気で運んでいたものの、ただでさえ栄養不足で発育が悪かった私に大人でも悲鳴を上げる重労働が勤まる筈が無かった。


 夜が明ける前から始めた水汲みが日が落ちても終わらない。不甲斐ないその様に怒った商人は様々な罰を私に与えた。


 一番辛かった罰は、その日の食事を取り上げられたことだった。最後の一滴まで搾り出した体はボロ雑巾のようにくたくたなのに、それを癒す栄養が与えられないのだ。一家が寝静まった後、寒さに身体を震わせながら桶を手にして小川まで行き、飢えを凌ごうと浴びるようにして水を飲んだ。辺りに生えている草にも手を伸ばし、考える前に口に運んだ。

 

 やっとのことで戻ってきた後は、少しでも体力を回復する為に眠ろうとした。でも私に貸し与えられた衣服は囚人が着るようなボロキレで、外気の冷たさがそのまま肌に突き刺さる。栄養がまるで足りない体は震えが止まらず、そんな日は碌に眠ることすら出来なかった。


 次に辛かったのは商人一家から受けた悪意だった。少しずつ身体が成長し、次第に課せられた量をこなせるようになってきた私を面白くないと思った子供が、何かにつけて暴力を振るうようになったのだ。いつの間にか私はストレスのはけ口としての役割も兼任させられていたらしい。


「あ、の。桶を返して……ください」


 少しでも機嫌を損ねたら執拗な罰が繰り返された。ただの悪戯で取り上げられた桶を返してもらうだけでも神経を削りに削る。どんなに頑張っても結局は暴力を振るわれるが、気分次第で回数が減ることはあった。ただただ謝り続け、ただただ耐え忍ぶことが一番効果的だと知ってからは、亀のように身を硬くして無言で頭を下げるようになった。




 それで暫くは何とかやり過ごせていたが、ある日唐突に商人の息子が


「お前、たまに“の”とか“なの”って最後につけるよな」


 と、そんなことを言ってきた。自分では気付かなかったが、それは私の両親の故郷特有の言葉で、この村では私しか言わないことをそいつが指摘したのだ。


「そ、そんなこと、ない……」


 直感的に新たな暴力の口実にされると悟って思わず否定する。それが狂った耳には強い口答えに聞こえたらしい。私の体がくの字になって吹っ飛んだ。


「口の利き方には気を付けろって言っただろうが! ……まあいい、卑しい生まれのお前にその訛りはお似合いだよ。いいな、これからはその卑しい喋り方をしろ」


「ゲホっ、っハ……は、はい」


 左の頬を思い切り叩かれる。すっかり色褪せた私の髪がぱっと乱れて血のように舞った。


「もう一度」


「っ……。はい……なの」


 「はい」の後に「なの」をつけるかどうかなんて判らないけれど、そんな事を知らない子供には言い訳など通用しない。無理矢理でも何でも、言われた通りにするしかなかった。


 それから暫くはそのことで何度も口実を与えてしまった。無言を貫けばよかった今までとは違って受け答えを強要されるので、どうしても隙が多くなってしまう。赤黒く変色するまで肌を叩かれ、その度に自分の迂闊さを呪うしか無かった。憂さを晴らしてスッキリした顔の商人達が離れていくまで、地獄のような時間はずっと続いた。




* * *




 そんな生活が数年続いたが、不思議と死にはしなかった。水場に写る私の姿は今思えば酷いものだったし、どうしても栄養が不足がちだった為に背は大して伸びなかったけれど、それでも私は生き続けていた。



 それなりに成長した私が12歳になった(これは適当に数えたものなのだが)ある日。いつものように水汲みに向かおうとした私に商人から声が掛かった。


「おい」


「はい、なの」


「今日は隣の町まで商売に出て行く。お前も連れて行くから用意をしろ」


「え……? 私がですか」


 はっと身を硬くする。あまりに突然な話に気をとられて言付けに疑問を返してしまったのだ。私はこれから来るであろう衝撃に目を瞑った。しかし、驚く事に不問にされた。


「その薄汚れた顔を良く洗っておくように。半刻後に出る」


 ぐるぐる巡る疑問の答えを得ないままに街に連れてこられた私は、首に犬のような拘束輪を付けられた。その輪から太い鎖が伸びて自由が利かない格好で繋がれる。周りには似たような格好をさせられた年の近い子供が虚ろな目を泳がせていた。私はようやく自分の運命を悟った。


 これから自分は売られるのだと理解しても、私は全く動揺しなかった。自分が見てきた世界以上の地獄が想像できなかったから、なのかもしれない。

 

 どんな所に売られようとなるようにしかならない。そう考えていた私は、自分の運命が変わる重大な局面だというのに他人事のように奴隷が売られてゆく様を眺めていた。


 真っ赤な髪と瞳が珍しい色だったことから、私は商人の思惑以上に高く売れたらしい。


 最初で最後に見せた商人の笑みも、私に何の感動も与えなかった。ぐいと引かれた鎖に引っ張られて首が痛い。私を買った男は舐めるように体を眺め回してきた。


「これからお前にはオレの店で働いてもらう……が、その前に俺がキッチリと仕込んでやる。きひひひひっ、今夜から覚悟しておけよ」


 耳障りな声が何を言っているのか半分も理解できていないが、言う事は決まっていた。


「これから、よろしくお願いします、なの」


「あ? ヘンな言葉遣いしやがるなお前、まあいいや。それも個性ってやつだろ……う?」


 不意に鎖から掛かる圧力が消えうせる。


 視線を上げると、私の髪よりも濃く黒ずんだ飛沫が男の腕から噴出していた。


「がぁっぁぁぁぁああああ!!?? な……なん、うがッ!?」


 悲鳴を上げる口に力強い拳がめり込んで、男は無理矢理に沈黙させられる。


「……貴様ら、覚悟は出来ておるんじゃろうなっ!?」


 白髪交じりの男が発した辺りを揺るがす声が合図だった。人身売買を取り締まる銀灰色の鎧を纏った兵が一斉になだれ込む。


 ここから本当の、私にとっての運命の変革が始まった。




* * *




「サキ、昨日は良く眠れたかの」


「サキ、今日の昼飯は美味かったの」


「サキ、よく出来たな。よしよし」


 どれもが初めての言葉だった。


 髪は櫛で梳かして手入れをするものだと知った。


 服は重ねて着るものだと知った。


 食事は日に三度もあることが普通なのだと知った。


 眠る時は暖かいベッドを使うことを知った。


 私の間違った常識を知る度に初老の男は悲しそうな顔をして、それから優しく本当のことを教えてくれた。


 ラインハルトと名乗ったこの人は忙しい身でいつも仕事の道具を片手に歩き回っている程なのだが、館で私に会う度に立ち止まって声を掛けてきた。


「サキ、元気かの?」


「……はい、なの」


 今思えば過去の自分を叱りつけたくなるが、当時の自分はまだラインハルト卿という人間を信用できないでいた。私が発した言葉は恐れに満ちてたどたどしく、擦れていた。何が原因でこの夢が醒めてしまうか解からないと考えていた。未だに残る体中の痣が呪いの様に私に囁いてきて、いつか酷いことをされるという確信に似た予感がどうしても消えなかったのだ。



 

 そんな思いを抱いていた私がとうとうそれに耐えられなくなったある日、私は竜の洞窟に飛び込むような覚悟で仕事が欲しいと嘆願した。自分に出来ることならどんな事だってするからと必死だった。何か主の役に立つ事をしなければいつか酷い目に遭わされるという強迫観念を植え付けられていた私は、近くの森で薪を拾ってくるという役目を仰せつかって心底ホッとした。


「危険は無いはずじゃが、気をつけるんじゃぞ」


 また初めての言葉をかけられてどう反応していいか困ってしまう。そんな私の心情を知ってか知らずか、私の頭を優しく撫でて主は外出していった。

 

 

* * *

 

 

 森の入り口には館から歩いて30分程で到着した。そこには手頃な枝が一帯に転がっていたので作業はとても楽だった。私の腕はあっという間に薪で一杯になり、結局一時間ほどで頼まれた量を終えてしまった。


「あれ……もういいの、かな」


 あまりに楽すぎて、これでは満足してもらえないのではないか、という不安が湧き上がってきた私は、もっと立派な成果を得ようと森の奥へと踏み込んでしまう。去り際に主から「決して森の奥に踏み込んではいけない」と注意されていたのに、成果を得ることに必死だった私はその禁を破ってしまったのだ。


 果たして森の奥には薪の代わりに瑞々しい果物が沢山生っていた。これを持って帰れば許してもらえる、などと考えていた。冷静に考えれば許すも何もないのだけれど、私は染み付いた恐怖に突き動かされて夢中で果物を集めていた。そうして帰ろうとしたときに愕然とする。歩いてきたはずの道が何処にもなくなっていたのだ。


 必死で帰り道を思い出そうとしても一向に解からない。ついには陽も落ちて途方にくれた私は、とうとうしゃがみ込んで顔を膝に埋めた。自分に残された選択肢は、夜が明けるのを待つ事しかなくなってしまったのだ。


「あ……あ……」


 とんでもない事をしてしまったと蒼褪めた。自分の事などどうでもいいが、主が必要とした薪を届けることが出来なかったのだ。もう駄目だ、と思った。今までの分を取り戻すかのように恐ろしい罰を与えられるだろう。とうとう夢から醒める時が来たのだと、真剣にそう思った。重厚な音で唸る鞭の音が、下種な笑いを浮かべながら拳を振るわれる感触が、打ち捨てられボロボロになった身体を自分で抱きしめながら必死に生きていた時の事が、私の頭の中に鮮やかすぎるほどくっきりと甦った。


「あ……うぁあああっ……」


 どんな罰を与えられるのだろう。夢にも思い描けなかった今の生活の中で少しずつ小さくなってきていた火種の燻りだったものが、一気に燃え上がるように私の思考を全て多い尽くして――



「おお、ここにおったか。心配したぞ」



 ――だから、このとき聞いた言葉を、私はとても現実とは思えなかった。



「大丈夫かの? おお、こんなに体が冷えて……寒かったじゃろう?」


 私の小さな体をすっぽりと覆うように抱き寄せて暖めてくれたその温度が、どれだけ私を変えたのか。それはとても言い表す事なんて出来ないだろう。


「おお、おお。もう大丈夫じゃよ。大丈夫じゃからな」


 目が痛い。頬が熱い。喉が震える。不意にぽろっと飛び出た涙がまるで今まで感情に蓋をしていた物だったかのように、言い表せない気持ちが後から後から溢れて止まらなくなってしまった。


 ぽろぽろぽろぽろ。


「よしよし。大丈夫じゃ。大丈夫じゃからな。」


 ひくっ、と喉が引きつる。止まらない。止められない。


「――っく。ぁっ。ぅぁあ――」


 もう一度ぎゅっと強く抱きしめてくれた主様の腕の中で、私は生まれて初めて声の出るままに泣いていた。私という人間はこの時に生まれたのだと、今でもそう思っている。



* * *



 主様は、本当に優しい。


「サキの髪も目も鮮やかな紅色じゃな。紅は命の色じゃ。確かに珍しいが決して不吉な色ではないぞ、わしの好きな色でもあるしの」


「背の低さを気にしておるのか? わしは可愛らしくて好きじゃがの」


「生まれが卑しい? 誰じゃいそんな事を言いおった間抜けは。わしが成敗してくれる」


 こんな風に私の嫌いなモノ一つ一つを、上から力強く塗り替えてくれた。中でも私の心に響いたのはこんな言葉だった。


「サキは東方の生まれかの? その言葉遣いは遥か東に住む刀使いの特徴によく似ていての。誇り高く目の覚めるような剣技の使い手が数多く生まれておる有名な国なんじゃよ」


 未だに抜けきらなかった“なの”という癖。私にとって悪夢への引き金だったそれを主は誇れと教えてくれた。自分が言葉を口にするたびに嫌でも思い出してしまう悪夢を、私の主が塗りつぶしてくれたのだ。


「刀使い、……なの?」


 そして、主様の何気ない言葉が切っ掛けで私は剣を習うことを決めた。主様は最初良い顔をしなかったが、私の気持ちは変わらなかった。修行を続けて剣技を修め、目の前のこの人を命ある限り守ろう。それは唐突に浮んだ考えだったが、私はその為に生きてきたのだとすら思える程、思いは強くなる一方だった。


 苛烈を極めると脅されて入門した道場の修業だけれど、私には何が大変なのかよく解からなかった。同門の皆が悲鳴を上げる荒行の数々も真剣を用いた手合わせも、自分の過去と比べれば遊びに等しいとすら感じた。


 とても幸運だった事に、私には剣の才能が備わっていたらしい。師範に「動体視力と反応速度は誰よりも優れている」と評された私は、剣を始めて一年余りで道場の誰よりも強くなっていた。

 

 その頃から少しずつ主様の仕事を手伝わせてもらえるようになった。がむしゃらに務めを果たし続けた私は、気がつけば主様の護衛として筆頭に立っていた。朧姫を貸し与えられたのはその頃で、それを使いこなす為に私はまた修行に明け暮れた。


 主様は私が剣を持つことに不安を感じていたらしいが、それでも私が務めを果たす度に褒めてくれた。それが嬉しかった。


 私が傷を負うと主様はとても悲しい顔をした。それが悲しかった。


 だから、私は何処までも強くなろうとした。主様を守りたいという思いは絶対に消えない。でも悲しい思いもさせたくない。全てを満たす為には、私は強くなるしかなかった。


 がむしゃらに強さを求めた私は、やがて人々から賞賛されるような成果を何度もあげた。そんな私が王の目に留まり、ある日王直属の護衛兵にならないかと誘われた。誰から見ても破格の待遇で、十人が十人とも選ぶだろうその道を、私は断った。


 当たり前の事だ。


 私にとっての第一は主様を守ることであり、全てにおいて優先されるべき大切な決意だ。私の力は、私に生を与えてくれた主様に捧げよう。何があっても、例え命に代えてでも守りぬこうと、そう決めたから。それはずっと続く、私の存在意義をかけた誓いなのだから。





* * *





 サキが行く手に立つリアを正面から見据える。じっと何かを語るような目で対峙したまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。


「国の人たち皆を困らせる様な事をして、許されるとは思わないの。ううん、主様もきっとそんなこと許してくれないと思う、なの」


「だったら、ね、サキちゃん。私も――」


「でも、このまま治せなかったら、主様はどうなる、なの」


 もしもこのままじいさんの眼を覚ます事が出来なかったら? ずっとこのまま現状維持なのか、いつかは目を覚ますのか、それとも。


 答えは、リアの表情(かお)で解かってしまった。


 部屋を飛び出したサキが、慌てて駆け寄ったリアの腕をすり抜けて外に出る。追って外へ出た俺達の視界が辛うじて捕えたサキの姿は、来た時と同じく光を纏って空の彼方にあった。


 これからどうするべきなのだろう。今にも泣きだしてしまいそうだったあいつの顔を見て、俺は判らなくなってしまった。

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