第9話:毒薬と微笑
第9話:毒薬と微笑
二の丸の静寂を破り、松永久秀からの呼び出しが届いたのは、四刻(午後十時頃)を過ぎた深夜であった。
使いに来た若侍の手には、葵紋のついた燭台が握られ、その光が二の丸の長い板敷き廊下を不気味に揺らしていた。
「天野殿。弾正様(久秀)がお待ちだ。千畳敷の奥の間へお越しいただきたい」
悠真は筆を置き、乾いた喉を鳴らした。傍らにいた中堅奉行の塩田が、気遣わしげに悠真の顔を覗き込んだ。
「天野殿……弾正様は、筑前様(長慶)に次ぐ三好家の重臣だ。知恵が回り、お優しそうに見えて、その実、腹の底が誰にも見えぬお方だ。粗相のなきようにな」
塩田の警告に、悠真は黙って頷いた。
手のひらの晒が、冷や汗で湿り始めていた。歴史研究者としての知識が、松永久秀という男の異質さを告げていた。後世の軍記物では「将軍殺害」「大仏殿炎上」「主家乗っ取り」の三悪を犯した怪物の如く書かれる男。史実においては、圧倒的な現実主義と合理的思考をもって大和国を統治し、長慶の政権運営を裏から支えた不世出の政治家。
どちらにせよ、二の丸の奉行たちとは比べものにならない、危険な怪異であることに違いはなかった。
本丸へと続く渡り廊下を渡り、千畳敷と呼ばれる本丸大広間の最奥、小さな別室へと案内された。
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、悠真の皮膚を打ったのは、芳しい沈香の甘い香りと、火鉢にくべられた上質な備長炭の芳しい匂いだった。
部屋の畳は分厚く、壁には狩野派の手によると思われる、金の泥で描かれた松竹梅の屏風が立てかけられていた。
火鉢の前に、一人の男が静かに座していた。
松永弾正少弼久秀であった。
四十代半ばと思われるその男は、肌触りの良さそうな濃紫の絹の小袖を纏い、細く整えられた髭をたたえていた。額は広く、切れ上がった目の奥には、澄み切った水底のような静けさが漂っている。威圧感はない。むしろ、老舗の豪商や高僧のような、柔らかく品のある物腰であった。
「お主が、二の丸で噂の天野殿か。立ち話も何だ、近くへ寄りなされ」
久秀の声は、耳に心地よく響く低い静かな声音だった。久秀は自ら茶筅を手に取り、黒塗りの茶碗にお湯を注ぐと、手慣れた手つきで抹茶を泡立て始めた。
悠真は息を殺し、火鉢の向かい側へ正座した。
久秀は点て終えた茶碗を悠真の前へ静かに差し出した。
「どうぞ、召し上がられよ。夜風が冷えるゆえ、体を温められると良い」
「は……ありがたく戴きます」
悠真は両手で茶碗を受け取り、一口口に含んだ。濃厚な抹茶の苦みと甘みが、乾いた喉に染み渡る。だが、緊張のあまり、味を感じ取る余裕はなかった。
久秀は火鉢の炭を火箸で突つきながら、穏やかな笑みを浮かべたまま語り始めた。
「岩成主税(友通)から話は聞いておる。文庫の帳面を瞬時に分類し、南蛮の数字を使って一石の誤差も見抜いたとか。……見事な手際だ。奉行衆が感服しておったぞ」
「滅相もございません。僕はただ……知っている計算の仕方を当てはめただけで……」
「ほう。『知っている』か」
久秀の細い目が、微かに細められた。
久秀は脇の文机の上から、悠真の鞄から押収されていたボールペンと、現代の史料コピーを取り上げた。ボールペンを指先で回しながら、その透明なプラスチックの筒と、中に詰まった黒いインクの管をじっと見つめた。
「この筆は、墨を擦る必要がない。筒の中に流れる黒い油が、先端の小さな鉄の玉の回転によって紙に落ちる仕組みだ。……職人に調べさせたが、この精密な鉄球を筒の先に噛ませる技術は、堺の鍛冶師にも、南蛮の技術者にも不可能なものだと言っておった」
久秀はゆっくりと顔を上げ、悠真の目をまっすぐに見つめた。
笑っている。口元は穏やかに歪んでいる。だが、その目の奥には一切の笑みがなかった。まるで、解剖台の上の標本を観察するような、冷徹な理性の光が宿っていた。
「天野殿。貴殿の着ていた服の生地、この筆、そしてその眼鏡。それだけではない……貴殿の立ち振る舞い、言葉の端々に見える『この時代の人間が持つべき恐れ』の欠如。……貴殿は、織田の隠密でもなければ、足利公方の使者でもない。まるで……この世の者ではないかのようだ」
背筋を、激しい寒気が駆け抜けた。
悠真の額から、大粒の汗がポタリと畳に落ちた。
久秀は「未来から来た」というSF的な概念を知るはずがない。しかし、目の前にある物証と、悠真の異質な行動から、己の圧倒的な観察眼と合理的思考だけで「悠真がこの時代の人間ではない」という結論に肉薄していたのだ。
「貴殿は何者だ?」
久秀の声から、柔らかさが消えた。
久秀は袖の中から、親指ほどの大きさしかない小ぶりな黒塗りの薬瓶を取り出し、カタリと静かに畳の上に置いた。
「我が主・筑前守様(長慶)は、真面目で、仕事に厳しいお方だ。だが、身内や家臣を信じすぎる嫌いがある。だからこそ、わしのような陰の者が、主の周りの毒を払わねばならん」
久秀は薬瓶を指先で悠真の方へ押し滑らせた。
「この小瓶の中には、南蛮の薬師から手に入れた無味無臭の薬が入っておる。一口飲めば、三日のうちに内臓が爛れて息が絶える。……天野殿。嘘をつく者は、この城には不要だ。貴殿が何を狙ってこの飯盛城に入り込み、何のためにその知恵を誇示するのか。本当のことを語られよ。さもなくば……今飲まれたその茶の中に、すでに何かが入っていたかもしれぬぞ?」
久秀の唇が、妖しく吊り上がった。
悠真の脳裏が、真っ白に麻痺した。
指先が激しく震え、膝がガクガクと音を立てた。
今飲んだ茶に毒が入っているのか。それとも、これは自分を試すためのハタリ(脅し)なのか。久秀の表情からは、真偽がまったく読み取れなかった。
命の恐怖が、悠真の胸を喉元まで押し潰そうとしていた。
ここで嘘をついても、この男の鋭い観察眼からは逃れられない。かといって「自分は四百年後の現代から来たタイムスリップ研究者です」と正直に言えば、狂人として即座に切り捨てられるかもしれない。
悠真は強く目を閉じ、深く息を吐き出した。
もう、飾り立てる言葉はいらなかった。研究者としての、そして一人の人間としての「本音」を吐き出すしかなかった。
悠真は目を開け、久秀の冷たい目をまっすぐに見つめ返した。
「……僕は、未来を変えるために来たのではありません」
「なに?」
久秀の眉が、微かに跳ね上がった。
「僕は……歴史の研究者です。四百年後の世で、あなたたちの残した和紙の記録や、この城の跡地を調べていた人間です」
悠真は畳に手を突き、絞り出すような声で続けた。
「未来の世では……三好長慶という天下人の名前は、ほとんどの人々に忘れられています。織田信長や豊臣秀吉の影に隠れ、誰もその功績を知りません。あなた方の作った高度な行政も、堺を保護した先進的な政策も、『大したことのない昔の出来事』として切り捨てられているんです!」
悠真の目に、涙が滲んだ。それは恐怖ではなく、悔しさと情熱の涙だった。
「それが……悔しかったんです! 僕は、長慶様がどれほど真面目に仕事をし、あなた方がどれほど苦労してこの畿内の平和を維持しようとしていたのかを、知っている! 僕は知識無双がしたいわけでも、歴史を変えて英雄になりたいわけでもない! ただ……あなた方という仕事人が、この時代でどう生きて、どう国を治めたのかを……自分の目で確かめ、正しく後世に残したいだけなんです!」
部屋の中に、静寂が訪れた。
火鉢の炭がパチと弾ける音だけが、虚空に響いた。
久秀は悠真の顔を、その涙に濡れた目を、微動だにせずに見つめ続けていた。
やがて。
「……く、くく……くはははははは!」
久秀の口から、低く抑えられた、しかし腹から込み上げるような笑い声が漏れ出た。
久秀は扇子を取り出し、膝をポンと叩いた。
「素晴らしい! 面白いぞ、天野殿! 未来の記録者だと? わしらの生の証人だと?……くはは、今まで数多の隠密や詐術師に会ってきたが、これほど突飛で、しかし嘘偽りのない目をした男は初めてだ!」
久秀は黒塗りの薬瓶をひょいと拾い上げ、袖の中に仕舞い込んだ。
「安心されよ。茶に毒など入れておらん。わしは合理を好む。使えそうな人間を無駄に殺す趣味はないのだよ」
久秀は火鉢に手をかざし、表情を再び冷徹な政治家のそれへと戻した。
「天野殿。貴殿の言う『未来』とやらが真実かどうか、わしには分からん。だが、貴殿のその異質な知恵と、我が主・筑前守様に対する異常なまでの執着……それは使える。我が三好家にとって、極めて有用な道具だ」
久秀は立ち上がり、悠真を見下ろした。その影が、屏風の松の絵に大きく投映された。
「好きに記録するが良い。我が主の仕事を、この三好の国の成り立ちをな。……ただし、忘れるなよ。綺麗事だけでは国は動かぬ。人は裏切るものだし、理想だけで腹は膨らまぬのだ。貴殿のその青臭い情熱が、この過酷な戦国の現実の中でどこまで持つか……わしが特等席で見物させてもらうとしよう」
悠真は力なく畳に平伏した。
全身の緊張が抜け、汗で着物が肌にへばりついていた。
久秀は悠真に背を向け、障子を開けた。
「夜が明けるぞ、天野殿。二の丸へ戻り、帳面をつけられよ。我が主は今日も朝一番から執務室でお待ちだ」
夜明けの冷たい空気が、部屋の中に流れ込んできた。
悠真は松永久秀という怪物の圧倒的な政治的リアリズムと、その奥にある主君・長慶への屈折した忠誠の深さを思い知らされながら、膝を震わせて立ち上がった。
自分は生き延びた。そして、この戦国時代という過酷な現場で、長慶と久秀という巨大な仕事人たちとともに生きる許可を得たのだ。
悠真は深く一礼し、薄明かりの差し込み始めた本丸の廊下へと足を踏み出していった。




