第30話:勝利の空虚
第30話:勝利の空虚
永禄五年六月上旬の飯盛山城は、初夏の眩しい陽光と、吹き抜ける爽やかな青嵐の中に包まれていた。
山肌を覆う赤松やカシの木々は瑞々しい若葉を萌え立たせ、さきの大激戦「教興寺の戦い」で流された激しい血と泥の匂いは、初夏の風によってきれいに洗い流されていた。
城下の街道には、朝から途切れることなく色鮮やかな車や馬が列をなしていた。
教興寺での三好軍の壊滅的大勝利、そして畠山高政の大和への追放と六角義賢の近江撤退を受け、畿内九ヶ国の国衆や寺社、京の公家衆、そして堺の会合衆から、戦勝を祝う使者がひっきりなしに飯盛城へ詰めかけていたのだ。
大手門の前には、堺の津田宗達や今井宗久から届けられた、織物の山、銘酒の樽、唐物の陶器、そして南蛮から届いた砂糖や木綿の箱が山のように積み上げられていた。
二の丸の広場では、合戦を生き延びた武士や足軽たちが、手渡された祝いの酒樽を囲み、高らかに勝どきを上げて酒を酌み交わしていた。
「見たか! 畠山三万をものの見事に粉砕したぞ! これで三好の天下は揺るぎなしだ!」
「筑前守様万歳! 三好家万歳!」
酔いしれた足軽たちの歓声と笑い声が、初夏の大空へ向かって木霊していた。
しかし、二の丸の執務室の奥で、悠真は一人、文机に向かって黙々と筆を走らせていた。
悠真の目の前に積み上げられていたのは、華やかな祝いの品々ではなく、手漉き和紙の『教興寺戦後諸経費ならびに遺族補償主帳』であった。
世間が「大勝利」に酔い痴れている間も、行政の現場には、合戦によって生じた莫大な「現実のツケ」が押し寄せていたのだ。
討ち死にした三好軍の武士・足軽千二百余名への、遺族補償金と作徳米免除手形の発給。
教興寺周辺で焼き払われた数百軒の民家の再建資材手形。
傷ついた二千人の兵たちの治療用薬湯と晒布の代金精算。
さらには、この決戦のために堺の豪商たちから借り入れた「請負通宝手形」の、一割の利息を上乗せした返済手配。
悠真はアラビア数字の控えノートと照らし合わせながら、一文の狂いもなく和紙の上に数値を弾き出していた。
塩田が冷えた手拭いで汗を拭いながら、悠真の机の脇に腰を下ろした。
塩田の顔にも、さきの合戦を生き延びた安堵の色はあったが、手元の帳面を見る目はどこか冷めていた。
「天野殿。下郭の者どもは浮かれておるが……帳面をつけていると、勝ったという実感が湧かんな」
「はい、塩田様。……勝ち戦であっても、これだけの物資と銭が消え、千人以上の人間が死んだことに変わりはありませんから」
悠真の言葉に、塩田は深く頷いた。
「その通りだ。……米二千石、銭五千貫文。これが教興寺で我が三好家が払い出した戦費の総額だ。勝ったからこそ、この支払いを滞りなく済ませねば、堺の商人にも民にも見放される。……大勝利の陰で、わしらの仕事は増える一方だ」
塩田の溜息が、初夏の風に消えていった。
昼過ぎ、二の丸の執務室に安宅冬康が訪れた。
冬康はさきの合戦での甲冑を脱ぎ、質の良い素朴な和服を纏っていた。
冬康は悠真が書き上げた補償目録を手にとり、丁寧に目を配った。
「天野殿。……久米田で実休に従い、討ち死にした和泉の足軽たちへの補償、見事な手配だ。これならば、残された妻や子らも路頭に迷わずに済む」
「滅相もございません、安宅様。長慶様の規定に基づき、計算したまでにございます」
冬康は目録を文机に戻すと、ふっと二の丸の窓の外、酒盛りに湧く城下の光景を見つめた。
その穏やかな瞳に、深い哀愁と影が落ちていた。
「天野殿。……城中は大勝利だと湧き立っておる。だが……わしには、この勝利がどこまでも虚しく思えてならんのだよ」
「安宅様……」
冬康は己の手のひらをじっと見つめた。
「畠山をどれほど打ち破ろうと……久米田で死んだ実休は二度と戻ってこんのだ。……和泉の岸和田城へ戻っても、あの豪快な笑い声も、茶を点てる姿もない。ただ、冷たい風が吹き抜けるだけなのだよ。……兄上の得られた『天下』とは、これほどまでに悲しいものだったのだな」
冬康の声は、震えていた。
兄弟を失い、勝利の虚しさに苛まれる冬康の言葉に、悠真は胸が締め付けられる思いで頭を下げることしかできなかった。
夕刻。
悠真は完成した『戦後処理最終決済目録』を太い麻布に包み、本丸の長慶執務室へと向かった。
二の丸や下郭からは、夜の酒盛りの太鼓の音や、酔っ払った武士たちの歌声が風に乗って聞こえていた。
しかし、本丸の重い楠戸を潜った瞬間、すべての喧騒が掻き消え、深海の底のような静寂が悠真を包み込んだ。
廊下には一切の飾りがなく、磨き上げられた板敷きが行灯の光を吸い込んで青白く光っていた。
小姓に促され、長慶の執務室の障子を引き開けた。
室内に漂っていたのは、濃密な墨の匂いと、冷え切った空気であった。
部屋の中央、低い文机の前に、当主・三好長慶が座していた。
長慶は黒い木綿の小袖を纏い、背中を小さく丸めて文机に向かっていた。
下郭の賑わいなど、まるで別世界の出来事であるかのように、長慶は一人、静かに手元の書類に向き合っていた。
長慶の顔色は青白く、痩せた頬はさらに削げ落ちていた。
目の下の漆黒の隈は、さきの大勝利を経ても消えることはなく、むしろ深く影を増していた。
長慶が手にしていたのは、合戦で討ち取った敵の首級目録と、三好家の戦死者名簿であった。
長慶は細い指先で、和紙の上に書かれた名前を、一つひとつ撫でるように追っていた。
爪の隙間には、相変わらず黒い墨の汚れが深く染み込んでいた。
「……天野か」
長慶が顔を上げずに言った。
声は掠れ、か細かった。
「はっ。二の丸より、戦後処理の最終決済目録をお届けに上がりました」
悠真は文机の脇に膝をつき、目録を恭しく差し出した。
長慶は目録を受け取り、手元で静かにページを繰った。
悠真が作成した、遺族への給付米の数値、堺への借入金返済スケジュール、そして各地の関銭の再調整案。
長慶は一字一文漏らさず目を通し、静かに深く頷いた。
「……手際が良い。一文の誤りもないな。……二の丸の者たちへ、大義であったと伝えよ」
長慶は目録を脇に置くと、自らの主帳面を静かに開いた。
長慶は下郭の方向をちらりと見やり、かすかな声で尋ねた。
「……天野。城下の者たちは、喜んでおるか」
「はっ。皆、長慶様の大勝利を祝い、酒を酌み交わしております」
悠真が答えると、長慶は薄く、本当に薄く唇を緩めた。
しかし、その瞳には一切の歓喜の色はなかった。
「……そうか。……ならば、良し」
長慶は呟くと、再び細筆を持ち、主帳面の上に墨を落とし始めた。
長慶にとって、教興寺の大勝利すらも、己の自尊心を満たすものでも、栄華を誇るものでもなかったのだ。
それはただ、「国を止めないため」に処理せねばならない、莫大な仕事の増大に過ぎなかった。
勝利の代償として弟を失い、自らの命を削り、それでも明日から再びこの莫大な帳面と向き合い続けねばならない過酷な現実。
天下人・三好長慶の生き様には、他人が羨むような華やかさはどこにも存在しなかった。そこにあったのは、途方もない重荷を一人で背負い続ける、哀しいまでの責任感と空虚さだけであった。
サ、サ、サ、サ。
長慶の走らせる筆の音が、静かな執務室に寂しく響いた。
悠真は畳の上に平伏しながら、三好長慶という天下人の真ん中にぽっかりと開いた、巨大な「空虚」を見つめていた。
栄華の絶頂。畿内の支配者。
しかし、その中心にいる男は、世界で一番孤独で、世界で一番静かに死に向かって働いていた。
悠真は胸の奥で誓った。
世間がこの勝利をどう語ろうと、後世の歴史がこの時代をどう書き換えようと。
自分だけは、この部屋で一人黙々と筆を走らせる長慶の背中を、その静かな空虚さを、絶対に未来へ連れて行くのだと。
初夏の冷たい夜風が、障子を優しく揺らしていた。
二人の仕事人の頭上で、行灯の橙色の光が、深く、どこまでも静かに揺れ続けていた。




