第18話:鬼の落日
第18話:鬼の落日
永禄四年五月中旬の飯盛山は、早朝からの激しい湿気と、真夏を思わせる蒸し暑さに包まれていた。
青々と生い茂る赤松やカシの葉からは、むせ返るような青臭い木々の匂いが立ち上り、曲輪の土塁は連日の陽気によってカチカチに乾ききっていた。
午後申の刻(午後四時頃)、生駒山系の稜線の向こうから、黒炭を練り固めたような不気味な暗雲が急速に湧き上がり、山全体を急激な暗闇が覆い尽くした。
ピカッ、と白紫色の稲光が走り、一瞬遅れて地響きのような雷鳴が二の丸の木造建築を揺らした。
直後、バケツをひっくり返したような激しい夕立が叩きつけてきた。乾いていた瓦や板敷きが一瞬で黒く濡れ、雨柱が滝のように屋根樋から落ちていく。
二の丸の執務室で、悠真は行灯に火を点け直し、讃岐・十河領からの作徳米の目録を検分していた。
その時であった。
雨の音を突き破り、二の丸の大手門から激しい足音が響いてきた。
「開けい! 開けい! 有馬の湯治場より早馬! 緊急の注進である!」
泥と雨に塗れた一人の侍が、水飛沫を上げて二の丸の広間へと雪崩れ込んできた。侍の着物はびしょ濡れで、息は激しく乱れ、その顔は死人のように青ざめていた。
塩田が文机から立ち上がり、叫んだ。
「どうした! 有馬の湯治場におられる十河(一存)様になにかあったのか!?」
伝令の侍は、畳の上に膝から崩れ落ち、雨水と混ざった血涙を流しながら、悲痛な叫びを上げた。
「十河左衛門尉(一存)様……今しがた、有馬の温泉にて……お急死に送られました!!」
広間が、静まり返った。
叩きつける夕立の雨音だけが、虚空に激しく響いていた。
塩田の手から、握っていた筆がポロリと落ち、畳の上を転がった。
「な……なんだと……? 十河様が……急死……? 嘘だ! 嘘だと言ってくれ!」
若手の奉行たちが、悲鳴に近い声を上げた。
十河左衛門尉一存。
当主・三好長慶の四弟であり、讃岐十河家を率いて「鬼十河」の異名で全国に恐れられた、三好軍最強の猛将であった。
一存が讃岐と和泉に眼を光らせている限り、近江の六角も、紀伊の畠山も、三好家の隙を突くことは不可能であった。三好政権の圧倒的な武威の象徴であり、長慶の最も信頼する「軍事の柱」であった男が、わずか三十歳の若さで、有馬温泉での湯治中に突如として息を引き取ったのだ。
悠真は、激しい目眩に襲われ、文机の端を強く掴んだ。
歴史研究者としての記憶が、冷酷なまでに頭の中で照合されていた。
永禄四年、十河一存の急死。
それは、三好家を襲う「崩壊の連鎖」の、最初の不吉な幕開けであった。
この一存の死を皮切りに、来年には次弟の三好実休が久米田で戦死し、再来年には嫡男の三好義興が病死し、三男の安宅冬康が不幸な疑心暗鬼の中で命を落とす。三好長慶という天下人を支えていた、完璧な「仕事共同体」の兄弟たちが、これから数年の間に次々と途絶えていくのだ。
(始まったんだ……三好家の崩壊が……史実通りの破滅が……!)
悠真の手が激しく震えた。恐怖と、これから訪れるであろう悲劇の予感に、全身の毛穴が開くのを感じた。
「騒ぐな! 声を落とせ!」
広間の奥から、松永久秀が滑り込んでいた。
久秀の顔からは、いつもの柔らかな微笑みが完全に消え去っていた。久秀は即座に伝令の侍の首元を掴み上げ、低い、冷徹な声で命じた。
「このことを下郭の足軽や人夫に漏らすな。十河様の死が外に漏れれば、六角も畠山も即座に挙兵する。……塩田! すぐに一存様の遺児・重存様を讃岐から飯盛城へお呼び寄せする手配を整えよ! 友通には、堺と京都の関所に戒厳を敷かせろ!」
久秀の指示は、的確で、恐ろしいほど迅速であった。
政権の動揺を最小限に抑えるため、久秀は即座に情報統制と危機管理の陣を敷いたのだ。
久秀は指示を出し終えると、ふっと壁際に立つ悠真に視線を向けた。
久秀の目の奥に、深い陰りと、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいた。
「天野殿。……武の柱が折れた。三好の家は、これから激しい風雨に晒されるぞ。……覚悟されよ」
久秀はそう囁くと、黒い小袖の裾を翻し、長慶の待つ本丸へと駆け上がっていった。
悠真は、一存の配下の俸禄支払いの控えと、讃岐への緊急補給手形を麻布に包み、久秀の後を追うように本丸執務室へと向かった。
渡り廊下を進む間も、夕立は勢いを増し、雷鳴が飯盛山を激しく揺らし続けていた。
本丸執務室の障子の前に立ったとき、悠真の足がすくんだ。
部屋の中から、何の音も聞こえてこなかったのだ。
慟哭の叫び声も、机を叩く怒声も、小姓を呼ぶ声すらない。ただ、土降りの雨音だけが、部屋全体を押し潰すように包み込んでいた。
悠真は意を決し、静かに障子を引き開けた。
「……筑前様。二の丸より、控えの手形をお届けに上がりました」
室内の行灯の光は薄暗く、橙色の炎が風に揺れていた。
部屋の中央の文机の前に、長慶が座していた。
長慶は、黒い木綿の小袖を纏い、背中を丸めて文机に向かっていた。
その姿は、まるで一存の急死など知らなかったかのように、静かに、黙々と手元の主帳面に向かっていた。
泣いていなかった。
声を上げて怒ることも、天を仰ぐこともしていなかった。
ただ、右手に細筆を握り、和紙の上に文字を書き続けようとしていた。
しかし。
悠真の目が、長慶の手元に吸い寄せられた。
長慶の右手が、微かに、本当に微かに震えていたのだ。
筆先から、ぽたり、と大粒の黒い墨汁が落ちた。
和紙の白い紙面の上に落ちた墨は、じわじわと、円を描くように黒く大きく滲んでいった。
『十河左衛門尉……』と書かれかけた文字が、その黒い墨のシミによって押し潰され、読めなくなっていった。
長慶の手が、ピタリと止まった。
長慶は、滲んでいく墨のシミを、ただじっと見つめていた。
その目の下には、黒い影のような疲労の隈が落ち、唇は血の気を失って青白く震えていた。
長慶は声を出さなかった。涙を一滴も流さなかった。
だが、その溢れ出ない悲しみと、感情を極限まで抑圧している苦痛が、部屋全体の空気を鋭い刃物のように張り詰めさせていた。
長慶は、自らの最愛の弟の死すらも、泣いて悲しむことを自分に許していなかったのだ。
自分が泣けば、天下の秩序が揺らぐ。自分が弱音を吐けば、三好家という巨大な国家が崩れ去る。
だからこそ、長慶は悲しみを殺し、激痛を胸の底に押し込め、ただ「仕事」の中に己を閉じ込めようとしていたのだ。
悠真の胸が、激しい痛みに引き裂かれそうになった。
(長慶様……泣いてください……お願いだから、声を上げて泣いてください……!)
悠真は心の中で叫んだ。
感情を殺し、機械のように仕事を続けるこの男の姿は、あまりにも痛々しく、あまりにも哀しかった。
長慶はゆっくりと筆を置いた。
そして、墨の滲んだ和紙を静かに脇へ除けると、新しい白紙の和紙を引き寄せた。
長慶は悠真の方を見ようともせず、掠れた、しかし冷徹なまでに静かな声を発した。
「……天野」
「は……はい!」
「……一存の遺児・重存様への、讃岐領の引継ぎ手形を作成せよ。……それから、一存の配下の足軽や家臣らへ、年頭の俸禄を滞りなく支払うよう、二の丸へ伝えよ。一文の削りも許さぬ」
長慶の言葉には、弟を失った私情は一切挟まれていなかった。ただ、残された遺族と家臣を救い、国を止めないための「行政の命令」だけであった。
「……それから、讃岐の寺々へ……一存の供養のための米五十石を給付せよ。……それだけで良い」
長慶はそう告げると、再び筆を取り、新しい和紙の上に文字を書き始めようとした。
だが、その指先は、今度も力なく震えていた。
悠真は畳に深々と頭をこすりつけた。
「はっ……! 直ちに手配いたします!」
悠真の目から、ボロポロと涙がこぼれ落ち、畳を黒く濡らした。
長慶の代わりに、自分が泣いていた。長慶が流すことを拒んだ涙を、悠真が流していた。
外では、激しい夕立の雨柱が、飯盛城の屋根瓦を激しく叩き続けていた。
雷鳴が響く暗闇の中で、三好長慶という天下人の小さな背中は、溢れ出る悲しみと途方もない重荷を一人で背負いながら、ただ静かに筆を動かし続けていた。
三好家を包み込む最初の崩壊の足音が、激しい雨音に混ざって、静かに、そして確実に近づいてきていた。




