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消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


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第14話:永禄四年の朝

第14話:永禄四年の朝


 永禄四年正月上旬の飯盛山は、身を切るような静謐な青い冷気に包まれていた。

 標高三百メートルを超える山頂郭のあちこちには、さきの大晦日に降り積もった白雪が固く凍りついて残っており、早朝のうすあかりを受けて鈍い銀色に光っていた。生駒山系から吹き下ろす山おろしの風は、木造の城郭をミシミシと鳴らし、井戸の手水鉢の表面には指の幅ほどもある分厚い氷の板を張らせていた。

 二の丸の奉行衆詰所には、新年の飾りが質素に施されていた。

 入口の冠木門には、細い青竹と松の枝を縄で縛った簡素な松飾りが置かれ、広間の床の間には、三好家の家紋である三階菱(さんかいびし)が押された小さな三宝の上に、小ぶりの鏡餅がひとつ、静かに備え付けられていた。

 しかし、正月気分に浸る猶予など、この巨大な行政庁舎のどこにも存在しなかった。

 寅の刻(午前四時頃)、二の丸の引き戸が開かれると、奉行たちは寒さに体を縮めながらも、慣れた手つきで囲炉裏の火種を起こし、行灯の油皿に燈心草を浸して火を点けた。

 悠真もまた、あかぎれの痛みがようやく引いた両手に息を吹きかけながら、文机に向かっていた。

藍染めの木綿小袖の上に、厚手の綿を詰めた紬(つむぎ)の羽羽織を重ね着し、首元には晒の布を巻き付けて防寒としていた。手元には、さきに長慶と向かい合った夜から使い続けている、自分専用の硯と細筆が並んでいる。

「天野殿、お早いな。新春早々、お怪我はもうよろしいのか」

 中堅奉行の塩田が、白い吐息を大きく吐き出しながら、濡れた手拭いで顔を拭って広間へ入ってきた。塩田の手には、夜通し早馬で京や阿波、堺から届いたばかりの、できたての『新春注進状』の太い束が握られていた。

「塩田様、おめでとうございます。手の皮はもう塞がりました。今日からまた、しっかりと帳面をつけさせていただきます」

 悠真が腰を浮かせて礼を言うと、塩田は浅黒い顔の皺をくしゃりと込めて微笑んだ。

「かか、相変わらず丁寧なお人だ。……だがな、天野殿のおかげで、わしらはこの正月、久々に家で餅を食う時間が持てたのだぞ。皆、貴殿には感謝しておるのだ」

 塩田はそう言うと、抱えていた注進状の束を、悠真の文机の脇に設置された大きな木製の棚の上へと置いた。


 その棚こそは、悠真が年末の繁忙期に発案し、二の丸の木工職人に作らせた「分類棚」であった。

杉の素木で組まれた高さ五尺ほどの棚には、細かく仕切られた三十以上の引き出しと棚受けが並び、それぞれに墨で大きく分類名が書かれた木札が嵌め込まれていた。

『国別・河内』『国別・摂津』『国別・阿波淡路』『堺・過所船手形』『寺社・安堵状』『緊急・軍費出納』『未決済・裁判調書』。

当時の武家行政においては、届いた文書は一箇所にまとめて積み上げられ、必要になるたびに奉行たちが手探りで目録を探すのが常であった。そのため、確認漏れや書類の紛失が頻発し、処理の遅れがそのまま領国統治の停滞につながっていたのだ。

悠真はこの縦横の分類棚を導入し、朝一番に届く注進状を、まず内容と緊急度に応じてこの棚へ仕分ける「一次スクリーニング」の作業を徹底させた。

さらに、悠真自身が作成したアラビア数字による「集計控えノート」を棚の脇に紐で括り付け、どの棚に何通の文書が入っており、誰が処理を担当しているかが一目でわかる「進捗管理」の仕組みを構築していたのだった。

悠真は手際よく和紙の束を手に取り、表面に押された花押や朱印を確認していった。

美濃紙の質の良い和紙、生漉きの粗い和紙、あるいは木簡。

「これは堺の津田宗達からの過所船(関税免除船)の確認書……『堺・過所船手形』の棚へ」

「これは河内茨田郡の代官からの用水路修繕の請願……『国別・河内』の棚へ」

「これは足利将軍家からの年頭挨拶の御内書の控え……『緊急』の棚へ」

悠真の指先が素早く動き、和紙が擦れる「カサリ、カサリ」という軽い音が、静かな二の丸に規則正しく響き渡った。

塩田や周囲の若手奉行たちは、その無駄のない手際を感嘆の形相で見守っていた。以前なら、三人がかりで半日かかっていた文書の分類が、悠真の手にかかればわずか一刻足らずで完璧に完了してしまうのだ。

「天野殿のこの棚と『帳面控え』のおかげで、二の丸の仕事は滞ることがなくなった。……これなら、筑前様もお喜びになられる」

塩田が感無量といった体で呟いた。


その時であった。

二の丸の廊下から、静かな、しかし張り詰めた足音が近づいてきた。

廊下に控えていた小姓が、緊張で引きつった声を上げた。

「……筑前守様、お成り!」

広間にいた三十人ほどの奉行たちが、弾かれたように文机から立ち上がり、一斉に畳の上に平伏した。静寂が、一瞬にして広間全体を叩き潰すように覆い尽くした。

悠真も素早く膝を折り、畳の上に額をこすりつけた。

杉の床板を滑る、静かな草鞋の足音。

先頭を歩いてきたのは、当主・三好筑前守長慶であった。

長慶は正月の晴れ着を着ることもなく、さきの大晦日の夜と同じ、質素な黒い木綿の小袖に灰色の袴という姿であった。その細い身の丈、痩せた頬、そして目の下に刻まれた深い疲労の隈も変わっていなかった。だが、その全身から漂う、一切の隙のない冷徹なまでの「仕事人の気」が、広間の空気をピンと緊張させていた。

長慶の後ろには、岩成友通と松永久秀が静かに従っていた。

長慶は二の丸の広間に入ると、平伏する奉行たちには目をくれず、静かに室内を巡視し始めた。

長慶の巡察は、決して形式的なものではなかった。

奉行たちの文机の上に置かれた算盤の位置、墨の擦り加減、積み上げられた帳面の高さにまで目を光らせ、行政が滞りなく動いているかを己の目で直接確かめていたのだ。

長慶の足音が、悠真の文机の前でピタリと止まった。


悠真の背中に、冷たい汗が伝った。

頭を畳につけたまま、悠真は呼吸を殺した。

長慶は無言のまま、悠真の机の脇に置かれた、あの大きな「分類棚」の前に立った。

長慶の静かな視線が、棚に並んだ木札の文字『国別・河内』『堺・過所船手形』『未決済・裁判調書』を一つひとつ追っていくのが気配で分かった。

長慶はゆっくりと手を伸ばした。

指先が、杉の素木の棚の角を、撫でるように滑った。

カサリ、という音が響いた。

長慶は『緊急・軍費出納』の棚から一冊の和紙の帳面を抜き取り、手元で静かにページを繰った。そこには、悠真がさきに書き加えた、アラビア数字による集計表と、和紙の朱印の照合控えが精緻に記されていた。

長慶の短い吐息の白さが、悠真の伏せられた視界の端に見えた。

久秀が後ろから静かに進み出て、長慶の耳元で囁いた。

「……筑前様。これは二の丸に入りました天野が考案いたしました、文書の分類棚と集計控にございます。これにより、二の丸の文書処理は以前の倍の速さとなっております」

長慶は久秀の言葉に答えず、ただじっと帳面の紙面を見つめていた。

沈黙が、部屋の中に重く横たわった。

奉行たちの誰もが息を呑み、当主の判断を待っていた。この先進的すぎる分類棚が、古い慣例を重んじる主君の意にそぐわぬと判定されれば、撤去される可能性すらあった。

長慶はゆっくりと帳面を棚に戻した。

そして、棚の枠木に置かれた長慶の手が、ぽん、と静かに木肌を叩いた。

長慶は悠真の伏せられた頭頂部を一瞥し、低く、掠れた声で言った。

「……手際がよい。余計な飾りがなくて良い」


たった二文であった。

怒鳴らず、褒めちぎることもせず、ただ事実として「手際がよい」とだけ告げた言葉。

だが、その言葉には、一切の他意もない、純粋な「仕事の成果に対する最高級の評価」が込められていた。

長慶はそれ以上の一言も発することなく、再び静かな足取りで二の丸を去っていった。久秀が去り際に、悠真に向かってニンマリと深みのある笑みを残していった。


長慶の一団が去った後、二の丸の広間にふっと緊張の糸が切れる音が漂った。

平伏していた奉行たちが一斉に顔を上げ、安堵の息を漏らした。

「天野殿! 聞いたか! あの筑前守様が『手際がよい』とおっしゃったぞ!」

塩田が興奮を抑えきれない様子で悠真の肩を揺さぶった。

「あのお方はな、滅多なことでは家臣を褒められんのだ! 余計な飾りがないが良い、とおっしゃったのは、何よりの認可だぞ!」

周囲の奉行たちも、我がことのように笑顔を浮かべ、悠真に向かって頷き合った。

悠真は、畳の上に正座したまま、自らの両手を見つめた。

指先は墨で黒く汚れ、爪の間に黒い線が入っていた。

胸の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。

現代社会において、大学の講義室で誰にも話を聞かれず、非常勤講師のコマ数を減らされ、論文の価値を全否定され、恋人に去られた自分。

自分の努力も、積み重ねてきた知識も、何一つとして社会から評価されず、ただ「無価値な存在」として消されかけていた自分が。

この四百年前の戦国時代において、天下人・三好長慶という圧倒的な仕事人に、自らの作った「仕事の成果」を正しく認められたのだ。

それは、自尊心を満たすような安い優越感ではなかった。

「自分という人間が今、ここに生き、確かに誰かの役に立っている」という、生の根底からの確信であった。

悠真は目頭の熱さを指先で拭い、深く息を吐き出した。

「塩田様……次の注進状の整理に入りましょう」

「おう! やろうぞ、天野殿!」

悠真は力強く筆を握り直し、墨をたっぷりと含ませて新しい和紙に向かった。

サ、サ、サ、サ。

二の丸の広間に、再び三十人の仕事人たちが走らせる筆の音が清々しく響き渡った。

窓の外では、朝靄が晴れ上がり、新春の澄み切った太陽の光が、飯盛山城の幾重もの曲輪を鮮やかに照らし出し始めていた。悠真の胸の中に、新しい年をこの城で生き抜くための、揺るぎない希望の光が満ちあふれていた。

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