第11話:空白の男
第11話:空白の男
十二月中旬の早朝、飯盛山は静かな初雪に包まれていた。
空から舞い降りる細かな雪のひらひらは、広大な曲輪群の黒々とした瓦や、切り立った石垣の表面を薄く白く染め上げていた。山鳥の声も途絶え、城内を包んでいた工事の喧騒すらも、冷たい雪の幕によって柔らかく遮られていた。
悠真は、完成した『河内国関銭改定総目録』の控えを、胸の前に大切に抱えて歩いていた。
岩成友通から命じられた役目だった。二の丸で編纂されたこの目録を、本丸の出納所へと届ける作業である。
下郭や二の丸を過ぎ、本丸へと続く急な木造渡り廊下を登っていく。
本丸の空間は、それまでの郭とはあきらかに空気が異なっていた。
そこには、将軍の御所や大名の館にあるような、絢爛豪華な金箔の屏風や、目を見張るような意匠の唐物は一切置かれていなかった。太い杉の丸太で組まれた質実剛健な木造建築。無塗装の素木の板敷きは美しく磨き上げられ、薄っすらと積もる初雪の光を反射して青白く光っていた。
静寂が、廊下全体を重く支配していた。
すれ違う小姓や警護の侍たちも、足音を極力立てないように摺り足で歩き、交わす言葉は蚊の鳴くような低い囁き声だけだった。
悠真は息を殺し、自らの足音が板敷きを鳴らさないよう慎重に歩みを進めた。
本丸中央の曲がり角に差し掛かった時のことだった。
前方の角の向こうから、静かな、しかし確かな足音が近づいてきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
足音に気づいた廊下の両脇の侍や奉行たちが、まるで風に倒れる稲穂のように、一斉にその場に平伏し、頭を板敷きに擦り付けた。
悠真も慌てて壁際に身を寄せ、膝をついて平伏した。息を吸うことすら憚られるほどの、重苦しい緊張感が廊下を満たした。
角を曲がって現れたのは、ごくわずかな側近を従えた一団だった。
先頭を歩く男の姿が、平伏する悠真の伏せられた視界の端に入ってきた。
悠真は息を止めた。
その男には、豪華な甲冑も、色鮮やかな陣羽織もなかった。
着ているのは、質の良いが質素な黒の木綿の小袖に、灰色の袴のみ。腰に差した太刀も、飾りのない実用本位の黒漆の鞘だった。
年齢は三十代後半。
痩身で、肌は驚くほど色白だった。そして、その顔立ちの中で最も強く印象に残ったのは、目の下に深く濃く刻まれた、黒い疲労の隈であった。
髭は綺麗に剃り落とされ、頬は落ちくぼみ、唇は乾燥して軽くひび割れていた。
何よりも異様だったのは、その男の動作だった。
男は歩きながら、自らの脇に抱えた分厚い「主帳面」から、一切視線を外していなかった。
左手に持ち上げた和紙の綴りを凝視し、右手には墨を含ませた小ぶりの筆を握り、歩を進めながらも紙面に判や修正の書き込みを行っていた。
怒鳴らない。演説しない。周囲を威圧するように睨みつけることもしない。
泣かず、笑わず、感情の一切を殺し、ただひたすら手元の数字と文字を追い続けている。
三好筑前守長慶。
信長に先駆けて将軍を追放し、畿内九ヶ国を掌握し、堺を保護し、南蛮貿易を推進した、日本史上最大の「空白の天下人」の真の実像が、そこに佇んでいた。
悠真の胸が、激しい衝撃で脈打った。
悠真がこれまで歴史本やドラマで見てきた「戦国の英雄」とは、根本から異なる存在だった。
織田信長のような天衣無縫のカリスマ性もなければ、豊臣秀吉のような人懐っこい陽気さもない。武田信玄や上杉謙信のような、宗教的威厳を纏った武神の如き威圧感すらない。
目の前にいる三好長慶という男は、まるで「国家という巨大な機械の部品」そのものだった。
自らの命と時間を極限まで削り、朝一番から深夜まで、この膨大な帳面と文書の海に没頭することで、畿内の秩序という巨大な機械を止めることなく回し続けている男。
長慶の身体からは、自らの存在を誇示するような余計なエネルギーが完全に削ぎ落とされていた。ただ、冷徹で静かな「責任感」の塊が、そこを歩いているようだった。
長慶の後ろから従っていた松永久秀が、平伏する悠真の横でふっと足を止めた。
久秀は悠真にだけ聞こえるような、低い囁き声を耳元に落とした。
「言ったであろう、天野殿。あれが我が主、筑前守様だ。日本一仕事をされるお方とな」
久秀の声音には、いつもの皮肉めいた含み笑いはなく、静かな尊敬の色が混ざっていた。
「あれほどに己を殺し、国を止めるまいと働くお方を、わしは他に知らん。……あれが、わしらの天下人よ」
久秀はそう呟くと、再び静かな足取りで長慶の後ろを追っていった。
長慶は悠真のすぐ脇を通り過ぎようとした時、ふと足を止めた。
長慶は廊下の端に設置された小さな文机の前に立ち、持っていた帳面を置いた。
側近の小姓が素早く朱肉の入った印箱を差し出す。長慶は一切の無駄のない動作で朱印を受け取り、帳面の最後のページに静かに判を押した。
カチリ、と朱印が和紙を叩く小さな音が、初雪の舞う静かな廊下に重く響いた。
その時、悠真の目に入ったのは、長慶の右手だった。
長慶の細く伸びた指先、その爪の隙間や皮膚のシワには、落としきれなかった黒い墨の汚れが、刺青のように深く染み込んでいた。
天下人と呼ばれる男の指先が、毎日毎日筆を握り続けたことによる、墨の汚れで塗れていたのだ。
長慶は判を押し終えると、再び帳面を脇に抱え、一切の言葉を発することなく、本丸奥の執務室へと歩み去っていった。
その背中は、驚くほど小さく、そして寂しげだった。
長慶の一団が去った後も、悠真はしばらく板敷きの上に平伏したまま、動くことができなかった。
初雪の冷気が、膝を通して身体の中に染み込んできていた。
(……三好長慶)
悠真は心の中で、その名前を強く呟いた。
歴史から消された男。教科書で「信長以前のマイナーな武将」として一言で処理される男。
なぜ、この男の存在感が歴史の中でこれほどまでに薄くなってしまったのか、悠真はその理由を痛烈に理解していた。
長慶は、自分をアピールすることをしなかったのだ。派手な合戦の勝利を誇ることも、豪華な建築物で自らの威光を示すことも、後世に残る壮大な名言を残すこともしなかった。
彼はただ、この静かな廊下を歩き、墨で汚れた指先で帳面を開き、今日一日、民が飢えず、商いが止まらず、戦が広がらないための「地味な仕事」を完璧にこなすことだけに全人生を捧げていたのだ。
それは、評価を求める人間の姿ではなかった。国家という重荷を一人で背負い、静かに死んでいく男の姿だった。
悠真はゆっくりと顔を上げた。
窓の外では、初雪が飯盛山の深い森を少しずつ白く塗り替えていた。
悠真は抱えていた目録の手触りを確かめ、立ち上がった。
長慶の墨で汚れた指先が、悠真の脳裏から離れなかった。あの男の仕事の真髄に触れたい。あの男が背負っているものの重さを、もっと近くで確かめたい。
悠真の胸の奥で、歴史研究者としての客観的な好奇心を超えた、激しい「覚悟」が、初雪の冷気の中で静かに燃え上がり始めていた。




