情熱のビターチョコと、隠し味の隠し味
二月に入り、あかね商店街のアーケードにはピンクや赤のハートマークが踊り始めた。普段は漬物屋のオヤジや乾物屋の婆さんが闊歩する渋い通りも、この時期ばかりは浮き足立った空気に包まれている。
そんな中、喫茶「夕凪」の店内は、いつも以上に不穏な空気が漂っていた。
「……陽菜。それ、何とかせぇ」
弦がカウンターの奥から、忌々しげに天井を指差した。そこには、陽菜が張り切って手作りした「トラ柄の布で作った巨大なハート形クッション」が、まるで魔除けのようにぶら下がっていた。
「えー? バレンタインやから、ちょっとは『愛』を演出せなアカンやん! 弦ちゃん、これ見て。裏にはちゃんと『商売繁盛』って刺繍してあんねんで」
「愛と商売を混ぜるな。お前のセンスは、この店の静寂を暴力的に破壊しとる」
弦は深くため息をつき、豆を挽く手に力を込めた。
口では毒づいているが、弦の心境は穏やかではない。一ヶ月前の初詣。コートのポケットの中で握りしめた陽菜の手の感触が、まだ掌に残っている。あれ以来、陽菜と目が合うたびに、心臓が変なリズムを刻んでしまうのだ。
(……陽菜は、どう思とるんや) 弦が盗み見ると、陽菜は鼻歌を歌いながら、バレンタイン用の特別メニュー「チョコナポリタン」なる狂気の試作に取り組んでいた。
「弦ちゃん! 隠し味に味噌入れてみたんやけど、食べてみて!」
「……死んでも嫌や」
カラン、コロン。
「……あ、あの。こんにちは」
店に入ってきたのは、常連客の女子高生、美咲だった。いつもなら「弦さん、今日も顔怖いですよー!」と笑う彼女が、今日はなぜか俯き、小さな紙袋を大事そうに抱えている。
「あら、美咲ちゃん! どうしたん、そんな神妙な顔して」
陽菜がカウンター越しに身を乗り出した。
「実は……これ、作ったんですけど。どうしても、渡す勇気が出なくて……」
美咲がテーブルに置いたのは、少し形は不揃いだが、一生懸命デコレーションされたブラウニーの箱だった。
美咲は、同じ塾に通う男の子にずっと片思いをしていた。今日、この後、塾の自習室で会う約束をしているという。
「でも、私みたいなのが渡しても、迷惑かなって。彼、モテるし……。それに、もし断られたら、もう友達にも戻れないし」
美咲の瞳に、不安の色が広がる。
陽菜は、かつての自分を重ねるように美咲を見つめた。 (断られたら、戻られへん。……ほんま、それよねぇ) 陽菜もまた、弦への想いを「幼馴染」という便利な言葉で蓋をし続けてきたのだ。
その時、弦が静かに美咲の前に白いカップを置いた。
「『エチオピア・イルガチェフェ』や。浅煎りにしてある」
「えっ、頼んでないですけど……」
「サービスや。……一口飲んでみろ。それはお前の持ってるチョコに一番合うように淹れた」
弦は不愛想に言うと、背を向けた。
美咲が戸惑いながら一口飲む。
「……わ。なんか、花の香りがする」
「その豆はな、厳しい自然の中で、ゆっくり時間をかけて熟成されるんや」
弦は顔を見せないまま、淡々と語り始めた。
「焦って熱を加えすぎたら香りが飛ぶし、放っておきすぎたら味が濁る。お前がそのチョコを作った時間は、無駄やない。あとは……それを『最高のタイミング』で出すだけや」
弦の言葉は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
「弦さん……」
美咲は顔を上げ、カップから立ち上がる温かい湯気を深く吸い込んだ。
「よしっ! 私、行ってきます! 弦さん、陽菜さん、ありがとうございます!」
美咲はパッと笑顔になり、風のように店を飛び出していった。
「……弦ちゃん、やるやん」
陽菜がニヤニヤしながら弦を突つく。
「『最高のタイミング』、やて? かっこよすぎて、うちのナポリタンの味が薄まりそうやわ」
「うるさい。俺は豆の特性を話しただけや」
弦は耳を赤くして、激しく皿を磨き始めた。
しかし、その夜。閉店後の「夕凪」で、弦は一人カウンターに座り、あるものと格闘していた。それは、世界大会で使った最高級のクーベルチュールと、自慢のコーヒー豆だった。
(美咲に偉そうなこと言うたけど、俺はどうなんや) 三年前、すべてを失って帰ってきた自分を救ってくれたのは、陽菜の「温度」だった。一流のバリスタとしてではなく、ただの「弦ちゃん」として扱ってくれる彼女。その絆を失うのが怖くて、自分から踏み出す「タイミング」をずっと逃してきた。
「……隠し味、か」
弦は、陽菜が試作で使っていた「味噌」をチラリと見た。彼女の料理は、いつも型破りだが、最後に必ず「ホッとする味」に落ち着く。それは彼女の心が、相手の「体温」に向いているからだ。
弦は、最高級のチョコを溶かし、そこに自分にしかできない絶妙な配合で、ある「粉末」を混ぜ込んだ。それは、コーヒー豆ではない。陽菜がいつもお雑煮やうどんに使っている、あのかぐわしい「黄金色の出汁の粉」だった。
「……完成や」
二月十四日、当日。夕暮れ時の「夕凪」は、バレンタイン限定メニューを求める客で賑わっていた。美咲もやってきて、
「無事に渡せました! ホワイトデー、一緒にどっか行こうって言われちゃいました!」
と報告し、陽菜と手を取り合って飛び跳ねていた。
営業終了後。片付けを終えた店内に、静かなジャズが流れる。
「あー、疲れた! 今日は戦場やったね。弦ちゃんもお疲れさん!」
陽菜が伸びをしながら、賄いの準備をしようとした時だった。
「……陽菜。座れ」
弦の声が、いつもより低く、そして少しだけ震えていた。
「え? なに、改まって。もしかして給料減らす話?」
「アホ。……これ、食え」
弦が陽菜の前に差し出したのは、銀色の包み紙に入った一粒のトリュフ・チョコレートだった。
「ええっ!? 弦ちゃんがチョコ? しかも手作り!?」
陽菜は目を見開き、信じられないものを見るような顔をした。
「……ホワイトデーを待てんかっただけや。味の感想を聞かせろ」
陽菜はおそるおそる、その一粒を口に運んだ。パリッとした薄いコーティングが割れ、中からとろけ出したのは……。
「……!!」
陽菜は言葉を失った。濃厚なカカオの香りと、コーヒーの深いコク。そこまでは弦の技術なら当然だ。しかし、その後から追いかけてきたのは、どこまでも懐かしく、胸が締め付けられるような「夕凪の出汁」の旨味だった。
甘いのに、少しだけ塩気があって。洋菓子なのに、味噌汁を飲んだ後のような安心感がある。
「なにこれ……めっちゃ美味しい。弦ちゃんのコーヒーと、私の……『夕凪』の味がする」
陽菜の目に、じわっと涙が浮かんだ。
「……お前が言うたんやろ。隠し味を入れるんやて」
弦はカウンターに手をつき、俯いたまま絞り出すように言った。
「俺は、お前の作る飯に合うコーヒーを淹れるために帰ってきた。……でも、それだけやない」
弦がゆっくりと顔を上げる。その瞳は、逃げることなく、まっすぐに陽菜を捉えていた。
「お前の『隠し味』になりたいんや、俺は。お前の人生の、一番近くで」
店内の空気が、熱を帯びて静止する。陽菜の心臓が、耳元で鳴っている。
「……それ、どういう意味か、わかってるん?」
「……俺が、わかりにくいこと言うたか?」
弦は、震える手で陽菜の左手をそっと握った。初詣の時、ポケットの中で繋いだあの手。今度は、誰の目も気にせず、しっかりと、力強く。
「陽菜。お前がいないと、俺のコーヒーは『夕凪』にならん。……一生、俺の隣におれ」
数秒の沈黙の後。
「……っ、ぶふぅ!!」
陽菜が突然、噴き出した。
「あはははは! 弦ちゃん、顔! 真っ赤を通り越して、ナポリタンの色になってるで!」
「……っ!! お前、人が命懸けで言うとるのに!」
弦が恥ずかしさのあまり手を離そうとするが、今度は陽菜がその手をぎゅっと握り返した。
「嘘、嘘。ごめん……嬉しすぎて、どうしてええかわからんかってん」
陽菜は涙を拭い、照れくさそうに笑った。
「弦ちゃん。あんたの隠し味、ちょっと濃すぎるわ。……でも、私にはそれがちょうどええみたい」
陽菜は弦の手を自分の頬に寄せた。
「私も、弦ちゃんがおらな、ただのうるさいオカンやから。……こちらこそ、よろしゅうね、マスター」
柱時計がボーンと、夜の八時を告げた。窓の外では、冷たい二月の風が吹いているが。あかね商店街の路地裏、喫茶「夕凪」のカウンターには、春よりもずっと温かい「凪」の時間が流れていた。
(第九話 了)




