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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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8/30

除夜の鐘と、白味噌のお雑煮マリアージュ

 十二月三十一日、午後十一時。あかね商店街の店々はとうにシャッターを下ろし、遠くから微かにテレビの特番の音が漏れ聞こえる大晦日の夜。喫茶「夕凪」の店内は、強烈な洗剤の匂いと、出汁の優しい香りが混ざり合っていた。

「あーっ! 終わったー! 今年の汚れ、今年のうちにー!」

 頭にタオルを巻いた陽菜が、カウンターに突っ伏して叫んだ。

「やかましい。換気扇の油汚れ、まだちょっと残っとるぞ」

 エプロン姿の弦が、脚立の上から冷たく言い放つ。

「ええねん! あれは来年の私へのプレゼントや! それより弦ちゃん、降りてき! 年越しそば出来たで!」

 陽菜がカウンターにドンと置いたのは、どんぶりからこぼれんばかりの大きなお揚げが乗った「きつねそば」だった。関西風の透き通ったお出汁が、湯気とともにフワリと香る。

 弦は無言で脚立を降り、手を洗ってからカウンターに座った。割り箸を割り、まずは出汁を一口すする。

(……相変わらず、こいつの出汁は美味いな。それに……)

 弦は、どんぶりの熱さを確かめるように器に触れ、チラリと陽菜を見た。出来立ての熱々のはずなのに、弦のどんぶりの出汁は「ほんの少しだけ」温度が下げられている。氷を入れたわけではない。出汁を張る前にどんぶりを温めず、意図的に飲みやすい温度に調整しているのだ。

 弦が「極度の猫舌」であることを、陽菜だけが知っている。一流のバリスタでありながら、熱いコーヒーのテイスティングの裏で人知れず舌を火傷させていた弦。陽菜は昔から、弦に出すお茶も汁物も、絶対に「火傷しない、でもちゃんと温かい」絶妙な温度で出してくれるのだ。

「……なんや、私の顔にゴマでもついてる?」

 陽菜が不思議そうに小首を傾げる。

「いや。お前のそばは、どんぶりまでガサツやなと思っただけや」

「はぁ!? 人がせっかく美味しく作ってあげたのに! もうええ、来年からはどん兵衛の特盛にすんで!」 「アホ。どん兵衛は俺が自分で作れるわ」

 文句を言い合いながら、弦の箸は止まらない。甘辛く煮られたお揚げの汁が、カツオと昆布の出汁に溶け出し、疲れた体に染み渡っていく。


「ほな、行こか!」

 年が明ける十五分前。ダウンコートでダルマのように着込んだ陽菜と、黒いチェスターコートを羽織った弦は、歩いて十分ほどの「あかね神社」へと向かっていた。

 シンと冷え切った夜気の中、二人の吐く息が白くコートの襟元へ消えていく。

「わー、やっぱりめっちゃ人おるなぁ!」

 神社の鳥居が見えてくると、すでに参拝客の長い列ができていた。若者のグループや、家族連れ。出店の甘いベビーカステラの匂いと、お神酒のアルコールの匂いが混ざり合う。

「チッ……。だから俺は寝てたい言うたのに。こんな人混み、罰ゲームやろ」

 弦が眉間にシワを寄せて舌打ちをする。

「まあまあ! 一年の計は元旦にあり、やで。しっかり神様にお願いせな!」

 ゴォーン……。

 遠くのお寺から、除夜の鐘が響き始めた。同時に、周囲の若者たちが

「十、九、八……」

 とカウントダウンを始める。

「弦ちゃん! あと五秒! ほら、手合わせて!」

 陽菜が弦の袖を引っ張る。

「アホか。まだ賽銭も入れとらんのに、どこ向かって手合わすねん」

「ゼロ! ハッピーニューイヤー!!」

 周囲から歓声が上がり、拍手が巻き起こった。

「弦ちゃん、あけましておめでとう! 今年も夕凪で、いっぱい美味しいもん作ろな!」

 陽菜が満面の笑みで、弦を見上げて言った。

 その瞬間、弦の胸の奥で、トクンと何かが跳ねた。――五つ星ホテルにいた頃。大晦日のカウントダウンは、シャンパンタワーとドレスアップした客たち、そして終わりの見えないオーダーの連続だった。  誰が笑っているのか、自分が何のためにコーヒーを淹れているのかもわからない、嵐のような夜。

 それに比べて、今はどうだ。安っぽいダウンコートを着た、騒がしい幼馴染。だけど、この冷たい夜風の中で、彼女の笑顔だけが、ひだまりのように温かかった。

「……おう。今年も、せいぜい皿割らんように気ぃつけろよ」

 弦は顔を背け、マフラーに口元を埋めながら、ぶっきらぼうに答えた。


 列が少しずつ進み、ようやく手水舎の近くまで来た時だった。

「うぇーい! あけおめー!」

 後ろから、すっかり出来上がった酔っ払いの大学生の集団が、ふざけ合いながら押し寄せてきた。

「おっと……」

 集団の一人が大きくよろけ、陽菜の背中にドンッとぶつかった。

「わっ!?」

 雪が残る石畳の上で、陽菜の足が滑る。ヒールのないブーツを履いていたが、不意打ちすぎて踏ん張りがきかない。コンクリートの角に頭をぶつける――。陽菜が目を閉じた、その瞬間。

 グンッ!

 強い力で腕を引かれた。陽菜の体は宙に浮き、次の瞬間、厚手のチェスターコートの胸の中にすっぽりと収まっていた。鼻をかすめる、深煎りのコーヒー豆と、冷たい冬の匂い。

「……よそ見しとるからや、アホ」

 頭の上から、弦の低く、少しだけ焦った声が降ってきた。

「ご、ごめん……」

 陽菜が顔を上げると、弦の顔がすぐ目の前にあった。弦は陽菜を腕の中に抱き寄せたまま、ぶつかってきた大学生たちを冷たい目で一瞥した。その圧倒的な静かな怒りに、大学生たちは「ひっ、すんません!」と青ざめて逃げていった。

「……ケガ、ないか」

「う、うん。大丈夫」

 陽菜が慌てて離れようとすると、弦は陽菜の右手をガシッと掴んだ。

「弦ちゃん……?」

「……はぐれたら面倒や。俺のコートのポケット、入れとけ」

 弦は陽菜の小さな手を、自分のコートの大きなポケットの中に無理やり突っ込んだ。そして、ポケットの中で、陽菜の指に自分の指をきつく絡ませた。

「えっ……」

 陽菜の顔が一瞬で沸騰したように赤くなる。周囲の喧騒が、嘘のように遠のいていく。それはまさに、海風と陸風が入れ替わる瞬間、すべての波が止まる「夕凪」のような静寂だった。

 ポケットの中の弦の手は、いつもサイフォンを握る、少しだけ硬くて、大きな手。そして、とても温かかった。

「……手、冷たいぞ」

「弦ちゃんが、あったかいねん」

「……アホ」

 二人はポケットの中で手を繋いだまま、無言で神様の前に立ち、静かに手を合わせた。

(神様。この温かい『夕凪』の時間が、ずっとずっと、続きますように――)

 陽菜は目を閉じ、心の中で深く祈った。


 元旦の朝。夕凪の二階にある弦の自宅リビング。こたつに入って丸くなっている弦の前に、お盆に乗ったお椀がコトリと置かれた。

「はい、お待たせ! 陽菜特製、関西風・白味噌のお雑煮やで!」

 初詣から帰り、そのまま弦の家で仮眠をとった陽菜が、エプロン姿で胸を張る。

 お椀の蓋を開けると、とろりとした乳白色の白味噌の汁に、丸餅、金時人参、そして里芋が顔を覗かせた。

「ほお……」

 弦は珍しく感嘆の声を漏らし、お椀を手に取った。これまた、猫舌の弦のために「熱すぎない」完璧な温度だ。

 一口飲むと、白味噌の濃厚な甘みと、カツオ昆布出汁の深い旨味が口いっぱいに広がる。丸餅はとろとろで、金時人参の赤が目にも鮮やかだ。

「……美味いな」

「せやろ! 大阪の正月言うたら、やっぱりこれやねん!」

 陽菜が自分の分のお雑煮を食べようとした時、弦がスッと立ち上がり、キッチンへ向かった。そして、手早くお湯を沸かし、ハンドドリップでコーヒーを淹れ始めた。

「えっ、お雑煮にコーヒー?」

「お前は黙って食っとれ」

 数分後。陽菜の前に、小ぶりなカップが置かれた。

「『新年ブレンド』や。インドネシアのマンデリンをベースに、少しだけ深煎りにした」

 陽菜は半信半疑で、白味噌のお雑煮を食べた後に、コーヒーを口に含んだ。

「……!! なにこれ!」

 白味噌の強烈な甘みとコク。普通なら口の中がもたれてしまうところを、マンデリン特有の「大地のような深い苦味とハーブの香り」が、スパッと見事に切り裂いたのだ。口の中がリセットされるだけでなく、白味噌の余韻とコーヒーの香りが混ざり合い、信じられないほどの上品な後味を生み出している。

「嘘やん……。お雑煮とコーヒーが合うなんて、聞いたことないで!」

「合うようにブレンドしたんや。俺の腕を舐めるな」

 弦がこたつに戻り、ドヤ顔で自分のカップをあおる。


「……なぁ、弦ちゃん」

 お雑煮を平らげた後、陽菜がこたつの上でみかんに手を伸ばしながら、ぽつりと言った。

「ホテルにおった頃の正月って、もっと凄かったんやろな。高級なシャンパンとか、キャビアとか。……こんな、こたつで白味噌すすってるような正月で、弦ちゃん、ほんまに退屈ちゃう?」

 陽菜の言葉に、弦はコーヒーカップを置いた。窓の外では、元旦の澄み切った青空が広がっている。

「……陽菜」

「ん?」

「お前、『夕凪』っていう言葉の意味、知ってるか」

 突然の問いに、陽菜は目をパチクリとさせた。

「夕凪? えーっと、うちの店の名前やろ。夕方に風が止まる……みたいな?」

「ああ。海辺で、昼の風と夜の風が入れ替わる時、ピタリと風が止んで、波が静かになる一瞬のことや」

 弦は窓の外から視線を戻し、陽菜をまっすぐに見つめた。

「俺は、前のホテルにおった時、ずっと嵐の中にいるみたいやった。周りの音も、コーヒーの匂いも、全部が俺を追い詰める暴風雨やったんや」

「弦ちゃん……」

「でもな」

 弦はこたつの上で、陽菜の指先に、自分の小指をそっと触れさせた。

「あの日、お前が作った不細工なオムライス食った時。……俺の中で、ピタリと風が止んだんや」

「えっ」

「シャンパンもキャビアもいらん。俺には、お前の出汁の匂いと、この騒がしい時間が……俺の『夕凪』なんや。だから、退屈なわけないやろ、アホ」

 弦はそう言い捨てると、耳まで真っ赤にして、逃げるようにみかんを剥き始めた。

 陽菜は、触れ合った小指の熱を感じながら、胸が張り裂けそうになるのを必死でこらえた。

(あかん。そんなん言われたら……私、ほんまに弦ちゃんのこと……)

 テレビからは、お正月の明るいお囃子の音が流れている。あかね商店街の片隅。小さな喫茶店の二階で、二人の「夕凪」の時間が、静かに、そして確かに深まっていった。


(第八話 了)

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