聖夜のサンタクロースと、心ほどける特製シチュー
十二月二十四日。クリスマスイブ。めったに雪の降らない大阪の下町にも、今年ばかりは朝から冷たい粉雪が舞っていた。
あかね商店街は年末の買い出し客とクリスマスムードでごった返しているが、路地裏の喫茶「夕凪」の店内は、なんとも言えない奇妙な空気に包まれていた。
「……おい、陽菜。これは何の嫌がらせや」
カウンターの中で腕を組む弦の視線の先には、店の隅に鎮座する高さ二メートルほどのクリスマスツリーがあった。ツリー自体は普通だ。問題は、そのオーナメントである。ピカピカ光る電飾に混じって、なぜか「トラ柄の靴下」「たこ焼きのキーホルダー」、そして「商売繁盛の千社札」がこれでもかと飾り付けられていた。
「えー? 商店街の福引きで当たったツリーやで? そのまま飾るんも味気ないから、私なりの『オカン的クリスマス・アレンジ』を加えてみてん。どや、大阪らしくてめっちゃエモいやろ!」
陽菜がドヤ顔で胸を張る。
「エモい通り越して胸焼けがするわ。サンタも逃げ出すわこんなもん」
弦が深くため息をついた、その時だった。
カラン、コロン……。
ベルが弱々しく鳴り、重い木製のドアがギィと開いた。
「いらっしゃーい! メリークリスマ……あら?」
陽菜が声をかけかけて、目を丸くした。
そこに立っていたのは、常連客ではない。冷たい雪に肩を濡らし、マフラーに顔を埋めるようにして震えている、小学校低学年くらいの男の子だった。手袋もしておらず、小さな手は真っ赤に悴んでいる。そして何より、その目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「ぼ、ぼく……」
男の子はしゃくりあげながら、カウンターの前に進み出た。
「あの、おねえちゃん。ぼく、落とし物しちゃって……」
「ええっ!? どないしたん、外めっちゃ寒かったやろ!」
陽菜は慌ててカウンターから飛び出し、男の子の肩に羽織っていたカーディガンを掛けた。
「お母さんに……内緒で買った、プレゼント……落としちゃったの……」
男の子――コウタ(八歳)は、せきを切ったように泣き出した。
「とりあえず、これ食え」
十分後。ストーブの前の特等席に座らされたコウタの前に、湯気を立てる深皿がコトリと置かれた。陽菜特製の『ごろごろチキンのクリームシチュー』だ。
「今日はクリスマスイブやからな、賄い用に気合い入れて作っててん! にんじんも星型に切ったんやで。遠慮せんと食べ!」
コウタは涙を拭い、スプーンを握った。一口食べると、濃厚なミルクとバターのコク、そしてホロホロに煮込まれた鶏肉の旨味が口いっぱいに広がる。冷え切った小さな体が、内側からじんわりと温まっていく。
「……おいしい」
「せやろ! ほんでな、コウタ君。落とし物って、どこで落としたかわかる?」
陽菜がシチューを食べるコウタの目線に合わせてしゃがみ込み、優しく尋ねた。
コウタの話によると、彼は女手一つで育ててくれている母親のために、自分のお小遣いを貯めて駅前の雑貨屋で「キラキラした花のヘアピン」を買ったらしい。母親は今日、夜の八時までスーパーのレジ打ちのパートだ。「お母さんが帰ってくる前に家に置いておこう」と急いで帰る途中で、小さな紙袋を落としてしまったのだという。
「交番にも行ったけど、届いてなくて……。もっかい探そうと思ったけど、寒くて、足が痛くなって……ここ、あったかそうな明かりがついてたから……」
それを聞いた陽菜は、たまらず目頭を押さえた。
「ええ子や……! ほんまにええ子や! 弦ちゃん、私ちょっと商店街じゅう探してくる!」
「待て、アホ」
弦が低い声で陽菜を引き止めた。
「あてもなく雪の中探して見つかるわけないやろ。……コウタ。お前、駅前の雑貨屋から家まで、どうやって帰ってきた?」
「えっと……大通りの信号が赤だったから、近道しようと思って、神社の裏の細い道を抜けて……」
弦の視線が、コウタの足元に落とされた。履き古されたスニーカーの側面には、赤い粘土質の泥がこびりつき、底の溝には「ギザギザした葉っぱ」が挟まっていた。
「……なるほどな」
弦は布巾をカウンターに置き、無造作にコートを羽織った。
「弦ちゃん? どこ行くん?」
「お前は店番しとけ。コウタに風邪引かすなよ」
弦はそれだけ言うと、雪の降る暗い路地へと足早に飛び出していった。
三十分後。コウタがシチューを平らげ、陽菜が温かい麦茶を淹れた頃。
バンッ!
勢いよくドアが開き、頭や肩にうっすらと雪を積もらせた弦が帰ってきた。その顔は寒さで青白く、息を白く弾ませている。
「弦ちゃん! 大丈夫!?」
陽菜が慌ててタオルを差し出す。
弦は無言でタオルを受け取ると、コートのポケットから、少しだけ端が濡れてクシャッとなった「小さな紙袋」を取り出した。
「あっ……!」
コウタが弾かれたように立ち上がる。
「……神社の裏道の、イチョウの木の根元に落ちとったわ」
弦はぶっきらぼうに言いながら、その小さな紙袋をコウタの手にポンと乗せた。
「中身は無事や。確認しろ」
コウタが震える手で紙袋を開けると、そこには、安物だが可愛らしい、キラキラと光る花のヘアピンが入っていた。
「……あった。あったぁ……!」
コウタはヘアピンを胸に抱きしめ、今度は安堵の涙をぽろぽろとこぼした。
「弦ちゃん、あんたエスパーか何か!?」
陽菜が驚愕して弦を見る。
「アホか。あいつの靴の泥や。あの赤い粘土質の土と、柊の落ち葉が挟まる場所なんて、この近所じゃあかね神社の裏道しかないやろ。雪が積もる前に見つかってよかったわ」
弦は鼻をすすると、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いた。
その時。
「コウタ!!」
悲鳴のような声とともに、パートの制服の上にコートを羽織っただけの女性が店に飛び込んできた。コウタの母親だ。
「お母さん!」
「あんた、家に帰ってもおらんから、お母さんどんだけ心配したと……!」
母親はコウタをきつく抱きしめ、その場にへたり込んだ。
「ごめんなさい……でも、これ」
コウタは、母親の胸に小さな紙袋を押し付けた。
「いつもお仕事がんばってるから。サンタさん、ぼくじゃなくて、お母さんのところに来たんだよ」
紙袋の中のヘアピンを見た母親は、息を呑み、そして顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
「ありがとう……! ほんまに、ありがとうねぇ……!」
その光景を見て、陽菜もたまらずカウンターの奥で「ズビッ」と豪快に鼻をかんだ。
「……おい、お母さん」
弦が静かに声をかける。いつの間にか、弦の手には二つのテイクアウト用の紙コップが握られていた。
「これ、持って帰れ。うちの特製『カフェモカ』や。甘いもん飲んで、あったかくして寝ろ」
母親は涙を拭い、何度も何度も頭を下げて、コウタの手を引いて店を出て行った。外の雪は、いつの間にか止んでいた。
「……はぁー。ええクリスマスやったねぇ」
午後九時。シャッターを下ろし、すっかり静まり返った店内で、陽菜はトラ柄のオーナメントが光るツリーを見上げながら呟いた。
「なにがええクリスマスや。ガキの使いで走り回らされて、凍え死ぬかと思ったわ」
弦はストーブの前に陣取り、まだ少し震えている。
「ふふっ。でも、弦ちゃんが一番必死やったやん。はい、これ」
陽菜は、弦の前に湯気を立てるシチューの皿を置いた。
「まかないの残り。多めによそっといたで」
弦は無言でスプーンを取り、一口食べた。
「……にんじんがデカすぎる。煮込みが甘い」
「文句言うな! 黙って食べ!」
文句を言いながらも、弦の食べるスピードは速い。あっという間に皿を空にすると、彼は立ち上がり、サイフォンの前に立った。
「陽菜」
「ん?」
「……飲むか」
弦が淹れたのは、いつもの夕凪ブレンドではない。シナモンとカルダモンの香りがほのかに漂う、特別な一杯だった。
「わ、なにこれ。めっちゃええ匂い!」
「『クリスマス・ブレンド』や。スパイス効かせとるから、体があったまる」
二人はカウンターに並んで座り、静かにコーヒーをすすった。外からは、どこかの家で流しているであろう、かすかなクリスマスソングが聞こえてくる。
「……なぁ、弦ちゃん」
陽菜がマグカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「私な、弦ちゃんが店継ぐって帰ってきた時、ほんまはちょっと心配やってん。あんなすごいホテルのバリスタやったのに、こんな下町で、私の作った変なツリー見ながら、おばちゃんやお子ちゃま相手にコーヒー淹れてて……弦ちゃんは、ほんまにこれで幸せなんかなって」
弦はコーヒーカップを見つめたまま、しばらく沈黙した。そして、ふっと小さく息を吐いた。
「……一流のホテルには、美味いコーヒーはある。でも、あそこには『オカンのシチュー』はないし、アホみたいに派手なツリーもない」
「アホってなんやねん」
「俺は……」
弦はカップを置き、まっすぐに前を見た。
「今日みたいに、誰かが笑って、泣いて、腹いっぱいになって帰っていく。その横でコーヒーを淹れる、今のこの場所が……悪くないと思ってる。いや……」
弦は言葉を区切り、ほんの少しだけ、陽菜の方へ顔を向けた。
「お前の淹れるシチューの匂いがするこの店が、俺の『帰る場所』なんやろな」
ドキン。
陽菜の心臓が、今日一番の大きな音を立てた。弦は耳まで真っ赤にして、誤魔化すように残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「……あー、熱っ! スパイス効かせすぎたわ。帰るぞ、戸締まりせぇ!」
「あ、ちょ、待ってや弦ちゃん! 今のめっちゃええセリフやん! 録音しとけばよかったー!」
「やかましい! 二度と言わんわ!」
逃げるように裏口へ向かう弦の背中を、陽菜は笑いながら追いかけた。
メリークリスマス。
トラ柄のオーナメントが揺れる小さな喫茶店に、今年も温かい夜が更けていく。
(第七話 了)




