映えないナポリタンと、氷音(こおりおと)のアイスコーヒー
あかね商店街に、少し冷たい初冬の風が吹き始めた十一月の平日。午後二時過ぎの「夕凪」は、常連客の波も引き、穏やかな時間が流れていた。
カチャカチャ、というグラスを洗う音と、壁の柱時計のコチコチという音だけが響く店内。陽菜はカウンターに身を乗り出し、あくびを噛み殺していた。
「あー、暇やねぇ。弦ちゃん、なんぞ面白い話でもしてや」
「暇なら壁でも磨いとけ。だいたい、俺に面白い話なんかあるわけないやろ」
弦が冷たく言い放ち、黒い豆を黙々とハンドピックしている。
その時だ。
カラン、コロン!
勢いよくベルが鳴り、一人の若い男が店に飛び込んできた。派手な金髪に、大きめの丸眼鏡。ダボダボのパーカーを着たその男の手には、自撮り棒に固定された最新のスマートフォンが握られていた。
「はいドーモ! 皆さんこんにちは! 今日はね、大阪の超・ドープなディープスポット、『あかね商店街』に潜入しておりまーす! 見てこの、昭和感満載の喫茶店! エモいっしょ!?」
男はスマホのカメラに向かって早口でまくしたてながら、店内にずかずかと上がり込んできた。
弦の手がピタリと止まり、その眉間に、マリアナ海溝よりも深いシワが刻まれる。
「……なんや、あのアホは」
「あー、最近よくおるYouTuberさん? TikTokerさん? ってやつちゃうかな」
陽菜が呑気に首を傾げる。
男はカウンターの前に立つと、ジンバルを持ったまま得意げに笑った。
「あ、すんませーん! 俺、SNSでグルメ系インフルエンサーやってる『タッキー』って言います! フォロワー三十万人いるんで、この店のバズるメニュー、紹介してくれませんか? あ、撮影許可とかはもう事後承諾でいいっすよね!」
タッキーと名乗った男は、断られることなど微塵も考えていない様子で、勝手に一番奥の特等席にドカッと座り込んだ。
「……帰れ」
地鳴りのような、低くて冷たい声が響いた。弦がカウンターから身を乗り出し、タッキーを睨みつける。
「うちは見せ物小屋ちゃうぞ。他所の客の迷惑になる。カメラ回すなら出てけ」
「えーっ!? ちょっと店長さん、もったいないっすよ!」
タッキーが大げさにリアクションをとる。
「俺が動画上げたら、明日からこの店、行列できますよ? 宣伝費タダっすよ! ていうか、このレトロな感じ、絶対『映え』るんで! 何か一番写真映えするヤツ、ドーンと出しちゃってくださいよ!」
「映え……やと?」
弦の目が、すっと細められた。一流バリスタであった過去を持つ弦にとって、「味」よりも「見栄え」を気にする人間は、親の仇に等しい。
(あかん、これ、弦ちゃんがキレてまうパターンや……!) 陽菜は慌てて弦の前に立ち塞がり、タッキーに向かって「オカン全開」の笑顔を作った。
「いらっしゃいタッキー君! うんうん、若い子がわざわざうちみたいな古くさい店に来てくれて嬉しいわぁ! 一番映えるメニューやね? よっしゃ、お姉さんに任せとき!」
「おい、陽菜」
弦が低い声で咎める。
「ええからええから! 弦ちゃんはコーヒー淹れる準備しとき!」
陽菜はタッキーにウインクすると、厨房の奥へと引っ込んだ。弦はチッと舌打ちをして、諦めたように冷蔵庫から水出しコーヒーのピッチャーを取り出した。
ジュウウウウウウ……ッ!
十分後。店内に、強烈に食欲をそそる音が響き渡った。ケチャップの焦げる甘酸っぱい匂い。バターの芳醇な香り。そして、玉ねぎとピーマンが炒められる香ばしさ。
「はい、お待たせ! うちの看板メニュー、『鉄板ナポリタン・目玉焼き乗せ』やで!」
陽菜がタッキーの前にドンッと置いたのは、熱々に熱せられた黒いステーキ用の鉄板だった。その上には、太めのスパゲッティが山盛りにされ、真っ赤なケチャップでコテコテに炒められている。上には半熟の目玉焼きがどーんと鎮座し、粉チーズが雪のようにまぶされていた。
ジュージューと跳ねるケチャップソース。決して「洗練された美しさ」ではない。むしろ、カロリーの暴力、B級グルメの極みだ。
「……えっ。ナポリタン?」
タッキーが拍子抜けしたような声を出す。
「いや、もっとこう……カラフルなクリームソーダとか、でっかいパフェとか、そういうの無いんすか? これじゃただの茶色いメシじゃないっすか。『映え』ないっすよ」
「はぁ? 何言うてんのん」
陽菜が腰に手を当てる。
「あんた、この音と匂いがわからんの? 飯の『映え』ってのはな、目で見るもんちゃう。五感で感じるもんや!」
「いやいや、SNSじゃ匂いは伝わんないんで。とりあえず、いろんな角度から撮ってみますね」
タッキーはスマホを構え、立ち上がってパシャパシャとシャッターを切り始めた。目玉焼きにフォークを刺す動画、鉄板を下から煽る動画、自分の顔とナポリタンを交互に映す自撮り……。
三分経過。五分経過。鉄板のジュージューという音はすでに消え、ナポリタンの端っこは焦げ付き、上の目玉焼きの半熟も固まりかけていた。
その時。
ガンッ!!
タッキーのテーブルに、乱暴にグラスが置かれた。
「ひっ!」
見上げると、般若のような顔をした弦が立っていた。
「……なんすか」
「飯とコーヒーは生モンや」
弦の目は全く笑っていない。
「今すぐカメラをしまって食うか、さもなきゃその冷めた餌、今すぐゴミ箱にぶち込むか。三秒以内に選べ」
「はぁ!? お客に向かって何言って……」
「三」
「えっ、マジっすか」
「二」
「わ、わかりました! しまいます! しまいますから!」
弦の圧倒的な殺気に、タッキーは慌ててスマホの録画を止め、ポケットに突っ込んだ。
「さっさと食え。……陽菜の作った飯を冷ますやつは、俺が許さん」
弦は吐き捨てるように言うと、カウンターへ戻っていった。その背中を見て、陽菜は顔を真っ赤にして両手で頬を覆った。(ちょっと弦ちゃん、そういうセリフ、反則やねんけど!)
タッキーは少し震える手でフォークを握り、固まりかけた目玉焼きを崩して、ナポリタンと一緒に大きく口に運んだ。
「……あ」
タッキーの目が見開かれた。 (なんだこれ。美味い……!)
太めの麺はもっちりとしていて、甘みと酸味のバランスが絶妙な特製ケチャップソースが、これでもかと絡みついている。バターの深いコク。そして、少しだけ焦げた部分の香ばしさが、たまらないアクセントになっていた。
「どう? 美味しいやろ?」
陽菜がニヤニヤしながら尋ねる。
「……美味いっす。めちゃくちゃ美味い」
タッキーはもう、カメラのことなど忘れて夢中でフォークを動かしていた。口の周りをケチャップでオレンジ色に染めながら、あっという間に鉄板の半分を平らげる。
「で、そこでこれや」
弦が置いたグラスには、大きな丸い氷と、黒々としたアイスコーヒーが入っていた。
タッキーはナポリタンの濃厚な後味を持ったまま、ストローでアイスコーヒーを吸い込んだ。
「!!」
キンキンに冷えたアイスコーヒーは、驚くほどスッキリとしていた。嫌な苦味が一切なく、喉の奥を滑り落ちていくと同時に、ナポリタンの脂っこさとケチャップの濃さを、さーっと洗い流してくれるのだ。そして、鼻に抜けるのは、カカオのような甘く芳醇な香り。
「このコーヒー……なんだこれ。水みたいに飲めるのに、香りがヤバい……!」
「『水出し(コールドブリュ)』や。丸一日かけて、一滴ずつゆっくり抽出した」
弦がカウンターの奥で、静かに言った。
「ナポリタンみたいに味の濃いもん食うた後は、酸味や苦味が強すぎるコーヒーは喧嘩する。だから、雑味の少ない水出しを合わせるんや」
タッキーはナポリタンを食べ、コーヒーを飲み、またナポリタンを食べる無限ループに陥った。グラスの中で、大きな丸氷が「カラン」と涼しげな音を立てる。SNSの「いいね」の数も、フォロワーの反応も、今はどうでもよかった。目の前にある「美味い」という圧倒的な事実だけで、彼の頭の中はいっぱいになっていた。
「……ごちそうさまでした」
タッキーは空になった鉄板とグラスを見つめ、深く息を吐いた。口の周りを紙ナプキンで拭きながら、彼は弦と陽菜に向かって深く頭を下げた。
「俺、最近ずっと『どうやったらバズるか』『どうやったら美味しそうに見えるか』ばっかり考えてて……ご飯が冷める前に食べるなんて、何ヶ月ぶりか忘れてました」
タッキーは苦笑いをして、スマホを取り出した。
「店長さんの言う通りっすね。飯は生モンだ。……今日の動画は、ボツにします」
「えっ、もったいない! うちのナポリタン、アップにして宣伝してくれてええんやで?」
陽菜が言うと、タッキーは首を振った。
「ダメっすよ。ここは、スマホの画面越しじゃ絶対伝わらない魅力がある。俺だけの『秘密の隠れ家』にしときます」
タッキーは千円札を二枚カウンターに置き、
「また、カメラ持たずに来ます!」
と満面の笑みで店を出て行った。
カランコロン! と、今日一番の心地よいベルの音が響いた。
静かになった店内。
「……あーあ、せっかく行列できるチャンスやったのにぃ」
陽菜が鉄板を片付けながら、わざとらしくため息をついた。
「アホか。あんなアホどもが群がってきたら、常連の爺さん婆さんの座る席がなくなるやろが」
「はいはい、わかってますよーだ。弦ちゃんは、うちの常連さん第一やもんね」
陽菜はふふっと笑い、弦の背中を突いた。
「でもさっきのセリフ、ちょっと見直したで。『陽菜の作った飯を冷ますやつは、俺が許さん』……やって! キャー、男前!」
陽菜が茶化すと、弦は持っていた布巾を陽菜の顔にバサッと投げつけた。
「やかましい! 二度と言わんわ!」
「あはは! 耳真っ赤やで!」
柱時計がボーン、と少し遅れて三時を告げる。
「映え」なんかなくてもいい。ジュージューと跳ねるナポリタンの音と、氷がグラスに当たる涼やかな音。そして、幼馴染の他愛のない笑い声。 喫茶「夕凪」の日常は、誰のフィルターも通さない、最高に「エモい」時間なのだ。
(第六話 了)




