不器用な休日と、琥珀色のマグカップ
ガチャン!!
木曜日の夕方。閉店作業中の「夕凪」の厨房に、派手な破砕音が響き渡った。カウンターを拭いていた弦が、ゆっくりと目を閉じて深い深いため息をついた。
「……陽菜。今週で三個目やぞ。お前、手がザルなんか?」
「ご、ごめん! ちゃうねん、洗剤が滑って……ああっ!」
陽菜が泣きそうな声でしゃがみ込んでいる。割れていたのは、店の備品ではない。陽菜が愛用していた、ド派手なトラ柄(本人はベンガルタイガーと言い張っていた)のマグカップだった。
「あーあ……私のお気に入りやったのに。これで飲む朝のコーヒーが一番美味しかってん……」
破片を拾い集めながら、陽菜は本気で落ち込んでいる。弦は呆れたように首を振った。
「あんな悪趣味なコップ、割れて正解や。視界に入るたびに俺のコーヒーの品格が下がる気がしとったわ」
「弦ちゃんのバカ! 血も涙もないバリスタロボット!」
「誰がロボットや。……さっさと片付けろ。怪我すんなよ」
弦はぶっきらぼうにほうきとちりとりを渡すと、さっさと自分のエプロンを外し始めた。
「明日は定休日やな」
「……うん。せやけど、マグカップのショックで寝込むかもしれん」
「アホなこと言うな。明日、朝十時に淀屋橋の駅前な」
「……へ?」
陽菜が間の抜けた声を出す。
「淀屋橋? なんで?」
「中之島の公会堂の広場で、関西最大級の『陶器とコーヒーの蚤の市』やってんねん。店の新しい豆皿も探したいし……お前のその、アホみたいなコップの代わりも、探さなあかんやろが」
弦はそっぽを向いたまま、店の鍵をガチャリと回した。
「え……」
陽菜の胸が、トクンと鳴った。 (それって、一緒に買い物行くってこと? いや、二人で出かけるなんて子供の頃から何度もあったけど……。なんか、先週の一件から、弦ちゃんの顔をまともに見られへんねんけど!)
「十時やぞ。五分遅れたら置いていくからな」
「わ、わかった! 行く! 絶対行く!」
こうして、二人の「定休日のお出かけ」が急遽決定したのである。
翌朝、秋晴れの淀屋橋駅前。イチョウ並木がほんのりと色づき始めている。
「……遅い」
弦は腕時計を見て、チッと舌打ちをした。現在、十時三分。彼は普段のエプロン姿とは打って変わって、細身の黒いスラックスに、上質なキャメル色のニットを合わせていた。無愛想な顔立ちのせいで、ただ立っているだけでファッション誌のモデルのように見えなくもない。(現に、さっきからすれ違う女性たちがチラチラと彼を見ている)。
「弦ちゃーん! ごめん、待った!?」
改札の方から、小走りで陽菜がやってきた。弦は文句を言ってやろうと振り向き――言葉を失った。
今日の陽菜は、いつもの「大阪のオカン」感溢れるヒョウ柄スカーフを封印していた。落ち着いたマスタードイエローの秋らしいワンピースに、少しだけヒールの高いブーツ。髪もふんわりとまとめられ、メイクも普段より少しだけ大人びている。
「……なんや、その格好」
弦が顔をしかめて言った。照れ隠しであることは、幼稚園からの付き合いである陽菜にはバレバレだった。
「えへへ、気合い入れてん! やっぱりビジネス街の中之島行くなら、ちょっとはシュッとせなアカン思て。どや?」
「……アホか。ただの買い出しやぞ。歩き回るのにヒールなんか履いてきよって。足痛くなってもおぶってやらんからな」
「もう、素直に『似合ってる』って言われへんの? 弦ちゃんのへんこつ!」
言い合いながらも、二人は並んで歩き出した。土佐堀川沿いのレトロなレンガ造りの建築物を眺めながら、中之島公園へと向かう。いつもカウンター越しに向かい合っている二人が、こうして肩を並べて歩くのは、なんだかとても新鮮だった。
中之島公会堂前の広場は、凄まじい熱気に包まれていた。全国から集まった陶器の窯元や、アンティークショップのテントがずらりと並び、コーヒーを淹れる芳ばしい香りが風に乗って漂っている。
「うわぁー! すごい! めっちゃお洒落やん!」
陽菜は目を輝かせ、あちこちのテントへ駆け出した。
「弦ちゃん、これ見て! このお皿、ワンちゃんの顔描いてある! 可愛い!」
「却下や。うちの店の雰囲気に合わん」
弦は腕を組み、冷酷な審査員のように次々と陽菜の提案を切り捨てていく。彼は一つのテントの前で立ち止まり、シンプルな白磁のカップを手に取った。指先で弾き、音を確かめる。
「ええ仕事しとる。縁の薄さが絶妙や。口当たりが邪魔にならん」
「……弦ちゃん、そういうとこ、ほんま職人やなぁ」
真剣な横顔で器を吟味する弦を見て、陽菜は少しだけ胸がドキリとした。 (桐谷さんが言ってた通り、弦ちゃんはほんまは、手の届かんくらいすごい人なんやな……)
少しだけ寂しさを感じていると、不意に弦が振り返った。
「おい。お前のコップはどうすんねん。さっさと選べ。腹減った」
「あ、うん! せやな!」
陽菜は慌ててアンティークのマグカップが並ぶ棚を覗き込んだ。しかし、どれも素敵だが、あの「トラ柄」のようなしっくりくるものがない。
「うーん……なんか違うんよねぇ。もっとこう、パッと目が覚めるような……」
「お前は一生トラ柄でも探しとけ。俺はあっちのドリッパー見てくるから、迷子になんなよ」
「子供ちゃうわ!」
弦が別のテントへ向かった後、陽菜は一人でぐるぐると店を回った。ふと、広場の奥の方から、猛烈にいい匂いが漂ってきた。 「……スパイスカレー? わ、限定五十食やって!?」
食い意地の張っている陽菜は、陶器探しをすっかり忘れ、カレーの屋台へとフラフラ吸い寄せられてしまった。
「やばい……やってもうた……」
十五分後。絶品のスパイスカレーを立ち食いして大満足の陽菜だったが、ふと我に返ると、自分が広場のどこにいるのか全くわからなくなっていた。週末の蚤の市は凄まじい人出だ。見渡す限り人、人、人。
「弦ちゃん……どこやろ」
スマホを取り出すと、バッテリーが見事に『1%』を表示していた。
「うそやん、昨日充電せんと寝落ちしたんやった!」
画面がプツリと暗転する。完全に詰んだ。
周囲には、楽しそうに笑い合うカップルや家族連れがあふれている。いつもなら「弦ちゃーん!」と大声で叫ぶところだが、こんなお洒落な場所でそれをやるのはさすがに恥ずかしい。陽菜は急に、心細くなってきた。
(私、いっつも弦ちゃんに頼ってばっかりやな。弦ちゃんがおらんかったら、ただのドジなオカンやん……)
足が痛くなってきた。弦の言った通り、慣れないヒールを履いてきたせいだ。公会堂の隅のベンチにちょこんと座り、陽菜はため息をついた。
「……帰ろかな」
その時。
「――お前は、ほんまに目を離すとすぐどっか行くな」
頭の上から、聞き慣れた、低くてぶっきらぼうな声が降ってきた。陽菜がバッと顔を上げると、そこには眉間に深いシワを寄せ、少しだけ息を切らした弦が立っていた。
「弦ちゃん……!」
「スマホに電話しても繋がらんし。カレーの匂い辿ってきたら案の定や。お前は犬か」
悪態をつきながらも、弦の目は明らかに安堵していた。
「ごめん……。迷子になった上に、ヒールで足痛なってもうて」
陽菜がしょんぼりとうつむく。
弦はチッと舌打ちをして、陽菜の隣にどかっと座った。そして、持っていた紙袋の中から、小さな箱を無造作に取り出し、陽菜の膝の上にポンと置いた。
「なに、これ」
「開けてみろ」
陽菜がリボンを解き、箱を開けると――。中には、ぽってりとした丸みを帯びた、一つ一つ手焼きされたであろう温かい琥珀色のマグカップが入っていた。
「わぁ……綺麗……!」
「備前焼の若手の窯元のやつや。釉薬を使ってないから、使い込むほどに色が変わって手に馴染む。お前のガサツな手でも、そう簡単には割れんやろ」
陽菜がそっとマグカップを両手で包み込む。驚くほど、手にしっくりと馴染んだ。大きすぎず、小さすぎず。まるで、最初から陽菜の手のサイズを知っていたかのようなフィット感だった。
「これ……私に?」
「それ以外に誰がおんねん。給料から天引きしとくからな」
弦はそっぽを向きながら言ったが、その耳の先は、イチョウの葉よりも赤く染まっていた。
「……弦ちゃん」
「なんや」
「ありがとう。一生、大事にする」
陽菜が満面の笑みを向けると、弦は「うるさい、さっさと立て」と誤魔化すように立ち上がった。
「立て言うても、足痛いんやけど……」
「しゃあないな」
弦は陽菜の前に背中を向け、少しだけ腰を落とした。
「ほれ。駅までやぞ」
「……えっ。おんぶ?」
「嫌なら置いていく」
「乗る! 乗ります!」
陽菜は遠慮なく、弦の広い背中にしがみついた。少しだけひんやりとした秋の風が吹く中、二人はゆっくりと駅へ向かって歩き出した。背中越しに伝わる弦の体温と、微かに香るコーヒー豆の匂い。陽菜は、手にした琥珀色のマグカップを胸にギュッと抱きしめた。
翌日。土曜日の「夕凪」。
カウンターの中では、弦がいつも通り不機嫌そうな顔でサイフォンを見つめている。その横で、陽菜が嬉しそうに新しいマグカップにコーヒーを注いでいた。
「あー、やっぱりこのコップで飲むコーヒー、最高やわぁ!」
「やかましい。味はコップで変わらん」
「変わるんやって! 弦ちゃんの愛情という名のスパイスが……」
「次それ言うたら、そのコップかち割るぞ」
顔を真っ赤にして怒鳴る弦を見て、常連の爺さんが新聞越しにクスクスと笑う。
「夕凪」の食器棚。弦が愛用している黒いシックなカップのすぐ隣に、琥珀色の丸いマグカップが、まるで寄り添うように並んで置かれていた。
ボーン、と柱時計が鳴る。大阪の下町、不器用な二人の時間は、少しずつ、でも確実に前に進んでいる。
(第五話 了)




