三ツ星のバリスタと不揃いなオムライス
あかね商店街に、朝から冷たい秋雨が降っていた。道行く人はまばらで、喫茶「夕凪」の店内も薄暗く、いつもよりボーンと鳴る柱時計の音が大きく聞こえる。
カラン、コロン。
静寂を破るベルの音とともに、一人の男が店に入ってきた。
「いらっしゃいま……せ?」
陽菜は声をかけかけて、思わず首を傾げた。男は、この昭和レトロな下町の喫茶店にはおよそ似つかわしくない、仕立ての良さが一目でわかる濃紺のオーダースーツを着こなしていた。年齢は弦と同じくらいか、少し下。靴は雨だというのにピカピカに磨き上げられ、手には高級なコウモリ傘を持っている。
男は店内をぐるりと見渡し、少しだけ眉をひそめた。まるで、ホコリ一つないか検品するような、冷たい目だった。
「……何の用や」
カウンターの奥から、地を這うような低い声が響いた。見れば、弦が普段の無愛想な顔をさらに険しくし、親の仇でも見るような目でスーツの男を睨みつけている。
「ご無沙汰しております、湊チーフ。……いや、今は『マスター』と呼ぶべきでしょうか」
男は恭しく一礼した。その口元には、自信に満ちた薄い笑みが浮かんでいた。
「こんな場末の喫茶店に引っ込んで、一体何をしているんですか。あなたが消えてから三年、ずっと探してたんですよ」
陽菜は目を見開いた。
「えっ、弦ちゃんの知り合い? ていうか、チーフ?」
「俺は桐谷と申します。以前、湊さんと同じホテルで働いておりました」
桐谷と名乗った男は、陽菜には目もくれず、カウンターの特等席に腰を下ろした。
「湊さん。単刀直入に言います。来春、梅田にオープンする外資系の五つ星ホテルで、ヘッドバリスタを探しています。……俺と一緒に、もう一度第一線に戻ってきませんか」
店内の空気が、ピシッと凍りついた。
「五つ星ホテルの、ヘッドバリスタ……?」
陽菜の間の抜けた声が響く。
「弦ちゃん、あんた昔、そんなすごいとこで働いてたん!?」
「陽菜、お前は黙っとれ」
弦は布巾をカウンターに叩きつけ、桐谷をキッと睨んだ。
「断る。俺は今、この店を手伝うのに忙しいんや。帰れ」
「手伝う? この、コーヒーの香りよりケチャップの匂いが勝っているような店をですか?」
桐谷は鼻で笑った。
「冗談はよしてください。あなたは三年前、ジャパン・バリスタ・チャンピオンシップで優勝した男だ。あなたの淹れる至高の一杯は、芸術だった。それなのに、こんな……時が止まったような店で、素人相手に安物の豆を挽くなんて、才能の無駄遣いにもほどがある」
陽菜は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 (弦ちゃん……チャンピオンやったんや。そんないごっつい経歴、一言も教えてくれへんかったのに)
三年前。弦の父親が倒れ、この夕凪を畳むという話が出た時、弦は突然「俺が継ぐ」と言って帰ってきた。陽菜はただ「そうなんや、ほな私も手伝うわ」と軽く引き受けたのだ。一流の舞台から、こんな寂れた商店街へ。もしかして、自分やこの店が、弦の才能を縛り付けているのではないか。陽菜は急に自分が場違いな存在に思えて、俯いた。
「俺の淹れるコーヒーは、昔も今も変わらん。お前みたいなガキに評価される筋合いはない」
弦の声は冷たかった。
「ならば、一杯淹れてみてくださいよ」
桐谷が挑戦的に挑発する。
「あなたがまだ『本物』なら、俺は引き下がります。ですが、もし腕が鈍っているなら……力ずくでも連れ戻します。あなたはコーヒーの神様に選ばれた人間だ。こんな場所で朽ち果てるべきじゃない」
弦は無言でサイフォンを手に取ろうとした。
その時だ。
「ちょっと待ったぁ!!」
バンッ!
と陽菜がカウンターを叩き、二人の間に割って入った。
「桐谷さん、やったっけ。あんた、さっきから失礼ちゃうか!」
陽菜は腰に手を当て、スーツの男をビシッと指差した。
「安物の豆やて? 素人相手やて? うちの常連さんらはな、毎日弦ちゃんのコーヒー飲んで『今日も一日頑張ろ』って思てんねん! 弦ちゃんのコーヒーは、芸術なんかやない。みんなの『栄養』や!」
「陽菜……」
弦が目を丸くする。
「それに! うちのケチャップの匂いバカにしたな! ちょうどお昼時や。五つ星ホテルの人間か知らんけど、うちの看板メニュー食うてから文句言いや!」
陽菜はエプロンの紐をキュッと結び直し、厨房のコンロに火をつけた。フライパンにバターが溶ける音、玉ねぎと鶏肉を炒める香ばしい匂い、そしてたっぷりのケチャップが焦げる甘酸っぱい香りが、店内に充満していく。
桐谷はハンカチを口元に当て、顔をしかめた。
「……信じられない。極上のコーヒーの香りが、下世話な匂いで台無しだ」
「やかましい! 黙って待っとれ!」
五分後。桐谷の前に、ドンッと皿が置かれた。夕凪特製『昔ながらのオムライス』。ホテルのような美しいフレンチスタイルのオムレツではない。薄焼き卵でチキンライスをくるんと包み、上からケチャップをドバッと無造作にかけた、少し形が不揃いなオムライスだ。
「さあ、食え!」
と陽菜。
桐谷はため息をつき、スプーンを手にした。
「……こんな子供騙しの料理。俺の舌はごまかせませんよ」
そう言って、一口分をすくい、口に運ぶ。
その瞬間、桐谷の手がピタリと止まった。
(……なんだ、これは) ただのケチャップライスではない。具材には、なぜかほんのりとカツオと昆布の『出汁』の旨味が隠し味として効いている。それがバターのコクと合わさり、異常なほどスプーンが進むのだ。不揃いな薄焼き卵は、家庭的で、どこか懐かしく、そして何より――温かい。
桐谷が呆然としていると、今度は弦が静かにカップを置いた。
「……夕凪ブレンド、浅煎りや」
弦が淹れたコーヒーは、いつも常連に出しているガツンと苦い深煎りではなかった。澄んだ琥珀色。フルーティーな香りがふわりと立ち上る。
「……浅煎り?」
桐谷が一口飲む。爽やかな酸味と、後から追いかけてくる深い甘み。それが、先ほど食べたオムライスのバターとケチャップの濃厚な後味を、魔法のようにスッと洗い流し、完璧なマリアージュ(調和)を生み出していた。
「……美味しい」
桐谷の口から、無意識のうちにその言葉が漏れていた。
「……俺はな、桐谷」
弦がカウンターに腕をつき、静かに語り始めた。
「三年前、チャンピオンになってから、コーヒーを淹れるのが怖くなったんや」
弦の告白に、陽菜がハッと顔を上げる。
「毎日毎日、完璧な温度、完璧な抽出時間、完璧なクレマ(泡)を求められた。少しでもブレたら、容赦なく評価が下がる。俺はバリスタやのうて、コーヒーを作る『機械』になってたんや。……誰のために淹れてるのか、分からんようになった」
弦は陽菜の背中を、横目でちらりと見た。
「親父が倒れてここに戻ってきた時、こいつが賄いに作ってくれたのが、その不揃いなオムライスやった。見た目は不細工やのに、食ったら涙が出るほど美味かったんや。その時、思い出したんや」
弦は桐谷の目をまっすぐに見据えた。
「コーヒーは、単体で芸術品になるんやない。誰かの作った飯と一緒に飲んだり、誰かと笑い合いながら飲んだりして、初めて『完成』するんや。俺は、そういう一杯を一生淹れ続けたい」
桐谷は黙ってオムライスを見つめ、そしてコーヒーをもう一口飲んだ。完璧なエスプレッソだけを追い求めていた自分には、この「不揃いな温かさ」に寄り添うコーヒーは淹れられない。弦の腕は鈍るどころか、さらに高く、深い次元へと到達していたのだ。
「……完敗です」
桐谷は静かにスプーンを置いた。立ち上がり、深く一礼する。
「湊さん。あなたの言う通り、ここはあなたにとって最高の舞台のようだ。……いつかまた、俺が壁にぶつかった時は、このオムライスとコーヒーを食べに来てもいいですか?」
「……フン。オムライスは陽菜の機嫌次第やな」
弦が鼻を鳴らす。
「いつでも来いや。スカした顔、泣きっ面に変えたるわ!」
陽菜がピースサインをして笑った。
桐谷が帰り、昼下がりの店内には再び静けさが戻った。 雨はいつの間にか上がり、雲の隙間から薄日が差している。
「……なぁ、弦ちゃん」
カウンターの片付けをしながら、陽菜がぽつりと言った。
「ほんまに、よかったん? 私、弦ちゃんがそんなすごい人やって知らんくて……。私が弦ちゃんの足引っ張ってたらどないしよって、ちょっと怖かったわ」
弦はグラスを磨く手を止め、深くため息をついた。そして、陽菜のおでこを人差し指でツンと小突いた。
「アホか。お前のオムライス以上に俺のコーヒーに合う飯は、この世に存在せぇへんわ」
「……え?」
陽菜が目をぱちくりとさせる。
「俺は、お前の飯にコーヒー合わせるためだけに、ここに居るんや。……それくらい、察しろ」
弦は耳まで真っ赤にして、逃げるように厨房の奥へ引っ込んでしまった。残された陽菜は、ぽかーんとした後、顔を真っ赤にして口元を押さえた。
「……今の、反則やろ」
ボーン、と古時計が午後三時を告げた。
一流のバリスタと、大阪の下町のオカン予備軍。二人の幼馴染の距離が、今日、ほんの数ミリだけ縮まったような気がした。
(第四話 了)




