水無月の幽霊と、消えた番傘の謎
六月。大阪は、重く湿った空気に包まれていた。あかね商店街のアーケードに降り注ぐ雨音は、まるでもどかしい日常の愚痴を叩きつけているようで、行き交う人々の足取りもどこか重い。
「あーあ、また雨。弦ちゃん、見てぇな。店の前の紫陽花、せっかく綺麗に咲いたのに、これじゃ誰も見てくれへんわ」
陽菜が、濡れた長靴を脱ぎ散らかしながら「夕凪」に飛び込んできた。
「……脱いだ靴を揃えろ。それから、紫陽花は雨の中でこそ映えるもんや。万葉の昔から、雨と花は対になって情緒を醸し出すと決まっとる」
弦は、いつものように低い声で答えながら、カウンターで古い「更級日記」をめくっていた。彼はこの時期、湿度に合わせて豆の挽き方を一ミリの半分、さらにその半分まで微調整する。その神経質なまでのこだわりは、もはや職人の域を超え、国語の授業で一字一句の解釈にこだわる厳格な教師のようでもあった。
「情緒とか難しいことはええの! それより弦ちゃん、聞いた? 最近、商店街で『傘泥棒の幽霊』が出るって噂。……しかも、ただの傘やない。古い、立派な傘ばっかり狙われるんやって」
「……幽霊なぞおらん。あるのは、人間の浅ましさと、管理の甘さだけや」
弦が冷たくあしらおうとした、その時。
カラン、コロン。
店の扉がゆっくりと開いた。入ってきたのは、一人の老婆だった。あかね商店街の最古参であり、かつては「日本一の傘職人」として名を馳せた、お琴さんだ。
「……マスター。……助けておくれ。……うちの『魂』が、消えてしもうたんや」
お琴さんの震える声に、店内の空気が一瞬で凍りついた。
お琴さんの話によれば、店に飾っていた非売品の「蛇の目傘」――先代が百年前、京都の老舗から譲り受けたという伝説の名品が、昨夜の雨の中、忽然と姿を消したのだという。
「……鍵はかかっていた。窓も割られていない。ただ、朝起きたら、あの傘のあった場所だけが、ぽっかりと穴が開いたみたいに……」
「それや! それが幽霊の仕業やって言われてるんよ、お琴さん!」
陽菜が身を乗り出す。
「……陽菜、お前は少し黙っとれ」
弦は、お琴さんの前に静かに一杯の「深煎り」を置いた。
「……お琴さん。その傘、何か特別な兆候はありませんでしたか? 例えば、最近誰かが欲しがっていたとか、変な問い合わせがあったとか」
「……そういえば。……数日前、見慣れない若い男が店に来て、『この傘には、古文書に記された「失われた歌」が隠されているはずだ』なんて、妙なことを言っていきましたわ」
「……失われた歌?」
弦の眉が、ピクリと動いた。
そこへ、案の定、騒がしい足音が近づいてきた。
「弦! お琴さんの傘、俺が取り戻してやるでぇ!!」
茂雄が、これまたどこから持ってきたのか分からない巨大な虫眼鏡を手に、鼻息荒く乱入してきた。背後には、心配そうに正蔵も付いている。
「……茂雄さん。その虫眼鏡で、何を見つけるつもりや」
「決まっとるやろ! 幽霊の足跡や! ……おっと、お琴さん、安心しなはれ。この茂雄様が、商店街の平和を守ってみせる!」
「……やれやれ。……陽菜、お琴さんを店まで送っていけ。……俺は、少しその『歌』とやらを調べてみる」
弦が着目したのは、お琴さんの店に残されていた、傘の台座の裏に彫られた小さな文字だった。彼は店を陽菜に任せると、夜の静寂が降りるのを待って、お琴さんの傘屋の跡地を訪れた。
「……水無月の、空にたゆたう、一つ星。……隠せし情は、雨に溶けゆく」
弦は、その和歌のようなフレーズを口の中で転がした。
「……ただの歌やない。……これは、特定の『場所』を示す暗号か」
その時、暗闇からカサリと音がした。
「……誰や。隠れても無駄やぞ。お前の歩き方、湿気で足音が重くなっとる」
現れたのは、二十代半ばほどの、線の細い青年だった。お琴さんが言っていた「若い男」だろう。
「……流石ですね。喫茶店のマスターが、まさか万葉の知識まで持っているとは」
青年は、手に大きな包みを抱えていた。
「……その包み、お琴さんの傘か。……返してもらおうか。……その傘には、あんたのような『言葉の泥棒』には過ぎた歴史が詰まっとる」
「泥棒? 心外だな。僕は、この傘に隠された『幻の古典』を探しているだけだ。この街の再開発のために、歴史的価値を証明しようとしているんだよ!」
「……再開発? あんな安っぽい鉄筋コンクリートの塊のために、お琴さんの想いを踏みにじるんか」
弦の言葉に、青年の顔が歪んだ。
「……あんな古い商店街、もう限界だ! 僕は、この傘にある暗号を解いて、地下に眠るという『古井戸の記録』を見つけるんだ!」
青年が逃げようとしたその時、背後から「なんでやねん!!」という特大の叫び声が響いた。
「逃がさへんでぇーー!!」
陽菜が、商店街のアーケードから特大のゴミバケツの蓋をフリスビーのように投げ飛ばし、見事に青年の足元に命中させた。
「ぐわっ!?」
青年が転倒し、包みが手から離れる。そこへ茂雄が「ダイビング・プレス!」と叫びながら、その巨体で青年を押し潰した。
「……ふぅ。……陽菜。お前、いつから付いてきとった」
「最初からや! 弦ちゃんが一人でかっこつけて解決しようとしても、そうはいかへんからな!」
弦は、地面に落ちた傘を丁寧に拾い上げた。そして、驚くべき行動に出た。彼は、傘を広げ、雨の夜空にかざしたのだ。
「……おい、マスター! 何をして……」
押さえつけられた青年が叫ぶ。
「……この傘の暗号は、水に濡れて初めて完成する。……見てみろ」
雨に打たれた蛇の目傘の表面に、浮き上がるようにして文字が現れた。それは、失われた歌の続きだった。
『……星は地を指し、井は溢れず。……ただ、人々の交わりを、永く見守らん』
「……宝なんてない。……これは、この街を造った先人たちが、未来の住民たちに遺した『願い』の言葉や。……井戸を掘り、水を分かち合い、助け合って生きろ……。……ただそれだけの、当たり前で、一番大切なことが書いてあるんや」
弦の声は、雨音の中に静かに、だが力強く響いた。
「……再開発の価値なんて、金や歴史の発見やない。……今ここで、笑ってコーヒーを飲んどる奴らが、明日も同じように笑えるかどうか……それだけや」
青年は、力なく項垂れた。
翌日。傘は無事にお琴さんの元へ戻り、自称・開発調査員の青年は、茂雄と正蔵の「厳しい説教(という名の飲み会への強制連行)」に処されることになった。
喫茶「夕凪」。
雨は上がり、雲の切れ間から六月の柔らかな陽光が差し込んできた。
「……あーあ、結局『お宝』はなかったんかぁ。ちょっと期待したのになぁ」
陽菜が、カウンターで残念そうに頬杖をつく。
「……お宝なら、もうそこにあるやろ」
弦は、ぶっきらぼうに一枚の皿を差し出した。そこには、昨日の騒動のお礼にお琴さんが持ってきてくれた、新緑をイメージした特製の「雨上がりの羊羹」が並んでいた。
「……これを食って、さっさと掃除しろ。……お前が振り回したバケツの蓋、まだ入り口に転がっとるぞ」
「あはは! そうやった! ……でも弦ちゃん、昨日の和歌の解説、めっちゃ分かりやすかったわ。……なんか、本物の先生みたいやったで?」
「…………。……やかましい。……俺はただの、へんこつなマスターや」
弦は、自分専用のカップに注いだコーヒーを一口飲み、窓の外を見つめた。人文学的な知識も、言葉への執着も、すべてはこの商店街の、何でもない「今日」を守るためにある。彼は、誰にも見えないように、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……陽菜。……その羊羹、半分残しとけ。……茂雄さんたちが来たら、また騒がしくなるからな」
「えっ、弦ちゃん、珍しい! 優しいやん!」
「……違う。……糖分を与えとかんと、また店を壊されるからや!」
「なんでやねん!!」
あかね商店街、六月の風。
雨は過去を洗い流し、新しい「言葉」は、今日も琥珀色の湯気の中に溶け込んでいく。
(第三十話 了)




