幽霊騒動と冷めたホットミルク
お盆を過ぎても、大阪の夜の熱帯夜はしぶとく居座っていた。あかね商店街のシャッターが次々と閉まり、ネオン管のチカチカとした明かりだけが路地裏を照らす午後十時。喫茶「夕凪」の店内では、陽菜がほうきを握りしめたまま、ガタガタと震えていた。
「……なぁ、弦ちゃん。もう帰ろ? な? 今日はもう店じまいにしよ?」
「アホか。まだレジ締めも終わってへんわ。さっさと床掃け」
カウンターの中で売上金を数えている弦は、ピシャリと言い放った。しかし、陽菜はほうきを放り出し、カウンターの端っこにぴたりと張り付いた。
「だって、出るって噂やねんもん! 夜中の二時ごろに、うちの裏口のあたりで『シクシク、ミーミー』って、赤ん坊か女の人の泣き声がするんやて! 魚屋のおっちゃんも、肉屋のオカンも言うてたんやから!」
「あのアホども、暇やからってしょうもない怪談作りよって。そんなもん、野良猫の発情期か、酔っ払いの寝言に決まっとるやろ」 「でも、足音もするんやで!? ズシン、ズシンって、地響きみたいなでっかい足音が!」
「女の幽霊が四股でも踏んどるんか。やかましいわ」
弦は呆れたようにため息をついた。だが、弦の視線は、裏口へと続く勝手口の床に落ちていた。そこには、陽菜が気づいていない「ある痕跡」があった。泥で汚れた、三十センチはあろうかという巨大なブーツの足跡。そしてその横に、親指の先ほどの小さな、点々とした汚れ。
(……幽霊がブーツ履いて泥棒に入るとは思えんが。まあ、放っておくわけにもいかんか)
「おい、陽菜」
「ひゃいっ!」
「今夜は店に泊まるぞ」
「はあ!? なんで!? 嫌や、私お化けとかほんま無理!」
「幽霊の正体暴いたる言うとんねん。お前が逃げたら、明日から商店街の連中に『夕凪は呪われとる』って噂広められるやろが。営業妨害や」
弦はそう言うと、店の奥にある休憩室から毛布を二枚引っ張り出してきた。幼馴染の二人が同じ空間で夜を明かすことなど、子供の頃から数え切れないほどあった。だが、三十路を過ぎた男女の怪談待ち伏せは、どうにも奇妙な緊張感があった。
深夜二時。店内の照明はすべて落とされ、街灯のわずかな光だけが窓ガラス越しに差し込んでいる。カウンターの下で、陽菜は弦のシャツの袖をぎゅっと握りしめていた。
「……弦ちゃん、もう二時回ったで。何も出えへんやん。やっぱり噂……」
その時だった。
『……ミィ……ミィィィ……』
裏口の扉の向こうから、か細い、ひきつるような声が聞こえた。陽菜が「ひっ!」と息を呑み、弦の腕にしがみつく。
『……あかんて。こんなとこおったら、死んでまうで……』
続いて聞こえたのは、地の底から響くような、ドスの効いた男の低い声だった。女の幽霊でも赤ん坊でもない。明らかにガタイのいい男が、裏口で何かをつぶやいているのだ。
(空き巣か? いや、それにしては声を出しているのが不自然や)
弦は陽菜の手を無言で振りほどき、静かに立ち上がった。音を立てずに裏口へ近づき、ドアの隙間から外を覗き込む。路地裏の暗がりに、異常に肩幅の広い男がしゃがみこんでいた。派手な柄シャツに、金色の太いネックレス。その筋の人間としか思えない強面の巨漢だ。
しかし、その男の震える巨大な手の中には――手のひらサイズの、薄汚れた子猫がいた。
「……食えや。シャウエッセンやぞ。うまいんやぞ……」
男は、コンビニで買ってきたであろう高級ウインナーを、子猫の口元に必死に押し付けていた。子猫は怯えて「ミィミィ」と鳴きながら、顔を背けている。
(……アホか。あんなチビ猫が、そんな脂っこいもん食えるか)
弦は呆れ果て、勢いよく裏口のドアをガチャリと開けた。
「うおぉっ!?」
男が飛び上がり、凄まじい形相で弦を睨みつけた。
「な、なんやワレ! 殺すぞコラ!」 「殺す前に、その猫の腹が死ぬわ。子猫に塩分と香辛料の塊みたいなもん食わせんな、素人が」
弦は眉一つ動かさず、男の手から子猫をひょいと取り上げた。男はぽかんと口を開けたまま、弦を見下ろしている。
「ちょっと待っとれ」
弦は裏口を開けたまま、厨房へと戻った。腰を抜かしていた陽菜が、厨房の奥から恐る恐る顔を出す。
「げ、弦ちゃん……? 幽霊は……」
「幽霊ちゃうわ。図体だけでかい、迷子のヤクザ屋さんや」
五分後。店内の明かりが点けられ、カウンター席には、柄シャツの巨漢が借りてきた猫のようにちょこんと座っていた。名前はテツというらしい。その目の前で、子猫が小皿に入った白い液体を、夢中でペチャペチャと舐めている。
「……よう飲むなぁ」
テツが、いかつい顔をほころばせて呟いた。
「そりゃそうや。ただの牛乳ちゃうからな。お前さん、猫は普通の牛乳飲んだら腹下すって知らんかったやろ」
弦がカウンター越しに冷たく言う。
「俺が淹れたんは、猫用の粉ミルクに、少しだけ普通の牛乳を薄めて混ぜたもんや。それも、熱湯で溶かしたあとに、急冷して『人肌』の温度まで下げてある」
弦はバリスタとしての技術を使い、氷水でミルクの温度をミリ単位で調整していたのだ。子猫の小さな舌が火傷しないように、それでいて冷え切った体を内側から温める、絶妙な『冷めたホットミルク』である。
「す、すんません……。俺、こういうの全然わからんくて……」
テツは巨大な身を縮こまらせて頭を下げた。
「あのさ、テツさん」
恐怖から立ち直った陽菜が、身を乗り出して尋ねた。
「この子、どうしたん?」
「……一週間前、組の事務所の裏のゴミ捨て場におったんすよ。カラスに突かれそうになってたから、思わず拾てもうて。でも、事務所で猫なんか飼えるわけないし、親分に見つかったらシメられるから、毎晩夜中にこっそり抜け出して、ここらへんで餌やってたんですわ」
テツが、申し訳なさそうに頭を掻く。深夜の足音と鳴き声の正体は、この心優しいヤクザの不器用な秘密の世話だったのだ。
「なるほどな。で、いつまでもこんな路地裏で隠れんぼするつもりか?」
弦が厳しい声で尋ねる。
「子猫はすぐに大きくなる。お前さんが責任持てんのなら、最初から拾うな。中途半端な情けは、余計に残酷やぞ」
弦の言葉に、テツはうつむき、巨大な拳をギュッと握りしめた。
「……わかってます。でも、見捨てられんかったんすよ……」
重苦しい沈黙が流れた。テツの不器用な優しさと、どうにもならない現実。弦はそれ以上何も言わず、ただ静かにサイフォンの手入れを始めた。
「……しゃあないなぁ!」
パンッ! と、陽菜が両手を叩いた。
「テツさん、あんた明日ひま?」
「は? いや、シノギが……」
「シノギ休んで、この子洗うたるで! ほんで、写真撮って、商店街のLINEグループに回すんや!」
陽菜は目をキラキラさせてスマホを取り出した。
「肉屋のオカン、先月飼い猫亡くして落ち込んどったから、絶対もらい手つくわ! この『あかね商店街のオカン・ネットワーク』をなめたらあかんで!」
「ほ、ほんまっすか!?」
テツがガタッと立ち上がり、カウンターに身を乗り出した。
「姉御! ほんまに頼んます! 俺、なんでもしますから!」
「誰が姉御やねん。まあ、任せとき!」
陽菜がドヤ顔で胸を張る。弦は呆れたように小さく笑い、そっと別のカップをテツの前に置いた。
「ほれ。お前も飲んどけ」
「……なんすか、これ」
「お前には、人間用の特製ホットミルクや。ハチミツたっぷり入れといた。夜中に不審者ごっこして、体冷え切っとるやろ」
テツはカップを両手で包み込み、そっと口をつけた。温かくて甘いミルクが、緊張と疲労でこわばっていた大男の体を、芯から解きほぐしていく。
「……美味いっす。五臓六腑に染み渡るっす……」
テツの目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「大男が夜中にミルク飲んで泣くな。気味が悪い」
弦は悪態をつきながらも、どこか満足げにグラスを磨き始めた。
翌日。陽菜の宣言通り、子猫はきれいに洗われ、肉屋のオカンのもとへ見事にもらわれていった。オカンは「ええ子や、ええ子や」と号泣して喜んでいたらしい。
午後三時。平穏を取り戻した夕凪のドアの前に、どすん、と巨大な紙袋が置かれた。中には、高級な牛肉の塊と、なぜか「チャオちゅ~る」の箱が山のように入っていた。テツからの、不器用すぎるお礼だった。
「……あいつ、肉屋のオカンとこでたんまり肉買うたんやな。シノギの金ちゃうやろな」
弦が紙袋の中身を見てため息をつく。
「ええやん! 今夜はすき焼きやで、弦ちゃん!」
陽菜が肉の塊を抱きしめて小躍りしている。
「あいつ、お前のこと『姉御』言うて慕っとったぞ。そのうち舎弟連れて挨拶に来るんちゃうか」 「えー、それ困るわぁ。私、暴力反対やし」
「どの口が言うとんねん」
弦は苦笑しながら、サイフォンに火をつけた。幽霊騒動は一件落着。残ったのは、最高級の霜降り肉と、ほのかに甘いミルクの記憶だけだ。
「しかし、弦ちゃんも甘いなぁ」
陽菜がニヤニヤしながら弦をつつく。
「あのヤクザさんに、わざわざハチミツ入りのミルク出すんやもん。ほんまはめっちゃ優しいんやから」
「うるさい。あれは賞味期限ギリギリの牛乳の処分や」
「はいはい、そういうことにしといたるわ」
ふふっ、と笑い合う二人。柱時計がボーン、と少し遅れて鳴る。
へんこつな店主と、お節介な幼馴染。大阪の下町にある小さな喫茶店は、どんな事情を抱えた客でも、最後には少しだけ素直になれる、魔法のような場所なのだ。
(第三話 了)




