豪華客船の迷探偵と、消えた琥珀の指輪
五月半ば、ゴールデンウィークの喧騒が嘘のように引き、あかね商店街には穏やかな日常が戻っていた。……はずだった。
「当たったぁぁぁーーー!! 弦ちゃん、見てぇな、これ! 金の玉や! ほんまに金の玉が出たんやで!!」
商店街の福引き会場から、陽菜の絶叫がアーケード中に響き渡った。喫茶「夕凪」のカウンターで、豆の選別をしていた弦は、耳を塞ぐように眉をひそめた。
「……やかましい。金の玉くらい、鶏でも産むやろ」
「産まへんわ! これ見て、特賞! 『豪華客船で行く、瀬戸内ナイトクルーズ・ペア招待券』や!!」
陽菜が店になだれ込み、これ見よがしに金色のチケットを弦の鼻先に突きつけた。
「……いらん。船酔いする。第一、誰が店を休んでまでそんな浮かれたもんに行くか」
「何言うてんの! 期限は今週末まで。あかね商店街の看板娘として、行かんわけにはいかへんやん! 茂雄さんも正蔵さんも『夕凪は俺たちが留守番しといたるから、新婚旅行の予行演習に行ってこい』って言うてくれてるし……」
「……新婚旅行やない、予行演習でもない。……おい、勝手に荷物をまとめるな!」
弦の抗議も虚しく、陽菜の「お節介パワー」と商店街の「冷やかし熱」に押し切られ、二人は大阪港から出航する「クイーン・オブ・ナニワ号」に乗船することになってしまった。
土曜日の夕暮れ。大阪港に停泊する「クイーン・オブ・ナニワ号」は、確かに豪華だった。……が、どこかあかね商店街のノリが抜けきらない、絶妙に「大阪らしい」派手さを放っていた。
「うわぁ……。弦ちゃん見て、シャンデリアがタコ焼きの形してる!」
「……あれはただの球体や。……お前は何でも食べもんに結びつけるな」
弦は、いつもの黒いエプロンこそ外しているが、背筋を伸ばし、周囲の喧騒を「監査」するかのような鋭い目つきで歩いていた。 そんな彼の歩き方は、どこか「揺れる床」に慣れている者のそれだった。
「……弦ちゃん、なんか歩き方、堂々としてるなぁ。船に慣れてるみたい」
「……昔、少しな。……それより、陽菜。そのドレス、裾を引っかけんようにしろ。……日本語として正しく言うなら、『裾を捌く』や」
「もー、相変わらず言葉に細かいんやから! せっかくのクルーズなんやから、楽しまな損やで!」
ディナータイム。船内のメインダイニングには、大阪のセレブ(自称)や、少し背伸びをしたカップルが集まっていた。その中央のテーブルに陣取っていたのは、見るからに「成金」といった風情の婦人、マダム・カネコだった。
「オーホッホッ! 見てちょうだい、この琥珀の指輪。五千年前の虫が閉じ込められた、世界に一つだけの至宝よ!」
彼女の指には、夕焼け色の巨大な琥珀が輝いていた。弦は遠くからその指輪を一瞥し、ふと鼻を鳴らした。
「…………。……合成樹脂(樹脂)やないな。本物か。……だが、あの爪の留め方は甘い」
「え? 弦ちゃん、なんか言うた?」
「……何でもない。……飯を食うぞ」
だが、惨劇(という名のドタバタ)は、メインディッシュの「真鯛のポワレ」が運ばれてきた瞬間に起きた。
突然、船内が激しく揺れた。
「キャッ!?」 「うわっ!」
陽菜が弦にしがみつく。弦は瞬時に足を踏ん張り、陽菜の腰を支えながら、テーブルの上のワイングラスが倒れるのを片手で防いだ。その動きは、ヨット部時代に荒波の中でロープを操っていた時のように無駄がなかった。
「……ただの波やないな。……潮の流れを読み違えたか、あるいは……」
揺れが収まった直後、マダム・カネコの悲鳴が響き渡った。
「…………ない! 私の琥珀がないわ!!」
見れば、彼女の指には金の台座だけが残り、肝心の琥珀の石が消えていた。ダイニングは一瞬にしてパニックに陥る。
「大変だ! 船のエンジンを止めろ! 誰も外に出すな!」
慌てふためく船員たち。そんな中、弦は静かに立ち上がり、床の状態を確認した。
「……陽菜。動くな」
「え、弦ちゃん、まさか探すん?」
「……探すんやない。……監査するんや。……この密閉された空間で、重さ数グラムの物体がどこへ転がるか。……風向き、床の傾斜、そして人々の動線。……すべてを計算すれば、答えは自ずと出る」
弦の脳内には、今、人事監査の書類をチェックする時のような冷徹な論理と、ヨットで潮目を読む時の直感が火花を散らしていた。
「おい、そこの船員。……この船の設計図を見せろ。……それから、さっきの揺れの際、操舵室で何があったか報告しろ」
「えっ、あ、あんた誰だよ!?」
「……ただの、喫茶店の店主や。……だが、不手際を見過ごすほど、俺の性格は甘くない」
弦の放つ圧倒的な威圧感(と、正確な専門用語の連発)に、船員は気圧されて設計図を差し出した。弦はそれを数秒で見通すと、ダイニングの隅にある「ある場所」を指差した。
「……琥珀はそこや」
そこには、給仕用のワゴンの下に置かれた、バケツ入りのシャンパンクーラーがあった。
「ええっ!? そんなところに?」
マダム・カネコが駆け寄り、氷の中に手を突っ込む。すると――。
「…………あったわ!! 私の琥珀!!」
拍手喝采が沸き起こる。だが、弦の表情は晴れなかった。
「……待て。……その石、よく見てみろ」
マダムが取り出した琥珀。そこには、さっきまで入っていたはずの「虫」がいなかった。
「……えっ!? 虫が……消えてる!? 泥棒よ! 誰かが中身をすり替えたんだわ!!」
再びのパニック。今度は「内部犯行」の疑いだ。マダムの周囲にいた客たちが、互いに疑いの目を向け始める。
「……陽菜。お前、さっきの揺れの時、誰か不自然な動きをした奴を見なかったか?」
「え、えーっと……。必死で弦ちゃんにしがみついてたから……。あ! でも、隣のテーブルの、あのメガネの男の人! 揺れる前から、ずっとマダムの手元を凝視してた気がする!」
弦の視線が、一人の男に突き刺さった。男は、どこか自信なさげな風貌だが、その手元は異様に綺麗だった。
「……あんた。……手を、見せてみろ」
「な、何ですか、いきなり! 僕はただの時計職人で……」
「……時計職人か。……なら、精密なピンセットを隠し持っとるはずやな。……マダムの指輪の爪が緩んでいたのは、あんたが事前に細工したからや」
弦は、一歩ずつ男を追い詰める。
「……揺れに乗じて石を弾き飛ばし、あらかじめ用意しておいた『虫の入っていない偽物』をバケツに放り込んだ。……本物は、今、あんたの袖口にある『隠しポケット』の中やな」
「……証拠があるのか!」
「……あるぞ。……あんた、さっきから不自然に『右腕だけ』を水平に保っとる。……船の揺れに合わせて体が傾いとるのに、右腕だけが微動だにせんのは、中に壊れやすいものを隠しとる証拠や」
弦は、かつてヨット部で「バランス感覚」の鬼と呼ばれた経験と、人事監査で「嘘をつく人間の微細な挙動」を千人以上見てきた経験をフル回転させていた。
男は逃げようとしたが、陽菜が「逃がさへんでぇーー!!」と、特大の「大阪締め」のポーズで(?)通路を塞いだ。
取り押さえられた男の袖からは、本物の、虫入りの琥珀が出てきた。さらに、男の正体は、高価な宝石の「中身だけ」を最新技術で抜き取る有名な窃盗犯であることも判明した。
「……ふぅ。……これだから、浮かれた船旅は嫌いなんや」
事件解決後。船のオーナーから「お礼に」と、最高級のシャンパンと、プライベートデッキでの時間がプレゼントされた。
夜の瀬戸内海。
満天の星空の下で、弦と陽菜は二人きりになった。
「……弦ちゃん。……凄かったなぁ。……あんな一瞬で、全部お見通しやったん?」
「……当たり前や。……うちは、毎日あかね商店街の『怪物共』を相手にしてるんや。……詐欺師の小細工なんて、茂雄さんのつまみ食いを見つけるより簡単や」
弦は、シャンパンを一口飲み、夜の海を見つめた。
「……陽菜」
「ん?」
「……お前、さっき、本気で怖がってたな」
「……。……だって、急に揺れるし、暗くなるし……。でも、弦ちゃんが支えてくれたから、大丈夫やったよ」
陽菜が、少し照れくさそうに笑う。弦は、視線を海に戻したまま、不器用に言葉を継いだ。
「…………。……船の上は、逃げ場がないからな。……お前がどっかに飛ばされんようにしとるだけや。……勘違いするな」
「……うん。……分かってるって。……へんこつ店主の『最大級の優しさ』、しっかり受け取ったわ」
陽菜が、弦の肩にそっと頭を乗せた。弦は一瞬、肩を強張らせたが、突き放すことはしなかった。代わりに、彼は空いた方の手で、自分のポケットに入っていた「何か」を握りしめた。
それは、あかね商店街の福引きの「ハズレ」でもらった、琥珀色をした安物のキャンディだった。
「……ほら。……石より、こっちの方が美味いぞ」
「……あはは! ほんまや、これは『笑うオムライス』の味がするかも!」
翌朝。
あかね商店街に戻ってきた二人を、茂雄と正蔵がニヤニヤしながら出迎えた。
「よぉ、弦! 新婚旅行はどうやった! 宝石泥棒を退治したって、今朝のニュースに出てたぞ!」
「おう陽菜ちゃん、弦のやつ、船の上でかっこつけてたか?」
「……やかましい! 掃除をサボった分、今から全員分のコーヒーを淹れろ! もちろん、お代は二倍や!!」
弦の怒声が響き、あかね商店街はいつもの活気を取り戻した。
喫茶「夕凪」。
カウンターでコーヒーを淹れる弦の横顔は、昨日よりも少しだけ晴れやかだった。海で培った感性と、街で磨いた観察眼。それはすべて、この「騒がしい日常」を守るための武器なのだと、彼は改めて確信していた。
「……弦ちゃん、次の福引きは『ハワイ旅行』狙うからな!」
「……二度と、金の玉は出すな」
あかね商店街、五月の風。
琥珀色の思い出は、カップの中に溶け込み、また新しい一杯の奇跡を運んでくる。
(第二十九話 了)




