新緑の茶会と、コーヒーの反逆
五月。大阪・あかね商店街は、一年のうちで最も「緑」が美しい季節を迎えていた。アーケードを抜けた先にある公園の樹々は瑞々しく輝き、吹き抜ける風には、どこか遠くの茶畑から運ばれてきたような、若葉の匂いが混じっている。
「あー、ええ匂い。弦ちゃん、もうすぐ『新茶』の季節やなぁ。うちの辰巳屋でも、静岡から届いたばっかりの初摘み茶が飛ぶように売れてるわ!」
陽菜が、鮮やかな新緑色のエプロンをなびかせて「夕凪」に飛び込んできた。
「……新茶か。……茶葉の鮮度は大事だが、世間が浮かれすぎるのは好かん。……お茶もコーヒーも、静かに向き合うもんや」
弦は、いつものように低い声で答えながら、カウンターで「水出しコーヒー」の準備をしていた。八時間をかけて一滴ずつ落とされる琥珀色の雫は、窓から差し込む五月の光を浴びて、宝石のように輝いている。
だが、弦の指先は、いつもよりわずかに硬かった。五月は、彼にとって「嫌な記憶」を呼び起こす季節でもある。湊流の家元では、この時期に大規模な「新茶の儀」が行われ、幼い頃の弦は、逃げ場のない茶室で一日中正座をさせられていたからだ。
カラン、コロン。
不意に、店の空気が変わった。入ってきたのは、二人の若い男。この季節に、あえて着慣れた風情の着物を着こなし、背筋を定規で測ったように伸ばしている。その眼差しは、商店街の雑多な風景を「汚れ」とでも見なすような、冷徹なものだった。
「……ここか。……湊流の『恥』が、泥水を啜っている場所は」
弦の手が、ぴたりと止まった。
「……なんや、湊流の『番犬』共か。……放し飼いにするには、少しばかり躾がなっとらんな」
弦が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつて家元を飛び出した時の「牙」が宿っていた。
入ってきたのは、湊流の次期家元候補と目される双子の兄弟、一馬と二馬だった。彼らは弦の従兄弟にあたり、弦が家元を去った後、その穴を埋めるように英才教育を受けてきたエリートたちだ。
「相変わらずの口の悪さだ、弦兄さん。……いや、今はただの『マスター』だったかな」
兄の一馬が、カウンターに指を滑らせた。
「家元が仰せだ。……『あかね商店街に、湊流の名を汚す店があるのは我慢ならん』と。……今月末の商店街の茶会で、僕たちと勝負をしてもらう。……もし君が負けたら、この店を畳んで、湊流の『掃除係』として戻ってもらうよ」
「な、なんやてぇ!? 弦ちゃんを掃除係にするやと!?」
陽菜が割って入る。
「この店は弦ちゃんの城や! あんたらに指一本触れさせへんわ!」
「……黙っていろ、町娘。……僕たちが提供するのは、伝統と規律に守られた『究極の抹茶』。……君たちの出している、砂糖まみれの飲み物とは次元が違うんだ」
弟の二馬が、蔑むように笑う。
「……面白い。……勝負、受けようやないか」
弦が、カウンターを拳で叩いた。
「……ただし、俺が勝ったら、二度と湊の家の人間をこの街に踏み入らせるな。……お前らの言う『伝統』が、この街の『一杯』に勝てるかどうか、教えてやる」
こうして、コーヒー対抹茶、そして「へんこつ店主」対「エリート家元」という、前代未聞の「おもてなしバトル」が勃発することになった。
商店街の茶会は、あかね天満宮の境内で行われることになった。一馬たちは、本家から運び込んだという数千万クラスの茶器と、金箔が貼られた屏風を並べ、境内に異様な威圧感を放つ「移動式茶室」を設営した。
一方、弦は――。
「……弦ちゃん、大丈夫? 相手は本物のプロやで。……何か秘策はあるん?」
陽菜が、心配そうに尋ねる。
「……秘策なんてない。……俺は、いつも通りのコーヒーを出すだけや」
弦は、店の中で一人、古い「湊流」の経典を読み返していた。だが、それは茶道の技法を学ぶためではない。
「おもてなしとは、客の心の渇きを潤すことなり」
その一行に、弦は二十年ぶりに触れていた。
そこへ、茂雄と正蔵が乱入してきた。
「弦! 聞いたぞ! 本家の若造に喧嘩を売られたらしいな!」 「おう、弦! 俺たちが応援団や。……茶道の作法なんて分からんが、お前のコーヒーが一番美味いことくらい、商店街の猫でも知っとるわ!」
「……騒がしい。……応援なら、当日まで黙ってろ」
弦は毒づいたが、その表情には、ほんの少しだけ迷いが消えていた。
当日。境内には、商店街の住民から、噂を聞きつけた茶道関係者まで、多くの人々が集まった。審査員は、街の長老である正蔵と、通りすがりの「抹茶スイーツ大好き」な女子大生、そして――。
「……あら。……楽しそうなことをしているわね」
なんと、エレナが現れた。彼女は今回、湊流のパトロンとして、中立な立場で審査員を務めるという。
「……エレナ。お前まで、何のつもりや」
「フフッ。……弦。あなたが、湊流の血を引く『焙煎士』として、どこまで伝統を超えられるか、見せてちょうだい」
勝負が始まった。先攻は、一馬と二馬。彼らの点前は、まさに完璧だった。無駄のない動き、凛とした空気。差し出された抹茶は、深い緑が美しく泡立ち、一口飲めば、高貴な香りが鼻を抜ける。
「……美味しい。……背筋が伸びるような、高貴な味だわ」
女子大生が、うっとりと呟く。一馬たちが、勝ち誇ったように弦を見た。
「……次は君の番だ、弦兄さん。……せいぜい、泥水で客を喜ばせてみるがいい」
弦は、無言で前に出た。彼が用意したのは、着物ではなく、いつもの使い古された「夕凪」のエプロン。そして、手元にあるのは、最新のコーヒーマシンではなく、二十年間使い込んだ、ネルフィルターとヤカン。
弦は、境内の真ん中で、炭火を熾した。そして、その場で豆を挽き始めた。
ガリガリ、ガリガリ……。
境内に、香ばしい、どこか懐かしいコーヒーの香りが広がり始める。
「……コーヒー? 茶会の場で、そんな香りを撒き散らすなんて!」
二馬が抗議するが、弦は無視した。
弦が淹れたのは、エチオピア産の豆。だが、抽出の仕方が異様だった。彼は、茶道における「点前」の動きを、コーヒーのドリップに融合させていたのだ。お湯を注ぐ軌跡、円を描くリズム。それは、湊流の家元だけが知る、秘伝の「水の扱い」だった。
「…………なっ!? あの動きは……湊流の奥義、翡翠の雫!?」
一馬の顔が凍りついた。
弦が差し出したのは、ガラスのカップに入った、透き通るような琥珀色のコーヒー。だが、そこには驚くべき仕掛けがあった。 カップの底には、陽菜が今朝、必死で裏ごしした「新茶の餡」が、薄く敷かれていたのだ。
「……飲んでみろ」
エレナたちが、一口飲む。まず訪れるのは、コーヒーの華やかな香りと、力強い苦味。だが、それを飲み干そうとした瞬間、底に沈んでいた新茶の餡が溶け出し、コーヒーの苦味を優しく包み込む。苦味から甘みへ、そして最後には、新緑の草原を駆け抜けるような、爽やかな余韻。
「…………。……なんや、これ。……コーヒーなのに、お茶や。……お茶なのに、コーヒーや!」
正蔵が、目を見開いて叫んだ。
「……一馬。お前らの茶は、確かに完璧や。……だが、それは『茶室』という箱の中だけの味だ」
弦が、静かに言った。
「……俺が淹れるのは、この街の風、この街の騒がしさ、そしてこの街に生きる連中の『喉の渇き』に応える一杯や。……湊流の伝統は、型を守ることやない。……目の前の客を、心から笑わせることや」
勝負の結果は、明白だった。商店街の住民たちは、弦の「コーヒー茶」を飲み、口々に「これなら毎日飲みたいわ!」「元気が出たで!」と笑い合った。伝統の重圧に押し潰されていた境内が、一瞬にして、いつもの「あかね商店街」の明るい騒音に包まれた。
一馬と二馬は、震える手で自分のカップを見つめていた。
「……負けた。……湊流の『心』を、僕たちは見失っていたのかもしれない」
彼らは、黙って弦に頭を下げ、逃げるように境内を去っていった。エレナも、
「……相変わらず、型破りね。……でも、嫌いじゃないわよ」
と微笑み、風のように消えた。
夕暮れ。片付けを終えた弦と陽菜は、二人で境内に残っていた。
「……あー、緊張した! でも、弦ちゃん、かっこよかったで! あの『コーヒー茶』、最高やったわ」
「……アホ。……お前の作った餡が、少し甘すぎたんや。……次は、もっと加減しろ」
「えぇっ!? また作らせる気!? ……ってことは、これからもあのメニュー、夕凪で出すん?」
「……たまになら、悪くない。……新緑の季節の間だけや」
弦は、沈みゆく夕日を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……伝統なんて、守るもんやない。……踏み越えていくもんや。……でも、お前がおらんと、その一歩が出せんかったかもしれん」
「……え? 弦ちゃん、今なんて言うたん?」
「……何でもない。……さっさとゴミを拾え。……掃除係になりたいんか」
「なんでやねん!!」
あかね商店街、あかね天満宮。
五月の風は、伝統の重みを爽やかに吹き飛ばし、また新しい季節の香りを運んでくる。
へんこつ店主の琥珀色の日常は、これからも、この街の騒がしさの中で続いていく。
「……なぁ、弦ちゃん。……次は、湊流の家元に、ナポリタンでも食べさせに行かへん?」
「……二度と、その口を開くな」
(第二十八話 了)




