黄金週間の迷子と、幻のオムライス
四月も終盤に差し掛かると、大阪の街は少しずつ「初夏」の準備を始める。あかね商店街のアーケードには、連休を狙った「大売出し」の横断幕が躍り、スピーカーからはなぜか軍艦マーチのような威勢の良い曲が流れていた。
「あー、もうすぐゴールデンウィークやなぁ。弦ちゃん、どっか遊びに行かへん? 万博記念公園とか、ひらパーとか!」
陽菜がカウンターで、観光雑誌を広げながら身を乗り出す。
「……アホか。連休は稼ぎ時や。どこもかしこも人で溢れとる時に、わざわざ人混みに突っ込んでいく奴の気が知れん」
弦は、いつものように低い声で一蹴した。彼は今、連休用の特別メニューとして「究極のアイスド・ブリュー」の仕込みに余念がない。氷一つ、抽出の秒数一秒にまでこだわる彼の周りには、他者を寄せ付けない「へんこつバリア」が張られていた。
カラン、コロン。
そんな空気を読まずに、店の扉が開いた。入ってきたのは、ランドセルを背負った一人の男の子だった。紺色のブレザーに、ぴしっと折り目のついた半ズボン。手には高そうな革のセカンドバッグ(のような塾のカバン)を持ち、眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を探す鷹のように鋭い。
「……いらっしゃい。坊主、迷子か?」
弦が、顔を上げずに尋ねる。
「……失礼な。僕は健太。……ここは、自称『大阪一の隠れ家』とネットで書かれていた店ですか?」
少年――健太は、椅子に座るなり、カウンターを指先でなぞって埃を確認した。
「……自称した覚えはない。……で、その『自称・美食家』さんは、何を注文するんや。うちはメロンソーダもパンケーキもないぞ」
「……コーヒーの香りは合格だ。……でも、僕が食べたいのはそんなものじゃない」
健太は、カバンから一枚の、ボロボロになったスケッチブックを取り出した。そこには、クレヨンで描かれた、黄金色に輝く「オムライス」の絵があった。
「これを作ってほしいんだ。……『おひさまの匂いがする、笑うオムライス』。……これを出してくれたら、僕の小遣い一ヶ月分、五千円を払ってもいい」
「……なんやて、五千円!? 弦ちゃん、これ商売チャンスやで!!」
陽菜が目を丸くして健太の横に飛びついた。
「……五千円もいらん。……だが、うちはオムライス屋やない。……ナポリタンならあるが、それで我慢しろ」
弦が冷たくあしらおうとした時、健太の瞳が、一瞬だけ激しく揺れた。
「……ナポリタンじゃダメなんだ。……これじゃないと。……お母さんが、最後に作ってくれるって約束した……『笑うオムライス』じゃないと、ダメなんだよ……!」
健太の声が、小さな震えを帯びた。彼は、この春に母親を病気で亡くし、大阪に住む祖父の元に引き取られてきたばかりだった。勉強も運動も完璧にこなす健太だったが、唯一、お母さんが最期に口約束した「秘密のオムライス」だけが、彼の心の中で「未解決事件」として残り続けていたのだ。
「……お母さんの、味……」
陽菜の顔から、営業スマイルが消えた。彼女は、弦の背中を力一杯叩いた。
「弦ちゃん。……やろ。……ううん、やらせて。……私と弦ちゃんで、この子の『おひさま』見つけたるんや!」
「……勝手に叩くな。……それに、『笑うオムライス』なんて、名前だけでレシピも何もない。……どうやって作るつもりや」
「……僕、覚えてるんだ」
健太が身を乗り出した。
「卵は、まるで雲みたいにふわふわで。……中のご飯は、ただのケチャップじゃない。……なんだか、すごく懐かしくて、甘くて……食べると、みんなが笑顔になるんだ」
「……甘い、オムライス……?」
弦は、渋々といった様子でエプロンの紐を締め直した。
「……わかった。……ただし、失敗しても文句は言うなよ、美食家さん」
「……フン。……期待しないで待ってるよ」
こうして、夕凪のキッチンを戦場に変える「幻のオムライス再現プロジェクト」が幕を開けた。
まずは、商店街の総力を挙げた「材料集め」だ。
「茂雄さん! 世界一甘い玉ねぎと、世界一濃い卵、持ってきて!」
陽菜がアーケードに飛び出し、メガホンで叫ぶ。
「任せとけ、陽菜ちゃん! 兵庫のアワジから直送の、最高級玉ねぎや! これを炒めたら、砂糖より甘くなるで!」
茂雄が、リヤカーいっぱいの玉ねぎを運んでくる。
「弦! 卵はこれや! 一個三百円する、大分県の『黄金の月』や!」
正蔵も、どこからか高級食材を調達してきた。
夕凪の厨房は、玉ねぎを炒める甘い香りと、バターの芳醇な匂いに包まれた。弦は、これまでに培った「へんこつな味覚」を研ぎ澄ませ、健太の断片的な記憶を繋ぎ合わせていく。
「……ただの砂糖の甘さやないはずや。……健太、中身は鶏肉やったか?」
「……ううん。……もっと、柔らかくて、ぷりぷりしてた」
「……エビか。……いや、大阪なら……」
弦が辿り着いた答えは、意外なものだった。
「……牛すじや。……牛すじを甘辛く炊いたやつを、ライスに混ぜ込んどったんやないか?」
「あぁっ! それや! 大阪の『お母ちゃんの味』といえば、どて焼きやん!」
陽菜が膝を打つ。
だが、最大の問題は「笑う」の正体だった。どうすれば、オムライスが「笑う」のか。ケチャップでニコちゃんマークを描くだけなら、誰にでもできる。健太が探しているのは、そんな安易な演出ではない。
試作一回目。……「味が濃すぎる」。
試作二回目。……「卵が硬い」。
試作三回目。……「懐かしくない」。
健太は、出されるオムライスを一口食べては、悲しそうに首を振った。
「……違う。……お母さんの味は、もっと……こう、食べると胸の奥が温かくなって、嫌なことを全部忘れるような……」
「……嫌なことを忘れる味、か」
弦は、カウンターに置いてあった自分のコーヒーを見つめた。苦くて、深くて、最後にはすっきりと消える一杯。その時、弦の脳裏に、かつて母(正蔵の妻)が、風邪を引いた自分に作ってくれた「あるもの」の記憶がフラッシュバックした。
「……陽菜。……あれを持ってこい。……リン先生のところにある『秘密の果実』や」
深夜のあかね商店街。リン先生の薬局の奥に眠っていた、完熟した「ある果物」のジャム。それを、弦はライスを炒める際の隠し味として投入した。さらに、卵を焼く際、火を止める直前に、ほんの一垂れの「何か」を混ぜ込んだ。
「……健太。……これが、最後や。……これでダメなら、俺の負けや」
弦が差し出したのは、何の変哲もない、美しいラグビーボール型のオムライス。
だが、その上にはケチャップはかかっていない。
「……ケチャップがないじゃないか。……これじゃ『笑う』なんて……」
健太がスプーンを入れようとした、その瞬間だった。
ふわっ。
温かいご飯の熱で、卵の表面がわずかに震え、中から透き通るような「香り」が溢れ出した。それは、コーヒーの香ばしさと、柑橘系の爽やかさ、そしてお出汁の優しさが混ざり合った、この店にしか存在しない香り。
「…………あっ」
健太が一口、口に運ぶ。
卵の中に仕込まれていたのは、陽菜が必死で泡立てた、まるでメレンゲのような「お出汁の泡」。それが口の中で弾けるたびに、優しい旨味が広がる。そしてライスの隠し味に使われた「リンゴとコーヒーのコンフィチュール」が、懐かしい「実家のカレー」のようなコクを与えていた。
「…………笑ってる。……本当だ。……僕の口の中が、笑ってる……!」
健太の目から、大粒の涙が溢れ、オムライスの上に落ちた。
「……お母さん。……お母さんの、味だ……。……うわぁぁぁん!!」
生意気な「美食家」の仮面が剥がれ、そこにはただの、お母さんに甘えたかった八歳の男の子がいた。陽菜が、黙って健太を抱きしめる。
弦は、背を向けて、いつもより丁寧に、健太のために「苦くないココア」を作り始めた。
一週間後。ゴールデンウィーク初日。喫茶「夕凪」には、祖父と一緒に笑顔でパフェを食べる健太の姿があった。
「……マスター。……この前のオムライス、メニューに入れないの? 五千円の価値、あったと思うけど」
健太が、少し照れくさそうに尋ねる。
「……あんな手間のかかるもん、毎日作れるか。……あれは、お前のための『限定品』や」
弦は、ぶっきらぼうに答えた。
「……でもさ。……代わりに、僕がこの店の『公式アドバイザー』になってあげるよ。……次は、ナポリタンの改良から始めようか」
「……断る。……お前は、さっさと宿題やって、友達と外で遊んでこい」
陽菜が、そのやり取りを笑いながら眺めていた。
「ええやん、弦ちゃん! 夕凪の『ジュニア・マスター』誕生や!」
「……誰がジュニアや。……こいつはただの、偏食のガキや」
外では、大型連休を楽しむ家族連れの笑い声が響いている。あかね商店街、喫茶「夕凪」。消えたはずの「記憶の味」は、琥珀色の湯気とケチャップの香りに乗って、新しい街の、新しい思い出へと繋がっていく。
「……なぁ、陽菜。……お前、オムライスの練習しろよ。……俺がいない時に健太が来たら、困るやろ」
「えっ、弦ちゃん! 私に秘伝のレシピ、教えてくれるん!?」
「……一回しか言わんぞ。……お出汁の泡の立て方はな……」
不器用な師弟(?)関係が、春の光の中でゆっくりと動き出した。
(第二十六話 了)




