消えたタコ公園と、秘密のタイムカプセル
四月半ば。桜の絨毯が雨に打たれて色褪せ、商店街のアーケードには五月人形の幟が早くも揺れ始めていた。この時期、喫茶「夕凪」では、お花見シーズンの喧騒で溜まった汚れを落とす「春の大掃除」が行われるのが恒例だ。
「よし! 弦ちゃん、そこどいて! その棚の裏、二十年分の埃が地層になってるはずやから!」
陽菜は、頭にバンダナ、鼻の頭にうっすらと埃をつけ、軍手姿で巨大な棚に立ち向かっていた。
「……勝手に地層にするな。俺は毎週掃除しとる。……それより、お前がさっきから動かすたびに埃が舞って、コーヒーの香りが台無しや」
弦は、不機嫌そうにカウンターを拭き直していた。だが、陽菜の勢いは止まらない。
「あ、見て! 弦ちゃん、これ何!?」
陽菜が棚の隙間から引っ張り出したのは、ボロボロになった一冊のノート。その中から、一枚の黄色く変色した紙切れがハラリと落ちた。
そこには、子供の稚拙な字でこう書かれていた。
『宝ものは、大ダコの足の下。三歩進んで、右を向け。』
「…………」
弦の手が、止まった。その紙を見た瞬間、彼の脳裏に、すっかり忘れていたはずの「二十年前の約束」が、琥珀色のコーヒーがカップに落ちるような鮮やかさで蘇った。
「これって……弦ちゃんの字やん! 懐かしいなぁ、『大ダコ』って、あの昔の……」
「……捨てろ。そんなもん、ガキの遊びや」
弦は、慌てて視線を逸らした。だが、耳の先がわずかに赤くなっているのを、陽菜は見逃さなかった。
「ええー!? もしかして、これ、タイムカプセルの地図!? 弦ちゃん、何埋めたん? 何かすごいお宝!? 金貨!? それとも……」
「……金貨なわけあるか。……ただのガラクタや。もう、その公園もない」
弦が冷たく言い放ったその時。
「なんや、お宝やと!?」
ガラリと店の扉が開き、掃除の休憩中だった茂雄と、弦の父・正蔵がなだれ込んできた。
「聞いたぞ陽菜ちゃん! 弦がガキの頃に『黄金の埋蔵金』を隠したんやな!?」
茂雄の目は、欲と好奇心でキラキラと輝いていた。
「……だから、埋蔵金やない言うとるやろ! ただの空き缶や!」
弦の抗議も虚しく、正蔵が地図を奪い取った。
「おい、茂雄! 見ろ、これ『大ダコの足の下』って書いてあるぞ。……あの公園、今はもうスーパーの駐車場になってるはずやが……」
「……フフフ。親父、忘れたんか? スーパーの工事の時、あのタコの滑り台は『邪魔やから』って言って、商店街の裏にある『あかねスクラップ場』に一時保管されたはずや!」
「……! ということは、まだそこにあるかもしれんな!」
二人の老人が、子供のような顔をして頷き合った。
「……おい、待て。……勝手に探しに行くな! あれは俺の……」
弦が言いかけるのを遮り、陽菜が叫んだ。
「面白そうやん! 弦ちゃんのお宝、私が一番に見つけたげる! レッツゴー、商店街お宝探し隊や!!」
こうして、四月の爽やかな空気は一変し、あかね商店街を巻き込んだ「前代未聞の宝探し」が始まった。
一行(+野次馬になった商店街の面々)が向かったのは、アーケードの終点にあるスクラップ場。そこには、壊れた洗濯機や古い自転車に混じって、色あせた赤色の「巨大なタコの滑り台」が、まるで打ち上げられたクラーケンのように横たわっていた。
「うわぁ……。懐かしいなぁ。ここで、弦ちゃんとよく遊んだよな」
陽菜が、タコの頭をそっとなぞる。
「……遊んでへん。お前が勝手に付いてきただけや」
弦は、腕を組んで不機嫌そうに立っていた。だが、その視線は、タコの「三番目の足」に釘付けになっていた。
「よし! 掘るぞ! 黄金の小判、出てこい!!」
茂雄がスコップを振り上げる。
「ちょっと待って! 地図には『三歩進んで、右を向け』って書いてあるわ。……タコの足から三歩……一、二、三。……ここや!」
陽菜が指差した場所は、古いトタン壁のすぐそばだった。
皆で息を呑んで見守る中、茂雄が力一杯地面を掘る。
カチンッ。
「……当たったぞ!!」
土の中から現れたのは、ひどく錆びついたクッキーの空き缶だった。
「……弦。……これか?」
正蔵が、慎重に缶を拾い上げた。
「…………。……開けるな。……もう、そんなもん、意味ないんや」
弦が、今まで聞いたこともないような、弱々しい声で言った。
だが、好奇心の塊である陽菜が、そっと缶の蓋を開けた。中に入っていたのは、金貨でも小判でもなかった。
そこには、三つの「宝物」が入っていた。
一つは、使い古された「湊流」の茶筅。二つ目は、小さな、本当に小さな、琥珀色の「コーヒー豆」のキーホルダー。そして三つ目は、手書きの「誓約書」のような紙切れ。
『将来、俺は世界一のコーヒーを淹れる。陽菜は、その横でお客さんを笑わせる。約束や。』
六歳の弦と、五歳の陽菜の、たどたどしいサインが並んでいた。
「…………」
スクラップ場に、沈黙が流れた。茂雄も、正蔵も、そして後ろで見ていた魚屋の源さんも、電気屋のトメさんも、誰も茶化すことができなかった。
「……なんや。……やっぱり、ただのゴミやったな」
弦が、顔を真っ赤にして背を向け、足早に歩き出した。
「弦ちゃん! 待って!」
陽菜が缶を抱えて追いかける。
喫茶「夕凪」に戻った弦は、黙ってカウンターに立ち、猛烈な勢いで豆を挽き始めた。ガリガリ、ガリガリと、ミルの音が店内に響き渡る。
「……弦ちゃん。……怒ってる?」
陽菜が、おずおずと尋ねた。
「……怒ってへん。……ただ、自分のガキの頃の青臭い妄想を見せられて、気分のええ奴はおらん、言うとるんや」
「……妄想やないよ」
陽菜は、カウンターにあの「誓約書」を置いた。
「弦ちゃん。……見てぇな。……これ、もう叶ってるやん。……弦ちゃんはここで、世界一美味しいコーヒー淹れてる。……私、その横で、毎日笑ってるで?」
弦の手が、止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、陽菜の瞳を見た。そこには、二十年前の小さな少女の面影と、今、目の前で自分を支えてくれている、太陽のような女性の笑顔があった。
「…………アホ。……まだ、世界一やない。……修行中や」
弦は、逃げるように視線を逸らした。だが、今度はその口元が、わずかに、本当にわずかに綻んでいた。
その日の夕方。大掃除を終えた「夕凪」の店内は、驚くほど澄んだ空気に包まれていた。弦は、あの缶に入っていた「コーヒー豆のキーホルダー」を、カウンターの端にある鍵かけにそっと吊るした。
「……なぁ、弦ちゃん。あの茶筅は?」
「……あんなもん、カビだらけで使えん。……でも、親父の仏壇の横に置いといてやったよ」
弦は、陽菜のために、特別な一杯を淹れた。四月の新緑を思わせる、爽やかでいて、どこか懐かしい、エチオピア産の浅煎り。
「……はい。……『大ダコ・ブレンド』や。……タコみたいに、しつこい味やぞ」
「なんでやねん! それ、全然美味しそうに見えへんわ!」
陽菜が笑いながら、一口飲む。
「…………。……ああ、美味しい。……なんか、泣きそうになる味やわ」
外では、商店街の提灯が灯り始め、いつもの賑やかな夜がやってこようとしていた。タイムカプセルは開かれたが、二人の物語は、まだ始まったばかり。二十年前の「約束」は、今、琥珀色の湯気の中に溶け込み、二人の明日を温かく照らしていた。
「……陽菜。……明日、早起きしろよ。……スクラップ場の掃除、手伝いに行かなあかんからな」
「えーっ!? 茂雄さんがやるんちゃうん?」
「……俺たちの『宝もの』で、あそこまで散らかしたんや。……責任取れ」
「もー! 最後までへんこつなんやから!」
あかね商店街、喫茶「夕凪」。
四月の風は、過去の記憶を優しく包み込み、また新しい一杯の奇跡を運んでくる。
(第二十五話 了)




