夜桜のヤキモチと、秘密の春弁当
四月。大阪・あかね商店街は、淡いピンク色の「狂乱」に包まれていた。アーケードを抜けた先にある公園の桜が満開を迎え、商店街は「夜桜お花見大会」の準備で、師走をも凌ぐ大騒ぎ。
「よし! 今年のお花見弁当は、『夕凪のナポリタン・サンド』と『辰巳屋の桜餅』の最強コラボで行くで! 弦ちゃん、気合入れや!」
陽菜が、鼻歌まじりにメニューを書き換えていた。春の陽光を反射して、彼女のポニーテールが元気に揺れている。
「……勝手にコラボさせるな。うちは喫茶店や、仕出し弁当屋やない」
弦は、いつものように低い声で応じながら、春限定の「さくらブレンド」の試作に没頭していた。ブラジルの豆をベースに、微かに花の香りを乗せる……その繊細な作業を邪魔する者は、誰であれ許さないはずだった。
カラン、コロン。
「失礼します。……ここが、街で一番温かいコーヒーが飲めると噂の場所ですか?」
入ってきたのは、一人の青年だった。透き通るような白い肌、風に遊ぶ柔らかな茶髪。そして、見る者の心を射抜くような、涼しげな一重の瞳。手には、瑞々しい季節の花を束ねたバスケットを抱えている。
「あ……」
陽菜の動きが、目に見えて止まった。
「……い、いらっしゃいませ……」
「こんにちは。僕は蓮。この街に新しくできた生花店のスタッフです。……これ、ご挨拶に」
青年――蓮は、陽菜に一輪の薄紅色のバラを差し出した。
「あなたの笑顔に、あまりにも似合っていたので」
「えぇっ!? わ、私に!? ……あ、ありがとうございます!」
陽菜の顔が、瞬時にして茹で上がったタコのように真っ赤になる。
パリンッ。
カウンターの奥で、弦が持っていたスプーンが床に落ちた。
「……おい。……注文せんのなら、帰れ」
弦の声は、地を這うような低音だった。
「あら、怖い。……マスター、あなたからは、とても深い『焦燥感』の香りがしますね。……焙煎のしすぎでしょうか?」
蓮は、余裕の笑みを浮かべてカウンターに座った。
「……なんやて?」
弦の眉間に、これまでにないほど深い皺が寄る。
「弦ちゃん、失礼やわ! 蓮さん、わざわざお花を届けてくれたんやから。……ねぇ、蓮さん。お花見大会、蓮さんも来るんですか?」
陽菜が身を乗り出す。
「ええ。生花店として会場の飾り付けを担当するんです。……もしよかったら、その時、一緒に夜桜を見ませんか? あなたのような素敵な女性と、ゆっくりお話ししたい」
「……ッ!!」
弦の手元で、サイフォンが激しくコトコトと音を立てた。
「……お花見の会場は、もう『夕凪』の出店で埋まっとる。余計な飾り付けは邪魔や。……陽菜、お前もいつまでデレデレしとる。弁当の仕込みはどうした」
「デレデレなんてしてへんわ! 弦ちゃんこそ、さっきから何なん、そのトゲトゲした言い方! 蓮さん、傷つくやんか!」
「フフッ、大丈夫ですよ、陽菜さん。情熱的な男性は嫌いじゃありません。……では、お花見の夜に。……楽しみにしてます」
蓮は優雅にウィンクを残し、店を去っていった。
残されたのは、凍りついたような空気の弦と、ふわふわと浮ついた様子の陽菜。そして、その様子を扉の影からニヤニヤと眺めていた、茂雄と正蔵の「お節介コンビ」だった。
「聞いたか、正蔵! ついに夕凪の牙城を崩す、キラキラ男子の登場や!!」
「おうよ、茂雄! 弦のやつ、顔がドス黒くなっとるぞ。これは面白いことになってきたわい!」
お花見大会当日。あかね商店街の夜桜会場は、提灯の明かりに照らされ、幻想的な雰囲気に包まれていた。だが、その一角にある「夕凪出張所」だけは、爆発寸前の火山のような緊迫感が漂っていた。
「……おい、陽菜。その弁当の詰め方はなんや。彩りがなっとらん」
「もー! 弦ちゃん、さっきから細かいんやて! 蓮さんが飾り付けてくれたあそこの桜のアーチ、見てぇな。めっちゃ綺麗やん!」
「……あんなもん、目障りなだけや」
弦は、蓮が飾り付けた花のアーチの下で、女性客に囲まれてにこやかに微笑む蓮を、親の仇のような目で見つめていた。
そこへ、酔っ払った茂雄たちが乱入してきた。
「おーい、弦! 景気はどうや! ……おっ、蓮くんもこっちへ来い! 弦自慢のコーヒー、飲んだってくれ!」
「喜んで」
蓮が、さらりと夕凪のブースにやってきた。
「マスター、今夜は一段と『苦い』一杯をお願いできますか? あなたのその、煮え切らない想いのような味を」
ブチッ、と。弦の中で、何かが切れる音がした。
「……ええやろう。……飲んだら、二度とこの街の土は踏めんようになるぞ」
弦は、お花見会場の簡易コンロとは思えない手つきで、一滴一滴、魂を削るようにドリップを始めた。周囲の喧騒が、嘘のように消える。弦の全神経が、サーバーの中に落ちる琥珀色の液体に集中した。
そして、差し出されたのは、夜桜の色を写し取ったような、深い、深い黒の一杯。
「……飲め」
蓮は、無言でそれを口に運んだ。
「…………」
蓮の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。そして、静かにカップを置いた。
「……なるほど。……これは、僕の負けですね。……いや、この街の負けだ」
「……何がや」
「このコーヒーには、『守りたいもの』の重さが詰まっている。……僕のような旅人には、決して出せない味だ」
蓮は、憑き物が落ちたような爽やかな顔で陽菜を見た。
「陽菜さん。……あなたの隣にいるこの男性は、宇宙一の『へんこつ』ですが……宇宙一、あなたを大切に思っている。……僕の出る幕はありませんね」
「え……? 蓮さん、何の話……?」
陽菜がポカンとしている。
蓮は、弦に向かって小さく頭を下げた。
「マスター。……実は僕、エレナさんの遠い親戚なんです。……『弦を少しだけ揺さぶってきて』と頼まれまして。……でも、ここまで本気の『嫉妬の味』を飲まされるとは思いませんでした」
「……っ!! あいつ……余計な真似を……」
弦の顔が、今度は別の意味で真っ赤になった。
ドタバタが収まり、宴もたけなわ。蓮は「次の街へ花を届けに行きます」と風のように去っていった。茂雄たちも、どこかで酔い潰れて寝静まっている。
夜桜がハラハラと舞い散る中、後片付けをする二人。
「……なんや、結局エレナさんの差し金やったんか。……私、ちょっと本気でドキドキしたのに!」
陽菜が、膨れっ面でビールケースを運ぶ。
「…………。……悪いか」
弦が、ボソリと呟いた。
「え? なんて?」
「……悪いか、言うたんや! ……あんなチャラチャラした奴にお前が取られると思ったら、……コーヒーの味が狂ってまうわ!」
弦は、片付けの手を止め、ポケットから小さな包みを取り出した。
「……ほら。……弁当の余りやない。……お前のために、別に作っといたやつや」
包みを開けると、そこには陽菜の大好物である出し巻き卵と、ほんのりと桜の香りがする「特製おむすび」が入っていた。
「……これ、弦ちゃんが作ったん?」
「……それくらいできるわ。……お前が、誰かの弁当ばっかり褒めるからや」
陽菜は、夜桜の下でそのおむすびを一口食べた。弦らしい、しっかりとした塩気。でも、中心には優しくて甘い、梅肉の味が隠れていた。
「…………美味しい。……世界で一番、美味しいわ」
陽菜の目から、一筋の涙が溢れた。
「……弦ちゃん。……私な、どこへも行かへんで。……ずっと、弦ちゃんの淹れる、苦い苦いコーヒーを隣で飲んでるからな」
弦は、不器用に陽菜の頭を一度だけ、乱暴に撫でた。
「……当たり前や。……お前がおらんと、うちのナポリタンの味、誰が毒味するんや」
「毒味って何よ!!」
あかね商店街、夜桜の夜。
春の嵐のようなドタバタは過ぎ去り、散りゆく花弁は二人の足元を優しく埋めていく。嫉妬も、不安も、すべては琥珀色の一杯に溶けて。二人の日常は、また新しい季節へと、ゆっくりと歩みを進めていく。
「あ、でも弦ちゃん! さっきの蓮さんのウィンク、やっぱりかっこよかったよなぁ?」
「……二度とその名前を出すな。……明日からコーヒー一円値上げや!」
「なんでやねん!!」
(第二十四話 了)




