嫉妬のショコラティエと、桃色の果たし状
二月の大阪は、底冷えがする。あかね商店街のアーケードを吹き抜ける風は、人々の鼻の頭を赤く染め、吐き出す息を真っ白な雲に変えていた。だが、そんな寒さを吹き飛ばすような「熱気」が、今、商店街の一角を支配していた。
「な、なんなん!? あの行列……。うちのナポリタンの特売日でも、あんなに並ばへんで!」
陽菜が店先で、指をくわえながら向かいの空き店舗を眺めていた。
そこには、数日前から突如として現れた期間限定のポップアップ・ショップがあった。店の名は、『ショコラ・ド・ルイ』。金髪をなびかせ、白いコックコートを完璧に着こなした超絶イケメン・ショコラティエ、ルイが微笑みを振りまきながら、一粒五百円もする高級チョコレートを売っているのだ。
「……ふん。女子供を顔で釣って、砂糖の塊を売りつける。……商売敵にもならんな」
弦がカウンターの奥で、いつも以上に不機嫌そうにネルドリップを振っていた。
「弦ちゃん、それ完全な負け惜しみやで! 見てぇな、あのルイさん。歩くたびにキラキラの粉が飛んでるみたいやん。うちのマスターなんて、歩くたびにコーヒーの粉が落ちてるだけやのに……」
「……やかましい。そんなにキラキラが良いなら、あっちでチョコの箱詰めでも手伝ってこい」
そんな険悪な空気の中、郵便屋さんが一通の手紙を置いていった。それは、いつもの請求書やダイレクトメールとは明らかに違う、甘い花の香りが漂う桃色の封筒だった。
宛名は――『湊 弦 様』。
「…………えっ?」
陽菜の動きが止まった。
「……弦ちゃん。……これ、何? ……ラブレター?」
弦の手がわずかに震えた。
「……知らん。……宛名間違いやろ」
「間違いなわけないやん! 『湊弦様』って、こんなへんこつな名前、この街に一人しかおらんわ! ちょっと、見せて! 中身見せて!!」
「アホ、プライバシーの侵害や! 寄るな!」
二人がカウンター越しに封筒を奪い合っていると、カラン、コロン、とドアが開いた。
「ボンジュール。……ここが、噂の『古臭い喫茶店』かい?」
入ってきたのは、例のイケメン、ルイだった。彼は店内に漂うケチャップと珈琲の匂いにわずかに眉をひそめ、優雅な仕草でカウンターに座った。
「……なんや、キラキラ王子。うちはフランス語のメニューなんてないぞ」
弦が低い声で威嚇する。
「フフッ、厳しいね。……僕はルイ。君に、一つ提案があって来たんだ。……その桃色の封筒、僕のクライアントから君への『果たし状』だよ」
「……果たし状?」
陽菜が身を乗り出す。
「そう。その送り主は、僕のパトロンであり、世界的なグルメ・コレクターの女性さ。彼女は君のコーヒーを高く評価している。……だからこそ、僕のショコラと君のコーヒー、どちらが『至高のバレンタイン』に相応しいか、白黒つけたいと言っているんだ」
ルイはバラの花を一輪、カウンターに置いた。
「明後日のバレンタイン当日。商店街の特設ステージで、マリアージュ対決をしよう。……もし君が負けたら、この店を僕のショコラ・ショップの倉庫として譲ってもらうよ」
「な、なんやてぇ!? 弦ちゃんの城を倉庫にするやと!?」
陽菜が激昂する。
「……受けようやないか。……ただし、俺が勝ったら、二度とそのチャラついた顔をこの街に見せるな」
弦の瞳に、静かな怒りの炎が宿った。
ルイが去った後、夕凪は「作戦会議」という名のパニックに陥っていた。
「どないしよ、弦ちゃん! 相手はパリ帰りの天才やで! こっちは、へんこつ店主とトナカイ娘(元)やん!」
「……うるさい。……コーヒーとチョコのマリアージュなら、俺にも勝機はある。……だが、問題は『チョコ』の方や。……俺一人では、最高のチョコは作れん」
弦は、渋々といった様子で陽菜を見た。
「……陽菜。お前の……あの、バカみたいに甘くて、中身が詰まった『ガサツな手作りチョコ』……。あれをベースにする」
「えっ……。私のチョコ? でも、あんなんルイさんの宝石みたいなチョコに比べたら、ただの泥団子やで?」
「……泥団子でええ。……大事なのは、コーヒーの苦味を受け止める『包容力』や。……ルイのチョコは完璧すぎて、コーヒーの入る隙間がない。……俺たちの武器は、『未完成の温かさ』や」
そこから二日二晩、夕凪の明かりは消えなかった。陽菜は、近所の子供たちや、おばちゃんたちのアドバイス(という名のヤジ)を受けながら、何百回とチョコを練り直した。
「陽菜ちゃん、隠し味に醤油入れとき! 大阪人は醤油や!」
「あかん、ここは紅生姜やろ!」
商店街の面々が勝手にキッチンに入り込み、現場はしっちゃかめっちゃか。
一方、弦は、その「カオスなチョコ」に寄り添うための、究極の豆を選別していた。選んだのは、インドネシア産のマンデリン。 大地を思わせる力強い苦味と、複雑なスパイスの香り。それが陽菜の「賑やかなチョコ」と合わさった時、化学反応が起きるはずだった。
バレンタイン当日。あかね商店街の特設ステージには、これまでにないほどの人だかりができていた。審査員は、商店街の重鎮・正蔵と、通りすがりの女子大生、そして例の「謎のパトロン」……として現れた、なんと変装したエレナだった。
「あら、また会ったわね、弦。……ルイは私の秘蔵っ子よ。手加減はしないわ」
エレナが不敵に笑う。
先攻はルイ。 彼が差し出したのは、カカオの産地別に温度管理された三種類のショコラと、シャンパンのような香りの浅煎りコーヒー。
「これは『都会の孤独』を癒すための、究極の調和さ」
審査員たちは、その美しさと洗練された味に、うっとりと目を閉じる。
そして、後攻。夕凪の番だ。弦がステージに持ち込んだのは、年季の入ったネルフィルター。そして陽菜が震える手で差し出したのは、形が不揃いで、どこか「おはぎ」のようにも見える特大の生チョコだった。
「……何よ、その不格好な塊は」
エレナが眉をひそめる。
「……食えばわかる。……これは、この街の『お節介』を全部詰め込んだチョコや」
審査員がチョコを一口噛み、そこに弦が丁寧に、ゆっくりとドリップしたマンデリンを注ぎ込む。
「…………ッ!!」
正蔵が、目を見開いた。
「……なんや、これは。……チョコの中から、いろんな味がする。……ナッツ、ドライフルーツ、それに……これ、ほんの少しの『お出汁』か?」
「……隠し味に、昨日の余りの昆布出汁を入れちゃいました!」
陽菜が照れくさそうに笑う。
マンデリンの深い苦味が、チョコの暴力的な甘みと出汁の旨味を包み込み、喉を通る瞬間に、まるで商店街の喧騒の中で誰かに背中を叩かれたような、不思議な活力が湧いてくる。
「……ルイ。君のチョコは、確かに素晴らしい。……でも、それは『美術館』で食べる味だ」
正蔵が静かに言った。
「……夕凪の味は、『家』に帰りたくなる味や。……この街に似合っとるのは、どっちか……言うまでもないな」
優勝は、喫茶「夕凪」。
商店街中に「わあああ!」という歓声が響き渡る。ルイは、爽やかに負けを認め、
「僕の負けだ。……次は、パリの空気を感じるナポリタンを研究してくるよ」
と言い残して、キラキラと去っていった。
エレナも、「……相変わらず、計算外の男ね」と苦笑いして、桃色の封筒の正体が「ただの招待状(という名の果たし状)」だったことを明かし、帰っていった。
夕暮れ。祭りの後。夕凪の店内で、陽菜と弦は二人きりで片付けをしていた。
「……あー、疲れた! でも、店が倉庫にならんで良かったなぁ、弦ちゃん」
「……当たり前や。……誰が、あんなチャラ男にここを渡すか」
弦は、カウンターの奥から小さな包みを取り出した。
「……ほら。……お前、自分の分は食べてないやろ」
中に入っていたのは、陽菜が作ったチョコ……ではなく、弦がこっそり作っていた、コーヒー豆の形をした小さなクッキーだった。
「えっ……。弦ちゃんが、私に……? これ、バレンタイン?」
「……お返しや。……お前のお節介チョコがなかったら、勝てんかったからな」
陽菜がクッキーを一口食べる。サクッとした食感の中に、ほんのりと苦いコーヒーの香りと、驚くほど優しい砂糖の甘さ。
「……甘い。……弦ちゃん、これ、砂糖入れすぎちゃう?」
「……うるさい。……今日は、これくらいでええんや」
窓の外では、春を待つ冷たい雨が、いつの間にか雪に変わっていた。
あかね商店街、喫茶「夕凪」。
ドタバタと騒がしいバレンタインが過ぎ、二人の間には、いつもより少しだけ「甘い」凪の時間が流れていた。
「……なぁ、弦ちゃん。来年は、私、もっとすごいの作るからな!」
「……もうええ。来年は、休業や」
「なんでやねん!!」
二人の笑い声が、琥珀色の湯気の中に溶けていった。
(第二十二話 了)




