聖夜のビター・スウィート・ララバイ
十二月。あかね商店街は、一年の締めくくりに向けた狂騒曲の真っ只中にあった。アーケードの至る所には、百円ショップで買ったと思われる少し安っぽいサンタの飾りが揺れ、スピーカーからはエンドレスで「ジングルベル」の大阪弁バージョンが流れている。
「メリークリスマース! 弦ちゃん、見てぇな。私、トナカイやで! どう? 似合ってる?」
陽菜が、茶色のカチューシャを頭に乗せ、真っ赤な鼻のペイントをして店内で跳ね回っている。
「……似合っとる。そのまま奈良公園に放り出して、鹿せんべいでも食わされてこい」
弦は、サンタの帽子を無理やり被らされ、仏頂面でサイフォンを振っていた。
今年の商店街の目玉行事は、「あかね・クリスマス・スイーツ・バトル」。商店街の各店舗が新作スイーツを競い、一般投票で一位を决める。優勝賞品は「商店街共通商品券十万円分」。これに目を輝かせたのが陽菜だった。
「十万円やで、弦ちゃん! これがあれば、ずっと欲しかったあのイタリア製の最新オーブンが買えるやん! 『夕凪』のナポリタンのパンも、自家製で焼けるようになるんやで!」
「……十万円分の商品券やぞ。全部お前の実家の『辰巳屋』で米に変えられるのがオチや」
弦は冷淡に答えるが、その実、カウンターの下には世界中のパティスリーのレシピ本が積み上がっていた。やるからには、中途半端なものは出したくない――へんこつのプライドが疼いていた。
そんな賑やかな午後のことだった。
カラン、コロン。
店内に、氷のような冷気と、都会の洗練された香りが流れ込む。入り口に立っていたのは、真っ白なカシミアのコートを羽織った、圧倒的な存在感を放つ美女。六月の雨の日に現れた、あの加賀美エレナだった。
「……あら。サンタさんの格好をした一流バリスタなんて、初めて見たわ」
エレナがくすくすと笑う。その視線は、一瞬で店内の「戦意」を掌握した。
「エレナ……。またあんたか。ニューヨークはどうした」
弦がサンタ帽を脱ぎ捨て、鋭い視線を向ける。
「休暇よ。それに、大阪の百貨店から『クリスマス・ポップアップ・ストア』の依頼が来てね。……ついでに、あなたがこの『場末の商店街』でどんなクリスマスを過ごしているのか、偵察に来たの」
エレナは陽菜が運んできたお冷には目もくれず、テーブルに一枚のリーフレットを置いた。そこには、エレナがプロデュースする「宝石のような」クリスマスケーキの数々が並んでいた。一つ一万二千円。予約は数分で完売するという、別世界の芸術品だ。
「商店街のスイーツ・バトル? ……ふふっ、滑稽ね。弦、あなたが作るのは、せいぜいイチゴのショートケーキに生クリームを雑に乗せただけの『おままごと』でしょう?」
「……なんやて、このスカした女!!」
陽菜がトナカイの角を揺らしながら食ってかかる。
「『夕凪』の味を舐めんといて! 弦ちゃんのコーヒーと、私の真心が合わさったら、あんたの宝石箱なんか粉々やで!」
「あら、威勢がいいわね。……なら、見せてちょうだい。その『真心』とやらが、私の『完璧』にどこまで通用するのか。……もし私が勝ったら、弦。あなたは今度こそ、私の下で働くことを約束してもらうわよ」
エレナは挑発的な微笑を残し、去っていった。残されたのは、静まり返った店。そして、かつてないほど燃え上がる、へんこつ店主と看板娘の闘争心だった。
「……やるぞ、陽菜」
弦の目が、真剣な「プロ」のそれに変わった。
「もちろんで! 見返したるわ! ……で、弦ちゃん、何作るん? やっぱショートケーキ?」
「……いや。エレナと同じ土俵で戦っても勝ち目はない。あいつは砂糖とクリームの魔術師や。……俺たちは、『コーヒー屋』にしか作れんスイーツを作る」
そこから、二人の長い夜が始まった。閉店後の厨房。弦は、数種類の豆をブレンドし、濃度を変え、温度を変え、抽出方法を試行錯誤する。一方の陽菜は、地元の八百屋で仕入れた新鮮な果物や、近所の牧場から届いた濃厚なミルクを使い、弦のコーヒーに合う「土台」を探していた。
「……苦すぎる。これじゃあ、客は一口でギブアップや」
「……甘すぎる! コーヒーの香りが死んどるやろ!」
二人の意見は激しく対立した。弦は「完璧な抽出」を求め、陽菜は「誰もが美味しいと思える温かさ」を求める。
「弦ちゃん! 理屈ばっかり言わんといて! ケーキはな、食べた時に幸せにならなあかんねん! あんたの作ってるのは、ただの『黒い塊』や!」
「……お前の作ってるのは、ただの『甘い暴力』や! 素材の良さを消してどうする!」
調理場は小麦粉とコーヒー粉で真っ白になり、二人の顔も汚れ、空気はピリピリと張り詰めていた。そんな中、ふと、弦の手元にあった「あるもの」が陽菜の目に留まった。
それは、第十九話で取り返した、あの「古い詩集」だった。弦がメモ代わりに使っていたその本の余白に、一つの言葉が記されていた。
『苦味とは、去っていったものへの未練。甘みとは、明日への希望。その二つが混ざり合う場所に、俺たちの「凪」がある。』
「…………」
陽菜は、黙って弦の背中を見つめた。
(そうか……。弦ちゃんは、ただ美味しいものを作りたいんやない。この店に流れてくる、みんなの『苦しみ』も『喜び』も、全部包み込もうとしてるんや)
「弦ちゃん。……もう一度、やり直そう。……私、わかった気がする。二人の真ん中にある味」
二十四日。コンテスト当日。あかね商店街の広場には、大勢の客が詰めかけていた。エレナの作品は、予告通り、繊細な飴細工と金箔で彩られた「聖夜の宝石」という名のムース。一口食べれば、パリの夜景が浮かぶような高貴な味だ。
そして、「夕凪」が出したのは―― 一見すると、ただの「小さな切り株」のような、地味なロールケーキだった。
「……何よ、これ。これがあなたの答え?」
エレナが鼻で笑う。
「……食えばわかる。……これは、ただのケーキやない。『夕凪』そのものや」
審査員となった商店街のおばちゃんたちや、若者たちが一口、そのケーキを口に運ぶ。その瞬間、広場が静まり返った。
外側は、ほろ苦いエスプレッソを練り込んだしっとりとしたスポンジ。中は、陽菜がじっくりと煮詰めたキャラメルと、隠し味に「塩」を利かせた濃厚なマスカルポーネ。そして、ケーキの芯には、冷たい「水出しコーヒーのゼリー」が仕込まれていた。
口の中で、熱さと冷たさ、苦味と甘みが、猛烈な勢いで交錯する。だが、最後には、まるでお風呂上がりのように、じんわりと優しい温かさが心に広がっていく。
「……懐かしい味がするわ」
一人の老婦人が、涙を浮かべて呟いた。
「……昔、主人が淹れてくれた、ちょっと不器用なコーヒーの味。……でも、今まで食べたどんなケーキより、勇気が出るわ」
エレナも、信じられないという表情でそのケーキを口にした。
「…………っ!!」
(……負けた。……私のケーキは、人を『驚かせる』ことはできても、人を『救う』ことはできない。……弦、あなたは……)
結果は――僅差で、夕凪の優勝だった。
「やったぁぁぁ! 十万円の商品券ゲットやぁぁ!!」
陽菜がステージの上で、トナカイの格好のまま飛び跳ねる。弦は、照れ臭そうに帽子を深く被り、エレナの方を向いた。
「……エレナ。あんたのケーキは、世界一や。……でもな、この街には、この『泥臭い甘さ』が必要なんや」
エレナは、少しだけ寂しそうに微笑み、自分の負けを認めた。
「……そうね。……ニューヨークには、この『なんでやねん』の精神は足りないかもしれないわ。……メリークリスマス、弦。……そして、トナカイのお嬢さん。……あなたたちの『凪』、少しだけ羨ましいわ」
エレナは、颯爽と人混みの中に消えていった。
深夜。祭りが終わり、静かになった「夕凪」の店内。二人は、優勝賞品の商品券をカウンターに置き、余ったケーキを分け合っていた。
「……なぁ、弦ちゃん。最新オーブン、明日買いに行こな」
陽菜が、ケーキのクリームを鼻につけたまま言う。
「……ああ。……ついでに、辰巳屋で米も買ってやるよ」
「もー! 最後まで一言多いんやから!」
陽菜が笑いながら、弦の肩に頭を乗せた。
外では、ホワイトクリスマスを告げる雪が、静かに降り始めていた。弦は、不器用に陽菜の頭を撫で、そっと囁いた。
「……陽菜。……メリークリスマス。……来年も、再来年も……このうるさい笑顔、俺の横で見せとけよ」
「…………。……うん。……当たり前やん!」
あかね商店街、喫茶「夕凪」。
聖夜の雪は、すべての苦味を優しく覆い隠し、二人の未来を真っ白なキャンバスに変えていく。
甘くて、少しだけ苦い、二人の物語。
それは、コーヒーが冷める暇もないほど、温かく続いていく。
(第二十話 了)




