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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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商店街会長の遺言とミックスジュース

 ジリジリとアスファルトを焦がすような太陽。遠くで聞こえる喧しいほどの蝉時雨。大阪の夏は、遠慮というものを知らない。

 あかね商店街の路地裏にある喫茶「夕凪」のドアが、カランコロンと気怠げな音を立てて開いた。

「……あかん。もうワシ、あかんわ」

 入ってくるなり、ゾンビのようにカウンターへ突っ伏したのは、商店街の会長であり、老舗和菓子屋「辰巳屋」の三代目・茂雄だった。御年六十八歳。いつもは商店街のスピーカーからド演歌を流し、自転車の無断駐輪を怒鳴り散らしている元気な雷オヤジである。

「ちょ、会長! どないしたん、死にかけのセミみたいな顔して」

 陽菜が慌てて冷たいおしぼりと冷水を出す。

 カウンターの中で氷を割っていた弦は、チラリと茂雄を見下ろし、ピシャリと言い放った。

「うちの店で寿命迎えるのは勘弁してくれよ。片付けが面倒や」

「弦ちゃん! 口の悪さも大概にしぃや!」

「……ええんや、陽菜ちゃん。弦の言う通りや。ワシはもう、終わりなんや」

 茂雄はおしぼりで顔をゴシゴシと拭くと、ポケットから一枚の便箋を取り出した。そこには達筆な筆ペンで『閉店のお知らせ』と書かれていた。

「ええっ!? 辰巳屋、閉めんの!?」

 陽菜の声が店内に響き渡る。

「うそやん、私、あそこのイチゴ大福ないと春生きていかれへんのに! 豆大福かて絶品やんか!」

「時代や。しゃあない」

 茂雄は力なく首を振った。

「今の若いもんは、小洒落た横文字のスイーツしか食わん。商店街の客足も減る一方や。おまけにワシも最近、腰やら肩やら痛うてな。朝早くから餡こ練るんが、もうしんどいんや……。今日で店じまいして、商店街の会長も辞める。いわばこれは、ワシの『遺言』や」

 茂雄の言葉には、いつもの威勢の良さが微塵もなかった。職人としての誇りがポキリと折れてしまったような、深い疲労感。

 陽菜は泣きそうな顔をして、弦の腕を引っ張った。

「弦ちゃん、なんとか言いなさいよ! 商店街から辰巳屋がのうなったら、それこそ終わりやで!」

「知らんがな」

 弦は冷たく言い放ち、アイスピックで丸い氷を削り続けた。シャク、シャク、というリズミカルな音が店内に響く。

「本人が辞める言うてんのや。外野がとやかく言うこっちゃないやろ。……ただな」

 弦は削り終えた美しい丸氷をグラスに入れながら、茂雄の手元に視線を落とした。分厚く、皮が硬く張った職人の手。だが、その手は微かに震え、無意識のうちにカウンターの木目を愛おしそうになぞっている。足元を見れば、茂雄の靴の踵はしっかりと床を踏みしめていた。本当にすべてを諦めた人間の姿勢ではない。

(体力の限界? 時代のせい? ……ちゃうな。こいつはただ、迷子になっとるだけや)

 弦はふっと息を吐くと、陽菜に向かって顎をしゃくった。

「おい、陽菜」

「な、なんやの。私、今悲しいねんけど」

「泣くのは後や。あれ、作れ」

「あれって?」 「

『反省のミックスジュース』や。氷多めで、ガンッガンに冷やせ」

 陽菜は一瞬きょとんとしたが、すぐにパァッと顔を輝かせた。

「……了解!」


 ウィィィィィン!

 静かな店内に、ミキサーのやかましい音が響き渡る。

「なんや、ワシは静かに余韻に浸りたいんやけど……」

 茂雄がぼやいたが、二人はお構いなしだ。

「バナナ一本、みかんの缶詰はシロップごと! 桃缶ちょっとに、牛乳ドバドバ! そして隠し味に、うちの特製ハチミツをちょろり、と!」

 陽菜が鼻歌交じりに材料を放り込んでいく。

 大阪の喫茶店における「ミックスジュース」は、単なる飲み物ではない。それはオカンの味であり、ご褒美であり、魂のガソリンである。

 やがて、レトロな分厚いグラスに、もったりとした淡い黄色の液体が注がれた。赤いチェリーがちょこんと乗っている。

「はい、お待たせ! 夕凪特製、目が覚めるミックスジュースやで!」

 ドン、と置かれたグラスから、果物の甘い香りが漂う。

「ワシはもう、甘いもんは……」

「ええから飲め」

 弦が低い声で凄んだ。その眼光の鋭さに、茂雄は思わず「ひっ」と喉を鳴らし、しぶしぶストローに口をつけた。

 ズズッ。

 一口吸い込んだ瞬間、茂雄の目がカッと見開かれた。

「……冷たッ! 甘ッ!」

「せやろ? 脳天に響く甘さやろ」

 陽菜が胸を張る。

 バナナの濃厚なコク、みかんの酸味、桃の芳醇な香り、そしてミルクのまろやかさ。それらがキンキンに冷えた状態で、喉の奥へと流れ込んでいく。ただ甘いだけではない。氷が多めに砕かれているため、シャリシャリとした食感が、真夏の火照った身体を一気にクールダウンさせる。

 茂雄は無言で、ズズズッ、ズズズズズッ! と、あっという間にグラスを半分まで空にしてしまった。

「ぷはぁっ……!」

 一息ついた茂雄の顔から、先ほどまでの「死にかけのセミ」のような表情は消え去っていた。

「どや、会長。うまいか?」

 弦がカウンターに腕をつき、意地悪く笑う。

「……あかん。これ、あかんわ」

 茂雄はグラスを見つめ、急にポロポロと涙をこぼし始めた。

「先代の……あんたの親父さんが作ってくれた味とおんなじや……」

 陽菜が慌ててハンカチを差し出す。

「ワシな、親父から辰巳屋継いだ時、プレッシャーで潰れそうやってん。その時、ワシの女房が『あんたならできる』言うて、この夕凪に連れてきてくれてな。先代が出してくれたのが、このあっまーいミックスジュースやったんや……」

 茂雄の肩が震える。

「あの時、甘くて冷たいジュース飲んで、『よし、やったるぞ』って腹括ったんや。……女房が死んでから、ワシ、なんのために毎日餡こ練ってんのか分からんようになってしもうてたんやな」

 時代のせいでも、体力のせいでもなかった。ただ、隣で「美味しい」と笑ってくれる人がいなくなり、作る喜びを見失っていただけなのだ。

 弦はふっと目を伏せ、静かに言った。

「会長。あんたの餡こは、時代遅れなんかやない。うちの常連の婆さん連中、辰巳屋の饅頭食うのだけが生きがいや言うとるぞ」

「……弦」

「それにな、あんたの手ぇ見ろや。まだまだ現役の、ええ職人の手ぇやんか。餡こも練れんくらいヘタレたんやったら、その『閉店の貼り紙』、俺が今すぐ破って捨てたるわ」

 弦は言いながら、カウンターの上の便箋に手を伸ばした。しかし、それより早く、茂雄の手が便箋をバシッと押さえた。

「触るな! アホたれ!」

 茂雄は真っ赤な顔で立ち上がった。

「誰がヘタレや! ワシの腕はまだまだ国宝級じゃい! 閉店なんかするか! 秋の栗きんとん、誰が作る思てんねん!」

 ビリビリビリ!

 茂雄は『閉店のお知らせ』を自らの手で派手に破り捨てた。

「おっしゃー! 帰って明日の仕込みや! 陽菜ちゃん、弦! ミックスジュース、ごちそうさん!」

 百円玉を数枚カウンターに叩きつけ、茂雄は嵐のように店を出て行った。

 カランコロン! と、今度は威勢のいいベルの音が響き、商店街の熱気の中へ消えていく。


 静けさを取り戻した店内。陽菜はカウンターに散らばった百円玉を集めながら、クスクスと笑った。

「弦ちゃん、ほんまは会長に店続けてほしかったんやろ?」

「……ただの営業妨害や。あのオッサンが辞めたら、うちで出してる『小倉トースト』の餡こ、別の業者から仕入れなあかんようになるやろが。面倒なだけや」

「はいはい、素直やないなぁ。でも、さすが弦ちゃんや。足音と手の動きだけで、会長の『本音』見抜くんやから」

「俺の手柄ちゃうわ」

 弦は洗い場に立ち、茂雄が空にしたグラスを手に取った。

「お前の作ったあの『お子ちゃまジュース』が、オッサンの涙腺ぶっ壊しただけやろ」

「もう、褒めるなら素直に褒めぇや!」

 陽菜がぷくっと頬を膨らませる。

「……まぁ、悪くはなかった」

 弦はぽつりと呟き、そっぽを向いた。

「えっ、何? 今『悪くなかった』って言うた!? 録音しとけばよかった!」

「やかましい! さっさとテーブル拭け!」

「あはは! 照れてる照れてる!」

 壁の柱時計が、少し遅れてボーンと時を告げる。夕凪の時間は、今日もゆっくりと流れていく。甘くて冷たいミックスジュースの余韻と、ほんの少しの優しい嘘を溶かしながら。


(第二話 了)

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