禁断のブラックコーヒーと、涙の薄味ナポリタン
十月、あかね商店街の朝は、いつになく殺気立っていた。年に一度の商店街一斉健康診断。いつもは「揚げ物こそ正義」と豪語する精肉店のオヤジも、「酒は百薬の長や」と嘯く酒屋の主人も、今日ばかりは神妙な顔で検診バスの列に並んでいる。
「……最悪や。なんで俺が、あんなバスの中で腹をへこませなあかんねん」
弦は、検診から戻るなりカウンターに突っ伏した。
「何言うてんの! 弦ちゃん、毎日コーヒー十杯以上飲んで、夜は私の濃い味ナポリタン食べて、タバコも……あ、タバコは最近減らしてるけど、とにかく生活が不規則すぎるんや!」
陽菜は、自分の分の健診結果(こちらは「健康そのもの、牛並みの体力」という太鼓判付きだった)を誇らしげに振り回す。
一週間後。夕凪に一通の封筒が届いた。それは、弦への「宣戦布告」だった。
【判定:C】 要再検査・生活習慣の改善。血圧および肝機能数値に注意。
その紙を見た瞬間、陽菜の目の色が変わった。
「……決めた。弦ちゃん、今日から『夕凪』は健康増進モードに突入します!」
「はぁ? 何を勝手な……」
「黙りなさい! このままやと、弦ちゃんが『凪』になる前に『嵐』で倒れてまうわ! おっちゃん(正蔵)も言うてたで、『弦の不摂生は湊家の呪いや』って!」
こうして、弦の地獄の十日間が幕を開けた。
「……なんや、これ。茶碗の中、草しか入ってへんぞ」
翌朝、弦の前に出されたのは、いつもの厚切りバタートーストではなく、山盛りの生野菜と、味のしないオートミールだった。
「草やない、食物繊維や! 血管を掃除せなあかんねん。あと、今日のコーヒーは……はい、これ」
陽菜が差し出したのは、いつもの芳醇な夕凪ブレンドではなく、薄い、あまりにも薄い「タンポポコーヒー」だった。
「…………」
弦が一口飲み、即座に絶叫した。
「こんなもん泥水や!! 俺の舌を殺す気か! コーヒー屋にコーヒー飲むな言うのは、魚に泳ぐな言うのと一緒やぞ!!」
「やかましい! 再検査までの一週間、カフェインと塩分と脂質は一切禁止! これを破ったら、店のミル、全部隠すからね!」
陽菜の目は本気だった。さらに、陽菜のスパルタは店内のメニューにまで及んだ。常連客が「いつものナポリタン!」と注文しても、陽菜は「今日は『こんにゃく麺の減塩トマト煮』しかないで!」と笑顔で言い放つ。
「おい、陽菜……。客が減るやないか」
弦が青白い顔で忠告するが、陽菜は止まらない。
「ええねん。商店街のみんなも最近太りすぎや。夕凪が、この街の健康を守るんや!」
店内は、いつもの活気を失い、代わりに「もきゅ、もきゅ」というこんにゃくを噛む虚しい音だけが響くようになった。
三日目。ついに弦の禁断症状がピークに達した。
夜中、陽菜が眠ったのを見計らい、弦はフラフラとカウンターへ忍び寄った。
「……一杯だけ。……一口だけでええ、本物のエスプレッソを……」
震える手でミルに手をかけた瞬間。
パッ! と店の電気がついた。そこには、般若のような顔をした陽菜が、すりこぎ棒を持って立っていた。
「……弦ちゃん。今、何しようとしたん?」
「……い、いや、これは……ミルの掃除を……」
「嘘つき!! 鼻の下にコーヒー豆の粉がついてるわ! 没収! 明日の朝まで、弦ちゃんは水しか飲んだらあきません!」
「……鬼! 悪魔! 看板娘の皮を被った栄養士!!」
「なんとでも言いなさい! 私はあんたに、細く長く、へんこつ店主を続けてほしいだけなんやから!」
その言葉に、弦は一瞬だけ口を閉ざした。陽菜の目には、怒りだけでなく、真剣な「不安」が混じっていたからだ。心臓を悪くした父親、正蔵を見てきた陽菜にとって、弦の健康数値は、笑い事では済まない恐怖なのだ。
五日目。夕凪に一人の客が現れた。商店街の外れに新しく診療所を開いた、謎の漢方医・リン先生だ。彼は陽菜の「健康メニュー」を一口食べると、フンと鼻で笑った。
「……陽菜さん。これは『健康』じゃない。ただの『我慢』だ」
「えっ、どういうことですか? 塩分も脂質も抜いてるのに!」
リン先生は、カウンターで死に体になっている弦を指差した。
「見てごらん、彼の『気』が死んでいる。美味しいと思わないものを無理に詰め込むのは、体に毒を溜めるのと同じだ。心と体は繋がっているんだよ」
リン先生は弦の前に、小さな瓶に入った黒い粉を置いた。
「これは、心臓を落ち着かせる生薬だ。これを、いつものコーヒーにほんの少し混ぜて淹れなさい。苦味が深くなり、体温を上げる効果がある」
そして、陽菜にもこう言った。
「減塩も大事だが、出汁を極めれば塩は最小限で済む。……陽菜さん、あんたの料理の根っこは『愛情』だろう? 『制限』を料理にするな」
陽菜は、ハッとした。自分は、弦を助けたい一心で、彼から一番の楽しみを奪っていたことに気づいたのだ。
再検査の前夜。陽菜は、厨房で一人、黙々と「究極のナポリタン」を作っていた。
麺はこんにゃくではなく、しっかりとコシのあるアルデンテ。ただし、塩は一切使わない。代わりに、昆布と椎茸から贅沢に取った濃厚な出汁と、完熟トマトの酸味、そして炒めた玉ねぎの甘みだけで味を構成する。油もバターではなく、良質なオリーブオイルを最小限に。
「……弦ちゃん。食べて。これが、私の今の精一杯や」
差し出されたナポリタンは、いつもより赤みが深く、芳醇な香りがした。弦は無言でフォークを動かした。
「…………ッ」
一口食べた瞬間、弦の目から、一筋の涙が溢れた。
「……味がないんか? やっぱり不味い?」
陽菜が不安そうに覗き込む。
「……アホ。……味が濃いんや。……塩気はないのに、お前の……この街の味が、喉の奥まで刺さるわ」
弦は、皿を舐めるようにして完食した。そして、リン先生にもらった生薬を混ぜた、最高の一杯を淹れた。それは、苦味の中に薬草の爽やかさが混じった、新しい「夕凪」の味だった。
「……陽菜。……悪かったな。……明日、いい結果持って帰るわ」
「……うん。……当たり前や、私の管理下に置いてたんやから!」
再検査の結果。弦の数値は、見事に「正常範囲内」へと戻っていた。
「よっしゃあああ! 完全勝利や!!」
商店街の真ん中で、陽菜が結果を掲げて叫ぶ。茂雄や源さんたちも「おー、弦! 長生きしろよ!」と背中を叩く。
店に戻った弦は、まず一番に、封印されていたバターを手に取った。
「……よし。今日からナポリタン、復活や。ただし」
弦は、陽菜の頭をポンと叩いた。
「……お前のあの『出汁の魔法』、あれは隠し味として残しとけ。……あっちの方が、コーヒーに合うわ」
「えへへ、わかってるって! ……その代わり、弦ちゃん。毎日一回は、一緒に商店街を一回りウォーキングすること! これ、新しい夕凪のルールやで!」
「……なんで俺が、お前と手ぇ繋いで歩かなあかんねん」
「繋ぐなんて言うてへんやん! 意識しすぎや、へんこつ!」
秋の爽やかな風が、夕凪の扉から吹き抜ける。
あかね商店街、喫茶「夕凪」。
数値には出ない「幸せ」という栄養素をたっぷり含んで。二人の騒がしくも健やかな日常は、これからもずっと、続いていく。
(第十八話 了)




