琥珀色のキャンバスと、消えない夕陽
九月に入り、あかね商店街の店先には、梨や葡萄、それに少し早松茸などが並び始めた。喫茶「夕凪」でも、陽菜が「秋と言えば芸術やん!」と息巻いて、店内に謎のオブジェ(松ぼっくりと割り箸で作ったタワー)を飾ろうとして、弦に「薪にするぞ」と一蹴されるのが朝の恒例行事となっていた。
「弦ちゃんは風情がないなぁ。見てぇな、この松ぼっくりの曲線美。これぞアヴァンギャルドやで!」
「アヴァンギャルドの意味を調べてから言え。それより、九月の限定豆『オータム・アンバー』が入った。テストショットをやるから、邪魔すんな」
弦は、秋の夕暮れを思わせる琥珀色の豆をグラインダーにかけた。夏の喧騒が去り、客足が落ち着くこの時期の「夕凪」は、弦にとって最も神経を研ぎ澄ます季節でもある。空気の乾燥具合で、抽出のスピードがわずかに変わるからだ。
そんな時だった。
カラン、コロン。
入ってきたのは、全身に絵具の飛沫が飛んだような汚れたジャンパーを着た、白髪混じりの老人だった。手には使い古されたスケッチブックと、何本もの筆が突き出たボストンバッグ。老人はふらふらとカウンターの端に座ると、消え入りそうな声で言った。
「……一番、苦いものを。……心が痺れるくらい、苦いやつをくれ」
陽菜が心配そうに顔を覗き込む。
「おっちゃん、大丈夫? 顔色、真っ白やで。うちの特製ナポリタンでも食べて、血色良くしよか?」
「……食べ物は、いらん。……描けなくなった男には、毒で十分だ」
老人はそう言って、カウンターに突っ伏した。名は、新之助。かつては「光の画家」として名を馳せたが、三年前、最愛の妻を亡くして以来、一筆も描けなくなったという「放浪の絵描き」だった。
「……苦いだけがコーヒーやない。だが、あんたにはこれが必要やな」
弦が差し出したのは、いつものカップではなく、一回り小さなデミタスカップ。中には、限界まで濃縮されたエスプレッソが、どろりと黒い光を放っていた。
新之助はそれを一気に口に含んだ。
「……ッ!!」
あまりの苦味に、老人の目がカッと見開かれる。だが、その直後、鼻の奥を抜けていったのは、どこまでも深い「陽だまり」のような甘い余韻だった。
「……なんだ、これは。……苦いのに、温かい。……まるで、あいつが最後に笑った時のような……」
新之助は震える手でスケッチブックを開いたが、白いページを前にすると、再び筆が止まってしまった。
「……ダメだ。……どうしても、あの『色』が出せない。……この店の名前、『夕凪』だろう? ……あいつが一番好きだったのは、凪いだ海に沈む、あのオレンジとも赤ともつかない、消え入りそうな瞬間の光だったんだ」
その夜、新之助は店に居座った。弦も陽菜も、なぜか彼を追い出す気にはなれなかった。閉店後、弦が明日の仕込みをし、陽菜が床を磨いていると、不意に、シャッ、シャッという音が聞こえてきた。
「……えっ、おっちゃん!? 何してんの!!」
陽菜の悲鳴に近い声に、弦が顔を上げた。そこには、夕凪の真っ白な壁――弦が「ノイズを排除するために」と、こだわり抜いて塗り直した自慢の壁に、黒いチャコールで大胆な線を引く新之助の姿があった。
「おい、ジジイ! 何をしとる!」
弦が怒鳴りながら駆け寄るが、新之助は取り憑かれたように手を動かし続けていた。
「……見える。……今、この瞬間の、このコーヒーの香りの先に……あいつが座っているのが見えるんだ……!!」
弦は、新之助の腕を掴もうとして、止まった。新之助の瞳から、ボロボロと涙が溢れていたからだ。そして、壁に描かれていたのは、単なる落書きではなかった。
それは、広大な海と、そこにぽつんと置かれた一台のテーブル。そこには、一人の女性が背を向けて座っている。まだ色はついていない。黒い線だけなのに、その女性が誰かを待ち、寂しげに、でも愛おしそうに水平線を眺めている温度が、壁から伝わってきた。
「……弦ちゃん。……これ、おっちゃんの奥さん?」
陽菜が、雑巾を握りしめたまま呟いた。
「……三年前、俺はあいつに約束したんだ。……世界で一番美しい夕陽を描いてやるって。……でも、あいつはそれを待たずに逝っちまった。……それ以来、俺の中の光は消えた。……真っ白なキャンバスが、あいつを忘れていく自分の心みたいで、怖くて描けなかったんだ」
新之助は壁に手をつき、項垂れた。
「……でも、この店のコーヒーを飲んだ時。……腹の底から、あいつの体温が蘇ってきた。……すまない、マスター。……壁は、必ず元通りにする。……ただ、今だけ、描かせてくれ。……忘れないうちに、あいつのいた場所を」
弦は、握りしめていた拳をゆっくりと解いた。そして、無言でキッチンに戻ると、冷蔵庫からいくつかの「素材」を取り出した。
「……陽菜。筆とパレット、それとバケツを持ってこい」
「えっ、弦ちゃん? 警察呼ぶんちゃうの?」
「……アホ。……画家が筆を持っとるのに、止められるか。……色が足りんのなら、俺が作ってやる」
弦が用意したのは、絵具ではなかった。それは、抽出濃度の違う数種類のコーヒー、そして陽菜が料理に使うビーツの絞り汁、ターメリックの黄色、紫芋の粉末だった。
「……これは、俺たちの『夕凪』の材料や。……保存性は保証できんが、今夜一晩の光なら、これで描けるやろ」
新之助は驚いて弦を見た。弦は、不愛想にコーヒーを一本の筆のように差し出した。
「……描け。……俺の店を汚した落とし前は、最高の絵でつけてもらわんと割に合わん」
そこから、三人の奇妙な共同作業が始まった。新之助が筆を執り、弦が「色」を調合し、陽菜が「おっちゃん、ここもっと明るい方がええんちゃう?」と茶々を入れながら、パレットを支える。
コーヒーの茶色が、セピア色の深い影を作る。ビーツの赤が、水平線の際を染める。ターメリックの黄色が、雲の間から漏れる光になる。店内には、芳醇なコーヒーの香りと、スパイスの匂い、そして新之助の荒い息遣いだけが響いていた。九月の冷たい夜風が窓から吹き込むが、壁の前だけは、真夏の夕暮れ時のような熱気に包まれていた。
明け方。最後の一筆が、海に反射する「光の粒」を描き込んだ時。そこには、喫茶店の一角とは思えない、無限に広がる琥珀色の海が完成していた。
テーブルに座る女性。その隣には、一杯のコーヒーが置かれている。そして、そのコーヒーからは、今まさに、壁を抜けて実在する「夕凪」のカウンターへと繋がっているような、不思議な湯気が立ち上っていた。
「……できた。……これだ。……あいつが見ていた、俺たちの『夕凪』だ」
新之助は、筆を置くと、そのまま床に座り込んで深く眠りについた。
陽菜と弦は、肩を並べてその壁画を見つめていた。朝日が、アーケードの隙間から差し込み、コーヒーの絵具で描かれた海を照らす。すると、絵の中の海が、まるで本当に波打っているかのようにキラキラと輝き始めた。
「……弦ちゃん。……すごいやん。……これ、消さなあかんの?」
陽菜が、少し寂しそうに尋ねる。
「……コーヒーで描いた絵は、時間が経てば褪せていく。……光と同じや。……形に残らんでも、今、俺たちの目に見えとるなら、それでええ」
弦は、眠っている新之助の上に、そっと自分のエプロンをかけた。
「……それに、この絵……。親父がこの店に付けた『夕凪』の本当の意味が、ようやくわかった気がするわ」
「え? どんな意味?」
弦は、陽菜の肩を引き寄せ、耳元で小さく囁いた。
「……荒れた海も、いつかは静まる。……大切な奴を亡くした心も、いつかは凪になる。……ここは、その凪を待つための場所やったんやな」
陽菜は、弦の手をギュッと握りしめた。
「……うん。……おっちゃんの心も、今、凪になったかな」
数時間後。目を覚ました新之助は、一言「最高の朝食を。……今度は、ナポリタンも付けてくれ」と笑って言った。彼は、すっきりとした顔で、新しいスケッチブックを買うと言って店を去っていった。去り際、彼は壁の絵を振り返らずに言った。
「……マスター。あの絵の隠し味、わかったぞ。……あれは、コーヒーの苦味じゃない。……あんたの『優しさ』だ」
新之助が去った後。夕凪の壁には、まだ微かにコーヒー色の海が残っている。それは客が来るたびに、「いい匂いのする壁ですね」と話題になった。
弦は、いつものようにカウンターに立ち、豆を挽く。
「……陽菜。……壁、いつ塗り直す?」
「えー! 嫌や! せめて、この色が消えるまでこのままでおこ? ……これ、今の夕凪の『看板』やもん」
「……勝手にしろ。……ただし、これを目当てに絵描きが押し寄せたら、お前が全部追い返せよ」
「わかってるって! ……よーし、今日も芸術的にコーヒー淹れてや、マスター!」
あかね商店街、喫茶「夕凪」。
秋の気配が深まる中。
二人の日常は、壁に残った琥珀色の光とともに、また新しい色を紡ぎ始めていた。
(第十七話 了)




