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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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静寂の三日間と、冷めない置き手紙

 八月二十日。お盆を過ぎても、大阪の空はしつこい熱気を手放そうとはしなかった。だが、喫茶「夕凪」の勝手口には、いつもとは違う「旅の空気」が漂っていた。

「……忘れ物はないか。戸締まり、火の用心。あと、変な男に声をかけられても無視せぇよ」  

 弦が腕組みをしながら、キャリーケースを引く陽菜を玄関で見送っていた。

「もう、弦ちゃんはお父さんか! 大丈夫やって、たった三日間、和歌山の実家に帰るだけやん。お母さんの初盆やし、親戚も集まるからね」  

 陽菜はいつもの明るい笑顔で、麦わら帽子を直した。

「ええか、弦ちゃん。冷蔵庫に三日分の作り置き入れといたから。チンして食べるんやで。あと、植木の水やりと、看板猫のつもりの近所のミーちゃんに餌あげるのも忘れんといて。それから、常連の源さんが来たら『最近血圧高いから、お漬物は控えめに』って伝えて……」

「わかった、わかった! 早く行け、乗り遅れるぞ。……たかが三日、俺一人でどうとでもなる」  

 弦は追い払うように手を振った。

「ふふ、そんなこと言うて。寂しくて泣かんといてや? ……じゃあ、行ってくるな!」  

 陽菜は元気よく手を振り、あかね商店街の角を曲がっていった。

 静かになった。  

 弦は一人、店内に戻る。時計の針が刻む音と、冷蔵庫の低い唸り。いつもならそこに重なるはずの、陽菜の下手な鼻歌も、トレイをぶつける音もない。

「……やっと、静かにコーヒーが淹れられるわ」  

 弦はそう呟き、深く、深く息を吐いた。


 一日目。開店準備は、驚くほどスムーズだった。陽菜がいれば

「弦ちゃん、このスプーンどこやっけ?」

「そこや言うてるやろ!」

 という無駄なラリーが十回は繰り返される。だが今日は、すべてが弦の計算通り、完璧な配置のまま進む。

 カラン、コロン。

「おはよう、マスター。……あれ、今日は陽菜ちゃんはおらんのか?」  

 一番客の茂雄が、不思議そうに店内を見渡した。

「……実家です。三日間は俺一人です」

「ほうか。……なんか、店の中が広くなったみたいやな。静かすぎて、自分の喋る声がデカく感じるわ」

 弦は黙って、いつものモーニングセットを出した。陽菜が担当していたトーストの焼き加減も、今日は弦が完璧に管理している。耳はカリッと、中はしっとり。一流のホテルで培った「完璧なトースト」だ。

「……美味い。美味いんやけどな、弦。……なんか、ちょっと『上品すぎる』わ。陽菜が焼く、あのバターがはみ出した、ちょっとガサツなパンの方が、この店のコーヒーには合う気がするなぁ」

「……黙って食え」  

 弦は不機嫌そうに答えたが、心の中で微かな違和感が芽生えていた。

 昼時になっても、店は静かだった。客は来る。注文も受ける。だが、会話が続かない。陽菜がいれば、客の愚痴を聞き、笑い飛ばし、店全体を一つの茶の間のように変えてしまう。弦一人の「夕凪」は、ただの「機能的な喫茶店」になっていた。


 二日目。夕凪のキッチンに立ち、弦は陽菜が残した「作り置き」のタッパーを開けた。そこには、少し形の悪いハンバーグと、たっぷりの中華クラゲの和え物が入っていた。

「……相変わらず、組み合わせが無茶苦茶やな」  

 弦はそれをレンジで温め、一口食べた。

「…………」  

 鼻に抜ける、ケチャップとナツメグの香り。陽菜の料理は、いつも少しだけ味が濃い。それは、力仕事をする商店街の人々や、食欲の落ちたお年寄りのことを考えての「加減」なのだ。

 ふと、タッパーの底に、小さなメモが貼ってあるのに気づいた。

『弦ちゃんへ。ちゃんと野菜も食べなあかんで。もし寂しくなったら、カウンターの裏の「秘密の箱」開けてみて。陽菜より』

「……誰が寂しくなるか、アホ」  

 弦はメモを剥がしたが、捨てることができず、ポケットに突っ込んだ。

 その日の午後、激しい夕立が降った。雨宿りに来た客たちが、手持ち無沙汰に外を眺めている。いつもなら陽菜が

「雨やから、ゆっくりしていき! 今、雨の日サービスのアメちゃん配るわ!」

 と盛り上げるところだが、弦はただ黙々とカップを磨くだけだった。

 ふと、弦はカウンターの裏にある小さな木箱を見つけた。陽菜が言っていた「秘密の箱」だ。中を開けると、そこには大量の「おみくじ」と「写真」が入っていた。

 写真は、弦がこの店に戻ってきてからのものばかりだった。豆を睨みつける弦の横顔。常連と笑う陽菜。初詣の時の、少し照れた二人の後ろ姿。おみくじには、陽菜の筆跡でこう書いてあった。

『今日の弦ちゃん、一回だけ笑った! 大吉!』

『今日の弦ちゃん、ナポリタン完食してくれた。超大吉!』

 弦の胸の奥が、熱いコーヒーを飲んだ時のように、じわじわと痺れてきた。自分が「完璧」を求めて戦っている間、陽菜は、この不器用な「夕凪」の日常を、ひとつひとつ大切に拾い集めていたのだ。

「……俺は、何を一人で格好つけとったんや」


 三日目、最終日。弦は朝から、ある「挑戦」をしていた。

 陽菜が帰ってきた時に、驚かせてやりたかった。彼女がいつも「美味しいけど、なんか難しい味がする」と言っていた自分のコーヒー。それを、陽菜が一番好きな「あの味」に近づけるための配合。

 エチオピアの華やかさと、ブラジルの重厚さ。そこに、あえて少しだけ、商店街の安売りスーパーで売っているような「親しみやすい豆」を混ぜる。理論的には「邪道」だ。だが、今の弦には、それが「正解」だと確信があった。

 夕暮れ時。あかね商店街のアーケードが、オレンジ色に染まる頃。

 カラン、コロン!

 ドアが、いつもより勢いよく開いた。

「ただいまー!! 弦ちゃん、生きてるー!? 寂しくて干からびてへん!?」

 日に焼けて、少し鼻の頭を赤くした陽菜が、転びそうな勢いで入ってきた。

「……うるさい。声がデカいんや、お前は」  

 弦は背を向けたまま答えたが、その口元は、この三日間で初めて、自然な曲線を描いていた。

「なーんや、元気そうやん! あ、和歌山のお土産、梅干しとみかんゼリーいっぱい買ってきたで! ほら、これ食べて……」

「……陽菜。座れ」  

 弦が、珍しく柔らかい声で遮った。

「え? なに、怖い顔して。やっぱり植木枯らした?」

「ええから座れ。……一杯、淹れてやる」


 弦が差し出したのは、いつもの白いカップ。陽菜がおそるおそる一口飲む。

「……あれ?」  

 陽菜が目を丸くした。

「なにこれ、弦ちゃん。いつものコーヒーより……なんか、すごく『近い』味がする」

「……近い、やと?」

「うん。……なんやろ。弦ちゃんのコーヒーって、いつもは『遠い空』を見てるみたいやけど。……今日のは、このカウンター越しに喋ってる時みたいな、あったかい味がする。……これ、好き。私、これが一番好きやわ!」

 陽菜が満面の笑みを浮かべる。弦は、その笑顔を見て、ようやく自分の三日間の「空白」が埋まっていくのを感じた。

「……三日間、静かすぎて耳鳴りがしたわ」  

 弦は、カウンターの下で陽菜の空いた手を、不器用に、でもしっかりと握った。

「陽菜。……お前がおらんと、この店のコーヒーは、ただの苦い水や」

「……弦ちゃん」  

 陽菜の瞳が、夕陽を反射して潤む。

「……もう。そんな格好ええこと言うても、明日からまた朝寝坊したるからな!」

「……それは許さん。明日から一時間繰り上げで開店や」

「えぇー!? なんでやねん!」

 店内に、いつもの「なんでやねん」と「やかましい」が響き渡る。

 あかね商店街、喫茶「夕凪」。  

 静寂よりも、孤独よりも。 二人で奏でる、少し騒がしい不協和音こそが、この街で一番美しい「凪」の音だった。


(第十六話 了)

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