紫陽花の涙と、雨上がりのダブル・エスプレッソ
六月。大阪の空は、重たい灰色に塗りつぶされていた。あかね商店街のアーケードに叩きつける雨音は、どこか遠い太鼓の音のようで、客足もまばらな喫茶「夕凪」の店内を、一層静かにさせていた。
「あー……。ジメジメするなぁ。弦ちゃん、見て。私の前髪、湿気でえらいことになってるで」
陽菜がカウンターで、くるんと跳ねた前髪を気にしながら鏡を覗き込む。
「……お前の髪なんて誰も見てない。それより、その試作品の原価計算はどうなった」
弦は不機嫌そうに、雨の日にしか使わない銅製の古いケトルを磨いていた。
「ひどいなぁ! これ、自信作やねんで。『レイニー・ハイドレンジア(紫陽花)・ソーダ』! バタフライピーの青いゼリーにレモンをかけたら、色が紫に変わるんや。雨の日でも、これ見たらパァーッと明るくなるやろ?」
「……子供騙しや。コーヒー屋なら、雨の日にしか出せない『深い苦味』で勝負しろ」
「もー、相変わらずへんこつやねんから! 美味しいだけじゃなくて、ワクワクするんが『夕凪』のいいところ……」
陽菜が言いかけたその時。
カラン、コロン。
ドアが開くと同時に、雨の匂いを切り裂くような、強烈に洗練された「香水の香り」が店内に流れ込んできた。入ってきたのは、濡れた透明な傘を畳み、折り目のついた白いトレンチコートを纏った美女だった。
その場にいた全員――と言っても、陽菜と弦、そして隅で居眠りをしていた正蔵だけだが――が、その女性の圧倒的なオーラに息を呑んだ。
「……見つけた」
女性が、真っ赤な唇をわずかに綻ばせる。その視線の先には、金縛りにあったように固まっている弦がいた。
「……加賀美、エレナ」
弦の口から漏れたのは、陽菜が今まで一度も聞いたことのない、低くて重いトーンの声だった。
「久しぶりね、弦。……相変わらず、そんな古臭い店で、不機嫌そうな顔をしてコーヒーを淹れているのね」
エレナと呼ばれた女性は、迷いのない足取りでカウンターの中央に座った。彼女が動くたびに、都会の洗練された香りが、夕凪のナポリタンの匂いを上書きしていく。
「弦ちゃん……。この人、誰?」
陽菜が、震える声を必死に抑えて尋ねる。
「……俺の、前のホテルの同僚や。……当時のチーフ・パティシエや」
弦は視線を伏せ、エレナのためにカップを選び始めた。だが、その指先がわずかに震えているのを、陽菜は見逃さなかった。
「同僚? ……それだけ?」
エレナがくすくすと笑う。
「私たちは、世界一を目指した『戦友』であり……。そして、弦が私の前から黙って消えるまでは、お互いに一番近い場所にいたはずよ? そうよね、弦?」
陽菜の胸に、冷たい氷の粒が落ちたような衝撃が走った。戦友。一番近い場所。……つまり、この人が、弦ちゃんの「過去」のすべてを知っている人。
「……何しに来たんや。ここは、あんたが来るような店やない」
弦が冷たく突き放す。
「弦、戻ってきて。……来月、ニューヨークに新しいホテルがオープンするの。そこのヘッドバリスタに、あなたを指名したわ。……こんな、油の匂いが染みついた商店街で腐っている才能じゃない。あなたは、もっと高い場所で、最高の豆を、最高の客に提供すべきよ」
エレナは、テーブルに一枚の航空券と、契約書を置いた。
「返事は、明日まで待つわ。……その『お嬢さん』と一緒にいるのもいいけれど。あなたは、本当にそれで満足なの?」
エレナは陽菜を一瞥し、憐れむような笑みを浮かべた。
「愛だけじゃ、技術は死ぬわよ。弦」
彼女はコーヒーも注文せず、嵐のように去っていった。残された店内には、場違いな香水の残香と、重たい沈黙だけが降り積もった。
その日の夜、夕凪は早めに店を閉めた。二階の住居スペース。陽菜は、自分が作った夕飯を一口も食べようとしない弦を、ただじっと見つめていた。
「……弦ちゃん。ニューヨーク、行きたいん?」
陽菜の声が、静かな部屋に響く。
「……行かん。さっきも言うたやろ」
「嘘やん。弦ちゃん、あの人が来た時から、ずっとコーヒーの道具触ってるやん。……あの人の言ったこと、気にしてるんやろ? 『技術が死ぬ』って」
陽菜は、自分の中にある「卑屈な自分」と戦っていた。自分は、弦の淹れるコーヒーが好きだ。でも、自分はコーヒーの専門的なことは何もわからない。エレナは、弦と同じ世界を見て、同じ苦しみを知っている。
(私がおるせいで、弦ちゃんは「世界」を諦めてるんかな……)
「……陽菜。お前は、俺のコーヒーをどう思とる」
不意に、弦が尋ねた。
「え……。美味しいよ。世界一、ホッとする味や」
「……『ホッとする味』か。……エレナたちは、俺のコーヒーを『完璧な芸術』と言った。一ミリの狂いもない、緊張感のある美しさ。……俺は、それを追求して、心を壊した」
弦は、自分の掌を見つめた。
「でも、この商店街に戻ってきて、お前の横でコーヒーを淹れ始めて……。俺の技術は、確かに『丸く』なった。……それをエレナは『死んだ』と言うたんやろうな」
弦は立ち上がり、窓の外の雨を見つめた。
「……明日、エレナにもう一度会う。……はっきりさせてくるわ」
翌日。雨はさらに激しさを増していた。約束の場所は、駅前の高級ホテルのラウンジ。弦は、一張羅のスーツを着て、家を出ようとしていた。
「……弦ちゃん!」
陽菜が、勝手口で弦を呼び止めた。彼女の目には、涙が溜まっていたが、その表情は毅然としていた。
「これ……持っていって」
陽菜が差し出したのは、昨日、彼女が一生懸命作っていた『レイニー・ハイドレンジア・ソーダ』を水筒に詰めたものだった。
「なんや、これ。あいつはこんなもん飲まん」 「ええねん。……これは、私の『技術』や。弦ちゃんが迷ったら、それを一口飲んで。……私が、ここで待ってるってこと、思い出して」
弦は、黙って水筒を受け取り、雨の中へと消えていった。
ホテルのラウンジ。エレナは、銀色のエスプレッソマシンを前に、弦を待っていた。
「来たわね、弦。……さあ、あなたの答えを聞かせて。……その前に、最後に一杯、私に淹れてくれる?」
弦は無言で、ラウンジのカウンターに立った。周囲には、洗練された都会のビジネスマンたちが溢れている。弦が選んだのは、ブラジルの深煎り。それを、極細に挽き、エスプレッソマシンで限界まで圧力をかけて抽出する。
出来上がったのは、漆黒のダブル・エスプレッソ。エレナがそれを一口含み、目を閉じた。
「……素晴らしいわ。……でも、弦。……少し、甘いわね。……隠し味に、何か入れた?」
「……何も入れとらん。……ただ、今の俺が一番美味いと思う温度で淹れただけや」
弦は、懐から陽菜の水筒を取り出し、その場で一口飲んだ。
口の中に広がる、ラズベリーとレモンの、どこまでも明るくて、少しだけ不格好な甘み。それは、エレナの知る「完璧な世界」には存在しない、泥臭くて、温かい味だった。
「……エレナ。あんたの言うニューヨークは、きっと素晴らしい場所やろうな。……でも、そこには『雨宿り』に来る婆さんも、前髪を気にするアホな看板娘もおらん」
弦は、航空券をエレナの前に突き返した。
「俺は、俺の技術が死ぬとは思っとらん。……俺のコーヒーは、あの商店街で、ようやく『命』が吹き込まれたんや。……完璧な芸術はいらん。俺は、誰かの『凪』になりたいんや」
エレナは、長い沈黙の後、小さくため息をついた。
「……ふふっ。……本当に、へんこつね。……でも、今のあなたの目、昔よりずっと力強いわ」
彼女はエスプレッソを飲み干し、立ち上がった。
「……分かったわ。……ニューヨークは、他の誰かに任せる。……でも、覚えておいて。……いつか、あなたのコーヒーが本当に『退屈』になったら、私がまた引きずり出しに来るわよ」
エレナは、雨上がりの午後のような爽やかな微笑みを残し、去っていった。
夕暮れ時の、あかね商店街。雲の切れ間から、オレンジ色の夕陽が差し込み、濡れたアスファルトを輝かせていた。
夕凪の店の前で、陽菜はほうきを持って、ずっと外を眺めていた。
「……あ、弦ちゃん!」
角を曲がってきた弦の姿を見つけるなり、陽菜はほうきを投げ出して駆け寄った。
「どないやった!? ニューヨークは!? あの綺麗な人とは!?」
弦は、息を切らして走ってきた陽菜を、黙って抱きしめた。
「……うわっ、弦ちゃん!? びっくりした……」
「……うるさい。……ニューヨークなんて、誰が行くか」
弦は、陽菜の肩に顔を埋めた。
「……お前のソーダ、めちゃくちゃ甘かったぞ。……あんなもん、商売になるか」
「……えへへ。……じゃあ、もっと改良せなあかんなぁ」
陽菜は、弦の背中に手を回し、幸せそうに笑った。
「弦ちゃん。……おかえり」
「……おう。……ただいま」
雨上がりの空に、大きな虹が架かっていた。あかね商店街、喫茶「夕凪」。どんなに素晴らしい世界が外にあろうとも。二人の居場所は、このケチャップの匂いと、少し「甘い」コーヒーの香りがする、この場所しかなかった。
(第十四話 了)




