五月の嵐と、嘘つきなラズベリーソーダ
五月。新緑の香りが風に乗って運ばれてくる、ゴールデンウィーク。あかね商店街は、例年以上の熱気に包まれていた。
「はい、スタンプ一丁! 毎度おおきに! あと三個でハワイ旅行の抽選やで、頑張りやー!」
陽菜の元気な声が、満席の店内に響く。
今年の商店街の目玉は、大型スタンプラリーだ。全十店舗のスタンプを集めれば、特賞「ハワイ三泊五日の旅」が当たる。商店街の予算をかなり無理して捻出した、乾坤一擲のイベントだった。
「……ハワイ、ハワイって。お前はフラダンスでも踊るつもりか」
カウンターの中で、弦が忙しくサイフォンを操りながら呆れたように言った。
「当たり前やん! 私、もう水着選んでんねんで? 弦ちゃんもアロハシャツ似合うと思うわぁ。そのへんこつな顔して、首からレイぶら下げて……ぷぷっ、想像しただけでおもろい!」
「……勝手に想像して笑うな。それより、三番テーブルのナポリタン、はよ運べ」
二人のやり取りは、付き合い始めてからも変わらない。だが、ふとした瞬間に目が合うと、弦がわずかに視線を逸らしたり、陽菜の耳が赤くなったりと、空気には微かな「甘み」が混じっていた。
しかし、その平和な空気を切り裂くように、商店街会長の茂雄が血相を変えて飛び込んできた。
「弦! 陽菜! 大変や、えらいこっちゃ!!」
「どないしたん、茂雄さん。ハワイの当選枠、倍にしたんか?」
陽菜が冗談めかして言うが、茂雄の顔は真剣そのものだった。
「……偽造や。偽造スタンプが出回っとるんや!」
茂雄がカウンターに叩きつけたのは、一枚のスタンプ台紙だった。そこには、夕凪、辰巳屋、魚源……と、各店のスタンプが並んでいる。一見すると完璧だが、弦がその台紙を手に取り、目を細めた。
「……夕凪のスタンプやな」
「せやろ? どこからどう見ても、お前の店の『帆船と夕日』のロゴや。でもな、今日の抽選所にこれを持ってきた奴が十人もおったんや。全員、ハワイ狙いの怪しい奴らやない。……中には、泣きそうな顔したガキもおった」
弦は、スタンプを指先でなぞった。そして、鼻を近づけて微かに匂いを嗅ぐ。
「……違うな」
「え? 何が違うん、弦ちゃん。私には全く同じに見えるけど」
陽菜が横から覗き込む。
「インクの『粘り』が違う。うちで使っとるインクは、俺が特別に発注した、コーヒー豆の油分をわずかに配合したセピア色や。乾いた後も、微かに深煎りの香りが残る。……だが、これはただの市販のスタンプ台の匂いや」
弦の言葉に、茂雄が絶句する。
「……お前、スタンプの匂いで偽物ってわかるんか。相変わらず変態的な感覚やな……」
「変態言うな。……問題は、誰が、何の目的でこんな精巧な偽造印を作ったかや。ハワイ旅行を奪うためだけにしては、手間がかかりすぎとる」
その時。店の隅で、ラズベリーソーダを飲んでいた一人の少年が、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。小学校高学年くらいの、少し大人びた表情をした少年――タケルだ。
タケルは震える手でスタンプ台紙を握りしめ、出口に向かって駆け出した。
「あ、タケル君! どこ行くん!」
陽菜の声も聞かず、少年は商店街の人混みへと消えていった。
「……追いかけるぞ、陽菜」
弦はエプロンを脱ぎ捨て、勝手口へ向かった。
「えっ、店はどうするん! 正蔵おっちゃん今寝てるで!」
「親父を叩き起こせ。あいつ、仮病でサボっとるだけや。……あのガキの目、昨日九条が見せた『迷い』と同じやった」
陽菜は急いで二階へ駆け上がり、正蔵を「おっちゃん、出番や!」と無理やり厨房へ押し込むと、弦の後を追った。五月の風が吹き抜ける商店街の裏路地。タケルは、空き店舗が並ぶ寂れた一角のゴミ捨て場に座り込んでいた。
「……タケル君」
陽菜が優しく声をかける。タケルはビクッと肩を震わせ、台紙を背後に隠した。
「……お兄ちゃんたちの言う通りだった。僕、悪いことしたんだ……。お母さんをハワイに連れていってあげたかっただけなのに……」
タケルの話は、こうだった。数日前、公園で遊んでいたタケルに、二人の「親切なお兄さん」が声をかけてきた。
『スタンプを集めるのは大変だろう? 魔法のハンコを貸してあげるよ。これでスタンプを埋めれば、お母さんをハワイに連れていける。余った台紙は、友達にも分けてあげなよ』
「お兄さんたちは、僕に言ったんだ。『これは商店街を盛り上げるための特別なルールなんだよ』って……」
「……その『お兄さん』たちは、今どこにおる」
弦が冷たく、低い声で尋ねた。
「……あそこの、古いビルの中。スタンプをもっと作ってるって……」
弦の目が、鋭く細められた。単なるハワイ旅行狙いではない。偽造スタンプを子供たちに配り、抽選所で「不正」を発覚させる。そうすることで、商店街のイベントの信頼を失墜させ、再開発を強行しようとする勢力の嫌がらせ――九条が去った後も残っていた、利権の残党たちの仕業だ。
古い雑居ビルの一室。中では、安っぽいスーツを着た二人の男が、大量の偽造スタンプを機械で押していた。
「ひひっ、これで明日の抽選所は大混乱だ。商店街の信頼はガタ落ち。そうなれば、あんなボロいアーケード、一気に取り壊せるぜ」
バタン!!
ドアが勢いよく蹴り開けられた。そこに立っていたのは、逆光を背負った弦と、フライパン(なぜか持ってきた)を手にした陽菜だった。
「……おい。うちのロゴを勝手に使うなら、ライセンス料は高いぞ」
弦がゆっくりと部屋に入っていく。
「なんだテメェ、喫茶店のマスターか? 引っ込んでろ、これはビジネスだ!」
男の一人がナイフを取り出し、弦に突きつけた。
陽菜が悲鳴を上げそうになった、その瞬間。
弦は電光石火の動きで男の手首を掴み、その指の関節をわずかに捻り上げた。
「……あがっ、痛ててて!!」
「……俺はな、毎日五百度を超える熱いサイフォンと格闘しとる。指先の感覚と熱さへの耐性は、そこらのゴロツキとは違うんや」
弦の瞳には、冷徹な殺気が宿っていた。
「……それと、一つ教えてやる。お前らのインク……安物のラズベリーの香料を混ぜただろう。タケルのソーダの匂いと同じや。……コーヒーの香りを汚した罪、きっちり償ってもらうぞ」
そこへ、茂雄率いる商店街の若衆たちが「おらぁぁ!」となだれ込んできた。男たちはあっという間に取り押さえられ、警察へと連行されていった。
事件解決後、夕暮れの「夕凪」。タケルはカウンターで、弦が淹れた「特製ココア」を飲んでいた。
「……ごめんなさい、マスター。僕、お母さんが毎日パートで疲れてるから、喜ばせたくて」
タケルが俯いて謝る。
「……ハワイなんて行かなくても、お母さんはお前の顔を見てるのが一番の休憩なんや。……でもな」
弦は、タケルの前に一枚の新しい、真っ白なスタンプ台紙を置いた。
「これに、うちの『本物』を押してやる。……あと九個は、自分の足で集めてこい。ズルして手に入れたハワイより、お前が歩いて集めた商店街のスタンプの方が、お母さんは嬉しいはずや」
弦は、自分の宝物である特製のセピアインクで、丁寧に帆船のマークを押した。ふわっと、温かいコーヒーの香りが漂う。
「……ありがとうございます! 僕、頑張る!」
タケルは目を輝かせ、元気に店を飛び出していった。
夜。片付けを終えた「夕凪」の屋上。ここは、弦の自宅から繋がっている、小さなベランダのようなスペースだ。
二人は、茂雄からもらった「ハワイの地ビール」を片手に、夜風に吹かれていた。
「……はぁー。今日は疲れたけど、ええことしたなぁ」
陽菜がビールを飲み干し、プハーと息を吐く。
「弦ちゃん、最後にかっこいいこと言うてたやん。『お母さんはお前の顔を見てるのが一番の休憩』って。……それ、私のことも入ってる?」
弦はビール瓶を傾けたまま、沈黙した。夜空には、五月の月が綺麗に浮かんでいる。
「……知らん。俺は、お前の顔を見ると仕事が増えると思っとるだけや」
「またそんなこと言うー! ほんま、素直やないなぁ」
陽菜が笑いながら弦の肩に頭を乗せる。いつもなら「重い」と突き放す弦が、今日は黙ってその重みを受け止めていた。
「……陽菜」
「ん?」
「ハワイには、行けんかったな。……抽選、結局外れたし」
商店街の抽選の結果、特賞を当てたのは、皮肉にも毎年ハワイに行っているはずの旅行代理店のオヤジだった。
「ええよ、そんなん。ハワイの海より、ここの夕焼けの方が綺麗やもん。……それに」
陽菜は弦の手をギュッと握りしめた。
「弦ちゃんの淹れるコーヒーがあれば、どこだって最高のリゾートやしな」
弦は、空いた方の手で陽菜の腰を引き寄せた。そして、ビールの苦味と、五月の夜風の匂いの中で。二人は、誰にも邪魔されない、自分たちだけの「凪」の時間を、いつまでも共有していた。
(第十三話 了)




