孤高のコンサルタントと、春一番のバタートースト
四月。あかね商店街の入り口にあるアーケードには、「祝・入学」「新生活応援セール」の文字が躍る。桜の花びらが風に乗って店内にまで舞い込む、穏やかな午後のことだった。
「……弦ちゃん、見て。あの人、もう一時間もあんな感じやで」
陽菜がカウンター越しに、店の片隅の席を顎でしゃくった。
そこに座っているのは、この界隈では見かけない、パリッとした三つ揃えのスリーピーススーツを纏った男だった。年齢は四十前後だろうか。縁なしの眼鏡の奥にある瞳は冷徹で、テーブルの上には最新型の薄いノートパソコンが広げられている。男は、一時間前に注文した「夕凪ブレンド」を、一口飲んでは何かをキーボードで叩き、また一口飲んではストップウォッチを確認するという、およそ喫茶店には似つかわしくない行動を繰り返していた。
「……放っておけ。仕事の邪魔をするな」
弦は淡々とカップを拭いていたが、その視線は鋭く男の手元を追っていた。プロにはわかる。あの男が放っているのは、ただのビジネスマンのそれではない。「品定め」をする者の殺気だ。
カラン、コロン。
「あ、九条様。お疲れ様です」
入ってきたのは、駅前に新しく建設中の大型商業ビルの関係者らしき若い男だった。彼はスーツの男――九条に深々と頭を下げた。
「九条さん。例の件、どうされますか? このエリアの個人店、やはり『再開発の足枷』になりますかね?」
店内に、ヒヤリとした緊張が走った。陽菜の手が止まる。弦の眉間に、深い溝が刻まれた。
九条と呼ばれた男は、パソコンから目を離さず、氷のように冷たい声で答えた。
「効率が悪すぎる。コーヒー一杯に三分。客との無駄な会話に五分。……この店は、経済の合理性から最も遠い場所にある。ただの『思い出という名のゴミ溜め』だ」
「……なんやて、この眼鏡……!!」
陽菜が今にもカウンターを飛び越えそうな勢いで身を乗り出した。それを、弦が片手で制止する。
「……九条、と言ったか。あんたの言う『合理性』とやらに興味はないが、うちの店をゴミ溜め呼ばわりされて、黙って帰すわけにはいかんな」
弦がカウンター越しに九条を射抜く。
「……ほう。元・五つ星ホテルのヘッドバリスタが、こんな場末で牙を剥くか」
九条は初めて顔を上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。
「湊弦。君の噂は知っている。完璧な技術を持ちながら、精神を病んでドロップアウトした敗北者……。その君が、この『非効率の極み』のような店で何を守っているのか、見極めに来たのだがね」
九条は立ち上がり、一枚の名刺をカウンターに置いた。そこには『経営コンサルタント・九条理一』の名と、国内最大手のデベロッパーのロゴがあった。
「来週、この商店街の裏手に、私がプロデュースした最新のオートメーションカフェ『スマート・ビーンズ』がオープンする。そこでは、AIが完璧な温度と速度で、君の三倍の速さでコーヒーを出す。……この店に、生き残る道などない」
九条はそれだけ言うと、まだ半分残っているコーヒーに見向きもせず、颯爽と店を出て行った。
「……な、なんなんあいつ! めっちゃ腹立つ! せっかく弦ちゃんが淹れたコーヒー残して!」
陽菜が顔を真っ赤にして怒るが、弦は無言で九条が残したカップを手に取った。
コーヒーはもう、完全に冷めていた。弦はそれを一口含み、そして、流しに捨てた。
「……冷めても雑味が出んように淹れたはずやが。あの男には、温度計の数字しか見えとらんらしい」
翌日から、あかね商店街はパニックに陥った。駅前にオープンした『スマート・ビーンズ』は、注文から決済まで全てスマホ完結。店内は無機質で清潔なシルバーで統一され、ロボットアームが鮮やかにコーヒーを淹れる様子が話題となり、若者たちがこぞって行列を作った。
「あかんわ、弦ちゃん。うちの店、今日まだ客三人やで……」
陽菜がガランとした店内で、寂しそうにテーブルを拭く。
いつもなら「コーヒーの匂いがせん!」と怒鳴り込んでくる茂雄も、今日は「あっちの店、コーヒー一杯二百円やて。勝負にならんで……」
と肩を落としていた。
そんな時だった。
カラン、コロン。
現れたのは、あかね商店街の最長老、しづ婆さん(八十二歳)だった。彼女はなぜか半べそをかき、震える手でスマホを握りしめている。
「陽菜ちゃん、助けてぇな……。孫に誘われて、あの新しいお店に行ってみたんやけど。何をどう押してもコーヒーが出てけぇへんのや。機械が喋るばっかりで、私の言うこと全然聞いてくれへん……。情けなくて、涙が出てきてしもて……」
陽菜は慌ててしづ婆さんを椅子に座らせ、その背中をさすった。
「大丈夫やで、しづさん。あんなん、ただの鉄の塊や。気にせんでええ!」
陽菜はチラリと弦を見た。弦は黙って、一番厚切りの食パンを取り出した。
「陽菜。……最高級のバターを、いつもの二倍用意しろ」
「えっ、弦ちゃん?」
「……『合理性』では絶対に作れんもん、見せてやる」
十分後。しづ婆さんの前に、一枚のトーストと、一杯のカプチーノが置かれた。
そのトーストは、ただのパンではなかった。表面は黄金色に、これ以上ないほど均一に焼かれ、その上には溶け出したバターが「湖」のように溢れている。パンの耳はカリッと、中は赤ちゃんの肌のようにふわふわ。さらに、隠し味に陽菜が昨夜から煮込んでいた「春イチゴの自家製ジャム」が添えられていた。
「……ほら、しづさん。これ食べて元気出し。これはな、機械には絶対真似できん『火加減』で焼いたんやで」
陽菜が優しく微笑む。
しづ婆さんが震える手でパンを口に運ぶ。
「……あぁ……。あったかい。……美味しいなぁ……」
一口ごとに、彼女のこわばった顔が解けていく。
そこへ、まるで狙い澄ましたかのように、九条が入ってきた。彼は店内の閑散とした様子を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「言ったはずだ。時代は変わった。……おや、まだそんな古臭いトーストを焼いているのか?」
弦は、九条の前に無言で同じトーストと、一杯のコーヒーをドンと置いた。
「……これは注文してないが」
「……金はいらん。食え。食ってから、この店をゴミ溜めと呼ぶか決めろ」
弦の目は、かつてコンクールで見せたどのバリスタよりも熱く燃えていた。
九条は不快そうに眉を寄せたが、弦の気迫に押され、一口トーストを口にした。
「…………ッ!!」
瞬間、九条の動きが止まった。
(なんだ、このテクスチャは……。計算上の焼き時間ではない。パンの水分量を見極め、炭火の遠赤外線を……いや、それだけじゃない)
さらに、弦が淹れたコーヒー。それは、九条が数日前に「冷めている」と切り捨てたあの豆と同じものだった。だが、今日の味は、あの時とは全く違う。
身体の芯を温めるような、優しく、それでいて力強い苦味。九条は、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
「……どうした、エリートコンサルタントさん」
陽菜が腰に手を当てて言う。
「あんたのAIはな、しづさんが悲しくて手が震えてること、わかってくれたか? あの鉄の塊は、しづさんに『今日は特別にバター多めにしといたで』って言うてくれたか?」
九条は沈黙した。彼の脳内にある膨大なデータが、この一杯のコーヒーとトーストの前に、音を立てて崩れ去っていく。
「……君たちは、正気じゃない」
九条はポツリと漏らした。
「原価率も、回転率も、全て無視している。こんな経営、一ヶ月も持たないはずだ」
「……ああ、正気やないな」
弦が、陽菜の肩を抱き寄せた。
「でもな。……この街には、『非合理な優しさ』を必要としてる奴が五万といる。俺は、その一人ひとりの『凪』になるために、ここに帰ってきたんや。……数字しか見えんあんたには、一生わからん味やろうがな」
九条は、残りのトーストをゆっくりと完食した。そして、テーブルに千円札を一枚置いた。
「……私の負けだ。スマート・ビーンズには、これほどの熱量は出せない」
九条は名刺を破り捨て、少しだけ憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。
「……また、来る。次は、パソコンなしで。……その不揃いな、でも温かいコーヒーを飲みに」
九条は背筋を伸ばし、颯爽と店を出て行った。その背中に、陽菜が「ありがとうございましたー!」と、商店街じゅうに響くような声で叫んだ。
夕暮れ時。客足が少し戻り、いつもの騒がしい「夕凪」に戻った店内で。
「……弦ちゃん、すごかったなぁ。あの眼鏡、最後ちょっと泣きそうやったで」
陽菜がカウンターで、余ったイチゴジャムを舐めながら言う。
「……フン。単に腹が減ってただけやろ」
弦はいつもの無愛想に戻っていたが、その目はどこか満足げだった。
「でもさ……」
陽菜が、弦の袖をクイッと引いた。
「『俺は、その一人ひとりの凪になるために帰ってきた』……って。あの時の弦ちゃん、めっちゃかっこよかった。……私のことも、ちゃんと『凪』にしてくれてる?」
弦は手を止め、沈む夕日に照らされた陽菜の横顔を見た。そして、誰にも見えないカウンターの下で、陽菜の手をそっと握りしめた。
「……お前は、凪どころか、毎日俺の心に嵐を起こしとるわ」
「えぇー!? それどういう意味よ!」
「……言葉通りの意味や、アホ」
弦は陽菜の手を引いて、そのまま自分の唇を、彼女の額にそっと落とした。一瞬の、静かな接触。店の外では、また春の嵐が吹き荒れているけれど。
あかね商店街、喫茶「夕凪」。二人の恋と、この街の日常は。 数字には決して現れない、最高の隠し味を加えながら、これからも続いていく。
(第十二話 了)




