春の噂と、恋するカプチーノの包囲網
三月。あかね商店街の入り口にある大きな桜の木が、ピンク色の蕾を膨らませ始めた頃。 喫茶「夕凪」の平和は、一本の電話によって破られた。
「……え、美咲ちゃん? 卒業式の後に店に来るって? うん、わかった。特製ケーキ作って待ってるな!」
陽菜が嬉しそうに受話器を置く。その様子を、カウンターの奥でコーヒーミルを回していた弦が、これでもかと眉間にシワを寄せて見ていた。
「おい。美咲の奴、進路はどうしたんや。八百屋を継ぐのか、東京の大学に行くのか、まだ決めとらんのやろ」
「それが、今日決めるんやって。最後に弦ちゃんのコーヒー飲んで、シャキッとしたいんやて。ええことやんか」
「……フン。プレッシャーなだけやろ」
弦はぶっきらぼうに答えたが、その手元はいつもより丁寧だった。しかし、今日の「夕凪」にはもう一つ、不穏な空気が漂っていた。
カラン、コロン。
「……おーい。弦。陽菜。ちょっとツラ貸せや」
入ってきたのは、和菓子屋の茂雄を筆頭に、乾物屋の源さん、電気屋のトメさんという、商店街の「お節介三銃士」だった。彼らはなぜか全員、葬式のような険しい顔をして、カウンターの一等席を占領した。
「……なんや、茂雄さん。今日は定例会か? 注文決まってへんなら帰れ」
弦が冷たくあしらおうとすると、茂雄がドォン! とテーブルを叩いた。
「弦! お前、陽菜に手ぇ出したってのは、ほんまか!!」
店内に、一瞬の静寂。陽菜が手に持っていたトレイをガシャーンと落とし、弦が淹れようとしていたお湯を自分の手にかけそうになった。
「な、ななな、何を言うて……!!」
「隠しても無駄やぞ! 正蔵のジジイが昨日、飲み屋で『うちの息子もようやく年貢の納め時や』って、鼻の下伸ばして喋りまくっとったわ!」
「……あの、クソジジイ……!!」
弦が奥の階段(正蔵の部屋)を睨みつける。
「商店街のアイドル・陽菜を、よりによってこんな『へんこつ』に奪われるなんて、俺たちは許さんぞ! さあ、釈明しろ! 陽菜を幸せにできるんか!」
源さんが身を乗り出す。
陽菜は真っ赤になってアワアワしている。
「ち、ちゃうねん! 幸せにできるとか、そんな大層な話やなくて……えーっと、その……」
「……幸せになんて、せん」
不意に、弦が低く、落ち着いた声で言った。
「え……?」
陽菜の顔が、一瞬で青ざめる。
「……この街で、こいつと一緒に『夕凪』をやっていく。それだけや。幸せかどうかなんて、死ぬ時にこいつが決めればええ。俺が今さら言うことやない」
弦は一度も茂雄たちを見ず、ただ真っ直ぐに陽菜を見つめていた。その瞳は、いつになく真剣で、揺るぎない。
三銃士たちは、顔を見合わせた。
「……ケッ。相変わらず可愛げのない言い草やな」
茂雄がニヤリと笑う。
「合格や。弦、コーヒー出せ。お祝いやから、一番高いやつな。もちろん、お前の奢りやぞ」
「……二度と来んな、ボケ」
毒づきながらも、弦の口元はわずかに緩んでいた。
午後の三時過ぎ。商店街のオヤジたちの嵐が去った後、店に一人の少女がやってきた。制服の胸に、卒業式のコサージュをつけた美咲だった。
「こんにちは……」
いつもの元気がない。彼女はカウンターの端に座ると、卒業証書の筒を大事そうに抱えた。
「美咲ちゃん、卒業おめでとう! はい、これ、お祝いの桜シフォンケーキやで!」
陽菜が明るく声をかけるが、美咲は小さな声で「ありがとうございます」と言ったきり、シフォンケーキに手をつけようとしない。
「……どないしたん。好きな男の子と、離れ離れになるんか?」
弦がカップを磨きながら尋ねた。
「……そうじゃなくて。私、やっぱり東京のデザイン専門学校に行きたいんです。でも、お父さんが……『八百屋の娘が何がデザインや。この街で、誰がそんなもん必要としてるんや』って」
美咲の瞳に、涙が溜まる。
「私、この商店街が大好きです。でも、ここにおったら、私、ずっと『八百屋の娘』のままで……自分の人生が始まらへん気がして」
陽菜は、かける言葉が見つからなかった。自分は一度もこの街を出ようと思ったことがない。この街が全てで、この街が一番だと思っていたから。でも、外の世界を知っている弦は違った。
「……美咲。お前、デザインやって何がしたいんや」
弦が冷たく、でも確かな重みを持って問いかけた。
「……商店街を、もっと格好よくしたいんです。夕凪のメニューとか、お父さんの八百屋のポップとか……私がデザインして、もっと若い子が来る街にしたい。でも、お父さんは『そんなの遊びや』って」
「……遊びかどうかは、お前が決めることやない。客が決めることや」
弦はそう言うと、エスプレッソマシンに向かった。
シュゴオオオオ……!!
鋭い蒸気の音が店内に響く。弦は、いつもの不機嫌な顔を捨て、一人の「プロフェッショナル」の顔になっていた。
「見とけ」
弦はミルクを泡立て、カップに注いだ。真っ白なフォームミルクの上に、ピンク色のストロベリーパウダーをパラパラと振りかける。そして、ピック一本で、魔法のように絵を描き始めた。
数分後。美咲の前に置かれたのは、一杯のカプチーノだった。そこには、繊細なラテアートで「満開の桜」と、その下を歩く「小さな女の子の背中」が描かれていた。
「……わぁ」
美咲が息を呑む。
「……俺は、ホテルで世界一を目指した。でも、結局ここに戻ってきた。それは負けやない。外の世界を知ったからこそ、この街に足りんもんがわかるようになったんや」
弦は美咲の目を見つめた。
「お前がデザインを学ぶのは、街を捨てるためやない。街に『新しい風』を連れてくるためやろ。……それなら、八百屋のオヤジに何を言われようが、黙って行ってこい。その代わり、中途半端なもん作って帰ってきたら、俺がこの店からつまみ出したるわ」
美咲は、カプチーノの桜を見つめ、一気にそれを飲み干した。ストロベリーの甘みと、エスプレッソの苦味。それは、旅立ちの季節そのものの味がした。
「……私、行きます。お父さんを説得して、絶対、世界一格好いい商店街のデザイン、作ってみせます!」
美咲は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「弦さん、陽菜さん。私、頑張ってきます!」
彼女が店を飛び出していく背中は、春の陽光を浴びてキラキラと輝いていた。
「……弦ちゃん、かっこよすぎ。惚れ直したわ」
陽菜がトレイを抱えて、しみじみと言った。
「やかましい。あいつがうるさかったから、早く追い出したかっただけや」
弦は照れ隠しに激しくエスプレッソマシンを掃除し始めた。
「でもさ、弦ちゃん。美咲ちゃんが帰ってくる頃、うちら、どうなってるやろね」
陽菜がカウンターに顎を乗せて、窓の外の夕焼けを見つめる。
「商店街のオヤジたちは、もううちらのこと『夫婦』やと思ってるし。おっちゃんもあんな感じやし……。私ら、ほんまに『付き合ってる』ってことでええんかな?」
弦は掃除する手を止め、ゆっくりと陽菜の方を向いた。そして、汚れひとつない清潔なタオルで、陽菜の鼻の先に少しついていた生クリームを、優しく拭き取った。
「……お前、バレンタインに何て返事した」
「え? 『よろしゅうねマスター』……かな?」
「なら、決まっとるやろ。……俺はお前以外の従業員を雇う気はないし、お前以外の飯を食う気もない」
弦は、陽菜の耳元に顔を近づけ、周囲に聞こえないような低い声で囁いた。
「……結婚なんていう不自由な契約は、まだ先でええ。今はただ……明日の朝も、一年後の春も、お前が隣で『おはよ、弦ちゃん』って笑ってれば、それでええわ」
陽菜の胸が、ぎゅぅぅ、と音を立てる。ドラマチックな言葉ではない。でも、それは「夕凪」を愛する二人にとって、何よりも重くて温かい約束だった。
「……うん。わかった。じゃあ、明日の朝は、弦ちゃんの嫌いな『超・激熱お味噌汁』、気合い入れて作ったるからな!」
「……お前、俺が猫舌なん知ってて……!!」
「あはは! 覚悟しときや、マスター!」
カラン、コロン。
また、新しい客が入ってくる。「夕凪」の扉は、いつだって開いている。
悩みがある時も、嬉しいことがあった時も、ただ誰かの体温を感じたい時も。琥珀色のコーヒーと、ケチャップの匂い。不器用なバリスタと、太陽のような看板娘。あかね商店街の物語は、桜が散っても、夏が来ても、雪が降っても。ずっと、ずっと、続いていくのだ。
(第十一話 了)




