帰ってきた先代と、ぎくしゃくしたモーニング
二月十五日、午前七時。告白から一夜明けた「夕凪」の朝は、かつてないほど「変」だった。
「……お、おはよ、弦ちゃん」
「……おう」
陽菜が店に入るなり、二人の間に重苦しい、それでいて甘酸っぱい、何とも形容しがたい沈黙が流れる。いつもなら
「顔怖いぞへんこつ!」
「やかましいドジ!」
と応酬があるはずの朝の挨拶が、今日は互いに視線を地面に落としたまま、蚊の鳴くような声で行われた。
陽菜はエプロンを締めながら、自分の心臓の音が店内の柱時計より大きく響いているのを感じていた。
(ど、どないしよ。昨日、手繋いで……『隣におれ』って言われて……私、なんて返したっけ!? 確か『よろしゅうねマスター』とか、めちゃくちゃ格好つけたこと言った気がするー!!)
一方、カウンターの中でコーヒー豆を計量していた弦も、その手元が珍しく狂っていた。
ガシャーン!
「あ……」
弦が、よりによって最高級のブルーマウンテンを床にぶちまけた。
「弦ちゃん!? 大丈夫!?」
「……触るな! 俺が片付ける!」
陽菜が駆け寄ろうとすると、弦は弾かれたように叫んだ。その顔は、昨日のバレンタインチョコよりも赤くなっている。
「……落ち着け、俺。落ち着くんや、湊弦。これはただの日常や……」
弦が呪文のように呟きながら、震える手で豆を拾い集める。
普段なら「何やっとんねんアホ!」と突っ込むはずの陽菜も、今の弦の壊れっぷりを見て、どう声をかけていいかわからない。二十五年以上の「幼馴染」という皮を脱ぎ捨て、剥き出しの「男と女」になってしまった二人は、今、自転車の乗り方を忘れた子供のように、接し方がわからなくなっていた。
そんな「ぎくしゃくの極致」にいた二人の耳に、店の表で停まるタクシーの音が聞こえた。
バタン、というドアの閉まる音。そして、聞き慣れた、でも数ヶ月ぶりに聞く「あの音」が響く。
カツン、カツン……。
ゆっくりと、力強い杖の音。
カラン、コロン。
「……なんや。朝から景気の悪いツラしとるな、お前ら」
ドアの向こうに立っていたのは、使い込まれたハンチング帽を被り、少し痩せたが眼光だけは鋭い老人――弦の父親であり、「夕凪」の先代店主、正蔵だった。
「お、おっちゃん!?」
「親父……!? お前、退院は来週やろ!」
弦が驚いて立ち上がると、正蔵はフンと鼻を鳴らしてカウンターの端に座った。
「あんな病院のメシ、食うてられるか。あんなもんは病人の食うもんや。俺はもう、元気な隠居や」
正蔵は数ヶ月前、心臓の疾患で倒れ、長期入院を余儀なくされていた。弦がホテルを辞めて戻ってきた最大の理由が、この正蔵の不在だったのだ。
「退院の手続きもせんと勝手に出てきたんか、このクソジジイ!」
「やかましいわ。……それより、コーヒー淹れろ。お前の『ホテルのコーヒー』とやらが、この数ヶ月でどれだけ商店街に馴染んだか、見てやる」
正蔵の目は、病上がりとは思えないほど鋭く、弦の手元を射抜いた。店内に、一瞬にしてピンと張り詰めた空気が流れる。陽菜は息を呑んで、二人の「湊」を見守った。
弦は無言で、自分の一番愛用しているサイフォンに火をつけた。相手が誰であろうと、カウンターに座ればそれは「客」だ。そして、相手が自分の師匠であり、越えるべき壁である父親なら、なおさら手は抜けない。
コポコポと沸き上がるお湯。弦の無駄のない、流れるような動作。その様子を、正蔵はじっと黙って見つめていた。
数分後。弦が静かに、正蔵の前に漆黒のコーヒーを置いた。
「……『夕凪ブレンド』や。親父のレシピを、俺なりに解釈し直した」
正蔵は震える手でカップを持ち、まず香りを嗅いだ。そして、ゆっくりと一口。
「…………」
沈黙。陽菜は心臓が口から飛び出しそうだった。
「……味は、三ツ星やな。文句のつけようがない」
正蔵がポツリと言った。弦がわずかに口角を上げる。
「だがな」
正蔵の言葉が続く。
「この店は、三ツ星を食わせる場所やない。……お前のコーヒーは、綺麗すぎるんや。隣の乾物屋の婆さんが、漬物の匂いプンプンさせて入ってこれる隙がない」
弦の表情が凍りついた。
「……隙がない、やと? 俺は、完璧な一杯を追求しとる。それがバリスタの矜持や」
「それが『ホテル』の理屈や言うてるんや」
正蔵は立ち上がり、カウンターの中へ入ろうとした。
「どけ。陽菜、お前は厨房の奥から出し汁持ってこい。……今日から俺が、この店のリハビリをやる」
「ちょ、ちょっとおっちゃん! 退院したばっかりやのに!」
陽菜の制止も聞かず、正蔵はエプロンをひったくるようにして身に纏った。
その日のランチタイムは、まさに新旧交代の「戦争」だった。
正蔵は、弦が導入した最新のコーヒーグラインダーを鼻で笑い、昔ながらの手回しミルで豆を挽き始めた。
「コーヒーってのはな、このガリガリいう音が店内に響いて、初めて客の胃袋が動くんや!」
さらに、陽菜が作ろうとしたナポリタンにもケチをつけた。
「陽菜、火が弱いわ! 商店街の男らが食うメシはな、麺に焦げ目がつくくらい焼かんと、パワーが出んのや!」
「おっちゃん、でも弦ちゃんが『繊細な味付けにしろ』って……」
「弦の言うことなんか聞くな! あいつは舌が肥えすぎて、下町の空腹さがわかってへん!」
厨房では正蔵と弦が、ことあるごとにぶつかり合った。
「その温度じゃ香りが死ぬ!」
と弦が言えば、
「香りが死ぬ前に客が飲み干すんや!」
と正蔵が返す。
二人の板挟みになった陽菜は、頭を抱えていた。
(あかん……昨日あんなにええ雰囲気やったのに、おっちゃんが帰ってきた途端、いつもの『へんこつ親子喧嘩』に逆戻りや!)
しかし、不思議なことが起きた。正蔵が厨房に立っているのを見て、常連の爺さん婆さんたちが「
おー、大将! 生きとったか!」
「やっぱりこの、ちょっと焦げたナポリタンがええねん!」
と、いつも以上に店が活気づき始めたのだ。
弦は、カウンターの隅でその光景を黙って見ていた。自分の淹れる完璧なコーヒーでは引き出せなかった、常連たちの「ガハハ」という野太い笑い声。自分の技術は、本当にこの街に合っているのだろうか。
弦の肩が、わずかに落ちた。
夜。閉店後の「夕凪」。正蔵は二階で早々に眠りにつき、一階には弦と陽菜だけが残された。
朝のぎくしゃく感は、あまりの忙しさにどこかへ消えていたが、代わりに重い空気が二人を包んでいた。
「……弦ちゃん」
陽菜が、洗い物をしている弦の背中に声をかける。
「おっちゃんの言うこと、気にしなや。弦ちゃんのコーヒーは、この商店街の自慢なんやから。美咲ちゃんだって、タッキー君だって、弦ちゃんのコーヒーに救われたんやで」
弦は手を止め、窓に映る自分の顔を見つめた。
「……俺はな、陽菜。親父が倒れた時、この店を俺の色に染めることで、親父を安心させられると思とった」
弦の声が、少しだけ震えている。
「でも、今日わかった。俺がやってきたことは、ただの自己満足やったんかもしれん。……三ツ星の技術があっても、この街の『夕凪』を作れるのは、やっぱり親父なんや」
「そんなことない!!」
陽菜が、弦の背中に思い切り頭をぶつけた。ゴン、という鈍い音が響く。
「……痛っ! お前、何すんねん」
「弦ちゃんのバカ! 自分の価値を、おっちゃんと比べてどないすんの!」
陽菜は弦の前に回り込み、その両頬をガシッと掴んだ。
「おっちゃんのコーヒーは『過去』の夕凪や。でも、今の夕凪を守ってるのは弦ちゃんやろ! 弦ちゃんがいたから、私はここで毎日笑ってられるんや。……あんたのコーヒーが綺麗すぎるんなら、私がナポリタンのケチャップ飛ばして汚したるわ!」
陽菜のまっすぐな瞳に、弦は言葉を失った。そうだ。自分一人で「完璧」を目指す必要なんてなかったのだ。自分が繊細なコーヒーを淹れ、陽菜がガサツで温かいメシを作る。その「不揃いなマリアージュ」こそが、今のこの店の形なのだ。
「……陽菜」
「なんや」
弦は、自分の頬を掴んでいる陽菜の小さな手を、そっと上から重ねた。
「……ありがとう。お前に言われると、全部どうでもよくなってくるわ」
「ふふん、それが私の隠し味やからね!」
陽菜が勝ち誇ったように笑う。
その時。
「……おい。いつまでイチャついとるんや、お前ら」
階段の上から、眠そうな、でもしっかりとニヤけている正蔵の声が響いた。
「「!!」」
二人は弾かれたように離れた。
「お、おっちゃん!? 寝てたんちゃうの!」
「喉が渇いて起きたら、えらいラブシーンの真っ最中やないか。……弦」
正蔵が階段をゆっくりと降りてくる。その顔には、先ほどの厳しさはなく、一人の父親としての穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「お前のコーヒー、確かに綺麗すぎるが……悪くない。……特に、陽菜のシチューと一緒に飲んだ時は、俺の時代にはなかった『新しい凪』がしとったわ。自信持て」
弦は、驚いて父親を見た。
「親父……」
「それと陽菜。このへんこつ息子を、これからもよろしく頼むわ。こいつ、おらんと何もできんからな」
「もう、おっちゃん! そんなん、言われんでもわかってるって!」
陽菜が顔を真っ赤にしながら、でも誇らしげに胸を張った。
深夜。正蔵が今度こそ眠りにつき、店内の電気を消そうとした時。
「……陽菜」
弦が呼び止めた。
「なんや、また説教?」
「いや。……昨日、返事聞いてなかったなと思って」
暗い店内で、月明かりだけが二人を照らす。弦は、陽菜の腰を引き寄せ、その額に優しく自分の額を押し当てた。
「俺の隣におれ、言うたんや。……ええんか?」
陽菜は、弦のシャツの裾をギュッと握りしめ、顔を埋めた。
「……もう、何回言わすんよ。へんこつの隣におれるのは、世界中で私だけや。……覚悟しときや、マスター」
柱時計がボーンと、一日の終わりと、新しい二人の始まりを告げた。あかね商店街、喫茶「夕凪」。頑固な先代と、三ツ星の息子、そして太陽のような幼馴染。三人の騒がしくも温かい日常は、春の足音とともに、さらに深く、色鮮やかに動き出していく。
(第十話 了)




