消えたラブレターと苦いキリマンジャロ
カラン、コロン。
ドアベルが鳴った瞬間、その音がやけに頼りなく聞こえたのは、湿気の多い大阪の夏のせいか、それとも店主の機嫌のせいか。
大阪市南部、あかね商店街。路地裏にひっそりと佇む赤レンガ造りの喫茶店「夕凪」。店内には、深煎りのコーヒー豆が爆ぜる芳ばしい香りと、なぜかカツオと昆布の合わせ出汁の食欲をそそる匂いが、複雑かつ絶妙なバランスで混在していた。
「……陽菜、お前また出汁の量、間違えたやろ」
カウンターの中で、サイフォンを見つめる男が低い声で言った。湊 弦、三十二歳。整った顔立ちをしているが、眉間には常に不機嫌そうなシワが刻まれている。白シャツに黒のサロンエプロンというバリスタの正装が似合うが、その眼光は客商売のそれではない。鋭すぎるのだ。
「えー? 何言うてんのん、弦ちゃん。これが黄金比やがな。あんたのコーヒーの邪魔せえへんギリギリを攻めてんねん」
カウンターの向こうから、底抜けに明るい声が返ってくる。向井 陽菜、同じく三十二歳。ふわふわとしたパーマヘアに、少し派手なヒョウ柄のスカーフを首に巻いている。「大阪のオカン」予備軍としてのポテンシャルを遺憾なく発揮している幼馴染だ。
「ええか、うちは喫茶店や。うどん屋ちゃうぞ」
「わかってるって。けどな、近所のおっちゃんらは、あんたの気取ったコーヒーより、うちの『特製だし巻きサンド』目当てなんよ。現実見よし、現実」
「やかましいわ。さっさとテーブル拭け」
弦が布巾を投げると、陽菜はそれをナイスキャッチし、ケラケラと笑いながら客席へ向かった。飴色に磨き上げられたウッドカウンター、ふかふかの赤いビロードの椅子。壁にかかった古時計が、「ボーン」と三時を告げた。実際の時刻は三時五分だ。この五分のズレを直そうとしないのも、この店が「昭和」で止まっている証拠だった。
平日の午後三時。客はまばらだ。常連の爺さんがスポーツ新聞を広げているだけで、平和そのものだった。――その少女が飛び込んでくるまでは。
バンッ!
勢いよくドアが開いた。カランコロン、とベルが悲鳴を上げる。
「げ、弦さん! 陽菜さん! どうしよ!」
飛び込んできたのは、近所の高校に通う女子高生、美咲だった。いつもなら「学校だる〜」と言いながらキャラメルマキアートを頼む彼女が、今日は顔面蒼白で、肩で息をしている。
「どないしたん、美咲ちゃん! 息上がってるで!」
陽菜がすかさず駆け寄り、背中をさする。
「な、無いんよ……!」
「何が?」
「ラブレター! 昨日ここで書いたラブレターが、無くなってん!」
店内が一瞬、静まり返った。スポーツ新聞を読んでいた爺さんが、耳をピクリと動かす。
「ラブレター?」
弦がカウンターの中から、呆れたように声をかけた。
「いまどきLINEやなくて手紙か。昭和かお前は」
「うるさいなぁ! 一生のお願いやから探させて! 昨日、この店で書いて、封筒に入れて……それから記憶がないねん!」
美咲は半泣きになりながら、昨日自分が座っていたという一番奥のテーブル席へ駆け出した。椅子の下、テーブルの裏、クッションの隙間。陽菜も一緒になって這いつくばる。
「あらへんなぁ。ゴキブリホイホイしか出てこえへんわ」
「陽菜さん、そんなん言わんといて! ほんまに大事なやつやねん!」
「わかってる、わかってるで。相手は誰なん? やっぱりサッカー部の佐藤くん?」
「……うん。今日、部活終わりに渡そうと思ってカバン見たら、ないねん……」
美咲はその場にへたり込んだ。本気の涙目だ。これはただの紛失物騒動ではない。「青春の一大事」である。
弦はサイフォンの火を止め、ため息をついた。面倒くさい。実に関わりたくない。だが、幼馴染の陽菜が、助けを求めるような目でこちらを見ている。 (……チッ。世話が焼ける)
「おい、美咲」
弦がカウンター越しに声をかけた。
「お前、昨日の何時ごろ来た?」
「えっと、夕方の五時くらい。部活サボって……」
「どこに座った?」
「あそこの、一番奥の席」
「何を飲んだ?」
美咲はきょとんとした。
「え? 関係あるん?」
「ええから答えろ。客の記憶を辿るには、味覚から攻めるのが一番や」
美咲は少し考え込み、小さな声で言った。
「……キリマンジャロ」
「は?」
素っ頓狂な声を上げたのは、陽菜だった。
「美咲ちゃん、あんたコーヒー飲めたっけ? いつも『苦いの無理〜』言うて、砂糖ドバドバのミルクしか飲まんやん」
「昨日は……なんとなく、気合い入れようと思ってん。ブラックで、一番酸っぱいやつ頼んでん」
弦の目が、すっと細められた。その鋭い視線が、美咲の「座り方」と、握りしめられた「拳」に向けられる。弦には特技がある。客の足音、座り方、そして注文の内容から、その人間の心理状態を読み解く観察眼だ。
(普段は甘いものしか飲まない女子高生が、わざわざ酸味の強いキリマンジャロのブラックを頼む。……気合いを入れるため? いや、違うな)
弦は美咲の昨日座っていた席へゆっくりと歩み寄った。そこは、店内で最も死角になる席だ。壁には本棚があり、古い漫画や小説が並んでいる。
「美咲。お前、昨日は誰もおらんかったか?」
「え? うん、店は空いてたし……」
「ちゃうわ。お前の心の中や。誰に見られるのが怖かった?」
弦の問いかけに、美咲の肩がビクリと震えた。
「な、何言うてんの……」
「昨日、お前が帰った後、俺はテーブルを拭いた。忘れ物はなかった。床にも落ちてなかった。つまり、ラブレターは『落ちた』んやない。『隠れた』んや」
「隠れた?」
陽菜が首を傾げる。
「忍法か何かなん?」
「ちゃうわアホ。……美咲、昨日のキリマンジャロ、全部飲んだか?」
「……ううん。一口飲んで、残した」
「そうやろな。お前にとって、昨日のそのコーヒーはただの『苦行』やったはずや」
弦は、本棚の一角に手を伸ばした。そこには、分厚い純文学の全集が並んでいる。誰も手に取らないような、埃をかぶった太宰治の全集だ。
「告白するんが怖かったんやろ。手紙は書いた。でも、それを渡す勇気が持てんかった。キリマンジャロの酸味と苦味は、お前の『迷い』そのものやったんやないか?」
図星を突かれたのか、美咲が唇を噛む。弦の手が、『斜陽』の函を引き抜いた。
「無意識ってのは恐ろしいもんやで。自分が一番見たくないもの、あるいは一番守りたいものを、一番手の届かん場所に隠そうとする」
パラリ。
本の間から、ピンク色の封筒が滑り落ちた。
「あった……!」
美咲が叫び、陽菜が「すごーい!」と拍手する。
弦は無造作に封筒を拾い上げ、美咲に手渡そうとして――止めた。そして、カウンターへと戻っていく。
「ちょっと、弦さん! 返してよ!」
「座れ。コーヒー淹れたる」
「はあ? 今そんな場合じゃ……!」
「ええから座れ言うてるやろ。……陽菜、『あれ』作れ」
弦の低いドスの効いた声に、美咲はおとなしく席についた。陽菜はニヤリと笑い、「了解!」と親指を立てる。
静かな店内に、豆を挽く音が響く。
ガリガリガリ……というリズミカルな音。
お湯が沸くコポコポという音。
弦の所作は流れるようだ。ドリッパーにお湯を注ぐと、粉がふっくらとドーム状に膨らむ。その一連の動作を見ているだけで、美咲の呼吸が少しずつ整っていくのがわかった。
やがて、目の前に一杯のカップと、一皿のサンドイッチが置かれた。
「はい、お待ちどうさま。特製『マヨ多め厚焼きタマゴサンド』と、『夕凪ブレンド・ウィンナー仕様』やで」
陽菜が置いたサンドイッチは、湯気を立てる分厚い出汁巻き卵が挟まれ、マヨネーズが少しはみ出している。そしてコーヒーには、たっぷりの生クリームが乗っていた。
「……これ、昨日のキリマンジャロと違う」
美咲が呟く。
「当たり前や。昨日の苦い思い出なんか上書きしてまえ」
弦はぶっきらぼうに言い放ち、手についた水滴を拭った。
「それはウィンナーコーヒーや。上のクリームは甘い。でもな、飲み進めると下のコーヒーの苦味が来る。……恋なんてそんなもんやろ」
美咲は呆気にとられた顔をして、それからプッと吹き出した。
「何それ。弦さん、キャラに似合わんこと言うて」
「うるさいわ。冷めんうちに飲め」
美咲はカップに口をつけた。冷たい生クリームの甘さと、熱くて深いコーヒーの苦味が口の中で混ざり合う。
「……おいしい」
こわばっていた美咲の表情が、ふわりと緩んだ。続けてタマゴサンドを頬張る。じゅわっと溢れる出汁とマヨネーズのコク。 「……んん〜! これこれ! やっぱこれ食べな元気出えへんわ!」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「せやろ? 腹が減っては告白もできん、ってな」
食べ終える頃には、美咲の顔から蒼白さは消え、いつもの女子高生の赤みが戻っていた。弦はカウンターに置いたままだったピンクの封筒を、指先で弾いて美咲の前に滑らせた。
「ほらよ。忘れもんや」
「……ありがとう」
美咲は封筒を大切そうに胸に抱えた。
「私、無意識に隠してたんやね。渡すのが怖くて、失くしたことにして、逃げようとしてたんかな」
「知らん。心理学の先生に聞け」
弦はそっぽを向いてグラスを磨き始めた。
「でもな、逃げずに戻ってきたんはお前や。……ええ豆、使うて淹れたったんやから、結果報告くらいはしに来いよ」
それは、弦なりの最大限のエールだった。美咲はパッと顔を輝かせる。
「うん! 行ってくる! 弦さん、陽菜さん、おおきに!」
カランコロン!
入ってきた時とは違う、軽やかなベルの音を残して、美咲は夏の夕暮れの中へ駆け出していった。
「いやー、青春やねぇ」
陽菜がカウンターに肘をつき、しみじみと言う。
「弦ちゃんも、たまにはええこと言うやん。『恋はウィンナーコーヒーや』やったっけ? メモしとこ」
「やめろ。消せ。記憶から消去しろ」
弦は耳まで赤くして、必死にグラスを磨く手に力を込めた。
「素直やないなぁ。ま、あんたが美咲ちゃんの好み覚えてたんは感心したわ。昨日の残し方まで見てたんやね」
「……客の体調管理も店主の仕事や。店内で倒れられたら迷惑やからな」
「はいはい、そういうことにしておきましょ」
陽菜はニシシと笑うと、弦の隣に並び、洗い物を手伝い始めた。カチャカチャと食器が触れ合う音。二人の間には、言葉を交わさなくても通じるリズムがある。幼稚園の頃から変わらない、心地よい沈黙と距離感。
「なぁ、弦ちゃん」
「なんや」 「もし、あの子がフラれて帰ってきたら、何出したる?」
「……そん時は、とびきり甘いココアやな。マシュマロ浮かべて」
「甘ッ! あんたほんま、中身は砂糖菓子みたいやな」
「やかましいわ!」
あかね商店街に、夕焼けチャイムが鳴り響く。「夕凪」の店内は、コーヒーと出汁の匂い、そしてほんの少しの甘い余韻に包まれていた。
これが、大阪の下町にある小さな喫茶店の日常。へんこつな店主と、お節介な従業員が織りなす、なんでもない一日の終わり。
明日はまた、どんな厄介な客が、どんな「なんでやねん」な事件を持ってくるのだろうか。柱時計がボーン、と少し遅れて五時半を告げた。
(第一話 了)




