<一>
一、
弥矢子は、初めて出会った頃から、不思議なことに気がつく子だった。というか、子供はみんな、大人が気付かないようなことに気がついているということなんだろうな、と思う。そして、そうしみじみ思う側になってしまったことが残念だと感じる。あのおじさんでさえ、弥矢子を見ながら「子供のころは妖精が見えたのにな…」なんて言っていたくらいだから、きっと全世界の大人が悔しがっているに違いない。
だけど、僕は道の端に並べてあるペットボトルを不思議に思ったりしただろうか…?僕は思わず首を傾げてしまう。
「ねぇー!なんでぇー?」
横の弥矢子が手をぐいぐい引っ張ってくる。
「ええと…多分、猫よけなんじゃないかな」
「猫よけ?」
「うん。猫が家の中に入ってこないように、ああやって水をいれたペットボトルを置いてるんだよ」
そういえば、こいうい知識はどこで身につけたんだろう?
「どうして?」と弥矢子が目を丸くする。「猫、嫌いなの?」
「そうなんだろうね、きっと。」
言いながら、僕は頭の中で記憶を掘りくりかえしていた。
「じゃあ、道が猫でいっぱいになっちゃうね!」
「ええ?」
思わぬ言葉に、ついまぬけな声を出してしまう。
「だって、猫が追い出されちゃったら」
「あぁ」
そういうことか、と納得をする。よくそんな発想ができるな、と感心してしまう。倒産間際の企業に、弥矢子をアイディアマンとして採用したら、すごい大企業になるかもしれない、とまで思った。
「ねぇ?」
と弥矢子が同意を求めてきたので、
「ウーン、そういうことはないと思うよ?」
とやんわり否定したが、弥矢子は聞いていないようだった。
「そしたら、ここに溢れた猫、もらってもいいよねぇ?弥矢子、おじさんに頼んでみようっと」
まだ小学二年生で幼いためか、『弥矢子』という発音が『みゃーこ』となっていて、それこそ猫が鳴いているようでなんだか可笑しかった。
弥矢子の『どうして?』は今に始まったことではなく、世話係である僕はいつも苦しめられっぱなしだった。そもそもその世話係というのも、僕がすすんで志願したわけでもない。家事分担同様の流れで、いつの間にか決められていたことだ。掃除とゴミ出しはおじさん、洗濯とペットの世話は弥矢子の担当で、食事と洗い物と弥矢子の世話が僕。…よく考えてみたら、おじさんが一番楽じゃないか。
「おじさんももうちょっと弥矢子の面倒みてよ」
と文句を言うと、
「何を言ってるんだ。これもお前のためなんだよ」
といつものように、大人げなく言い返してきた。
「だいたいだ、子供の世話というのは、昔から、大人が成長するのに一番いい方法だと言われているんだぞ」
と指を立ててくる。
「だったらぜひ、おじさんにお勧めするよ。もう少し成長するために」
僕はたっぷりと皮肉をこめて言った。
「何を言うんだ。この成長期の時期にお前に成長する機会を与えてやってるのに。お前、そのままでいいのか?その、百五十センチにも満たない体のままで」
「余計なお世話だよ。それに、そういう意味での成長とは関係ないでしょ」
「いや、あるぞ!」
とおじさんは、一段と声を張りあげ、芝居がかって言う。
「毎日、弥矢子を背負ったりしていれば、けっこうなトレーニングになるはずだ。確か、最近そういう出産太りを解消するためのダイエットが流行っていると聞いたな」
「もういいよ、おじさんと話してると気が遠くなる。」
僕はさっさと洗い物をすませて自分の部屋に向かった。
「その言い草は何だ!」
と騒いでいる声が一階から響いてきた。
僕とおじさんは血がつながっていない。もちろん弥矢子と僕も、弥矢子とおじさんもちがつながっていない。本当の親の顔は覚えていない。物心ついたときから、僕はおじさんと一緒にいた。おじさんから、本当の親でないことを教えてもらわなかったら、たぶん僕はおじさんが父親だと信じていただろう。おじさんの中学からの友人が、「お前は橋の下で泣いてるのを拾われたんだぞ」と言っていたのも、冗談だと思っていたが、僕が四年生のときに、赤ん坊の弥矢子を拾ってきたおじさんを見て、真実だと悟った。
宿題をしようと机に向かっていると、ガラリと隣の部屋のふすまが開いて、パジャマ姿の弥矢子が目をこすりながら立っていた。右手にはお気に入りのうさぎのぬいぐるみを持っていた。
「なんだ、まだ寝てなかったのか?」
ぼくが聞くと、弥矢子は無言でこくりと頷いた。
「こわい夢みたの」
そういう弥矢子は今にも泣きそうな声だった。
「彷徨、何かお話して」
僕はやりかけた宿題を一瞥して目を閉じた。まぁ、なんとかなるだろう。弥矢子の横にしゃがみこむ。
「じゃ、何のお話がいい?」
次の日、休み時間にもの凄いスピードで宿題を終わらせていると、同級生である孝幸が話しかけてきた。
「何、お前、宿題やってんのか?」
「うん、まぁね…よし、終わった。家事とかがさ、ちょっと溜まっちゃってたもんだから」
孝幸はさらに驚きの声を出す。
「すげぇな。俺まだやってねぇし」
大変だな、じゃなくて、すげぇなと言ったことに、僕は好印象を持った。だって、『大変だな』って、人ごとっていうか、見下してるっていうか、テキトーな感じがするじゃないか。よく言われるけど。
僕は孝幸に笑いをかえした。
「それはそれですげぇ、と思うよ」
「まぁな」
孝幸は何故だか自慢げに去っていった。
その国語の授業は、そりゃもうつまらなかった。まず担当が女の新任教師のため、授業がスムーズに進まない。またそれをいいことに生徒が好き勝手やってしまって、授業自体が全く成り立っていない。
そんなこんなで、国語教師は残り五分を切ったところで、授業開始直後からずっと言おうとしていたと思われるセリフを叫んだ。
「今日はみんなにやってきてほしいことがあります!ちょ、ちょっと…静かに!!」
教室内のざわめきが、少しずつおさまる。
「みんなには作文を書いてきてもらいます」
えぇー、めんどくさ…と数人の生徒がつぶやく。
「テーマは自分の名前の由来について。お母さんやお父さんに自分の名前の由来を聞いて原稿用紙二枚以上の作文を書いてくること!週明けに提出してもらいますから、忘れないように!!以上です」
チャイムと共に去っていく国語教師。
「あの先生も言うようになったよなー」
孝幸がこっそりと耳打ちしてくる。僕はぼんやりと頷きながら、
「名前の由来かぁ」
とつぶやいた。
目の前にあるグラスに注がれたオレンジジュースの中の氷が、カラカラと音を立てて回っている。こうして出されるものが、ジュースから紅茶になったとき、人は大人になれるんだ、とおじさんが前に語っていた気がする。やっぱり僕はまだ子供なのか。もうワサビだって食べられるのに。
「悪い、彷徨。待たせたな」
片瀬さんが、湯気の立ったマグカップを持ってやってきた。向かい合わせで、レモンイエローの楕円形のテーブルの前に座る。建築事務所なだけあって、お洒落なインテリアばかり並んでいる。ここにくると、いつも新しい家具がほしいと思うのはそのせいだろうと僕は思った。僕は片瀬さんのマグカップの中を覗き込む。
「それって、紅茶?」
「そうだが…それがどうかしたか?」
「いや、何でもない」
と言ってうつむく。オレンジジュースを飲もうとして、止めた。これを飲んだら、自分が子供だって肯定してるみたいじゃないか。
「今日はずいぶん早いんだな」
片瀬さんが紅茶を少し飲みながら聞いてくる。一つ一つの大人っぽい仕草に、僕は何だかやるせない気持ちになった。
「まあね。今日は特別日課だから」
「だからといって小学校より早いっていうのも、どうなんだ?」
「特別日課くらい大目に見てよ。僕だって休みがほしい」
僕は苦笑いしながら、弥矢子なしの、と付け加えた。
片瀬さんが素早く、
「何か…あったのか?」
と聞いてくる。片瀬さんは、普段は他人の感情に疎いタイプらしいけど、僕や弥矢子のこととなると話は別だった。おじさんとはまるで正反対な人だけど、おじさんと同じように僕や弥矢子を気にかけてくれている。
「別に何もないけどさ」
と僕は少しはぐらかしてみる。
「ただ最近ちょっと疲れちゃって」
「育児疲れか」
そう言う片瀬さんは、心配しているというよりは愉快そうだ。
「そういう言い方すると、歳とったみたいで嫌だ」
それもそうだな、と言って片瀬さんが笑った。
「まぁ、何かあったらすぐ言えよ」
席を立とうとする片瀬さんを慌てて引きとめる。
「あのさ、ちょっと、話があるんだけど」
「何だ?」
「えっと、その前に質問なんだけど」
「どうぞ」
「片瀬さんってさ、おじさんの親友なんだよね?」
片瀬さんの表情が強張り、困惑した複雑な顔になった。
「それはなんというか…非常に答えにくい質問だな…」
「親友なんでしょ?」
「まぁ…認めたくはないが、…そうだな」
「じゃあさ、僕の名前の由来を教えてほしいんだ」
「え?」
片瀬さんが驚いた顔になる。僕はできるだけ早口で、何のことでもないように喋った。
「実は国語の授業で、そういう作文の宿題が出ちゃって。片瀬さんが知ってるなら、教えてほしいんだよね。まぁ別になかったらどうでもいいんだけど」
片瀬さんはゆっくりと目をぱちくりさせたあと、いきなり吹きだした。
「それくらい、アイツに聞けばいいんじゃないか?確実に俺より詳しい」
片瀬さんの顔がにやついているので、僕は何だか腹が立った。
「いいじゃん。知ってるなら教えてよ」
「いや、俺は忘れた。アイツに聞けば、べらべら喋ってくれるぞ。…それとも」
片瀬さんは一層にっこりとした。
「聞けない理由でもあるのか?」
「別に何もないよ!もういいよ!!」
僕は片瀬さんに聞いたことを後悔した。僕が子供だからって、ばかにしてるんだ。
「片瀬さんの嫌なところはね、相手が子供だとばかにするところだよ。僕は絶対にそんな大人にはなりたくないね、っていうかならない!」
「相変わらず厳しいな、彷徨は」
片瀬さんが苦笑いして言う。
「僕はね、なるべく大人には言いたいことを言うようにしてるんだよ」
「確かに、その心構えは正しい。でも、俺はお前をばかになんてしてないよ」
片瀬さんは空のマグカップを持って、奥の作業場に戻っていった。僕は、むしゃくしゃして目の前のオレンジジュースを飲んだ。咳き込む。溶けた氷でオレンジジュースが薄まって、ものすごく不味い。降参だな、と僕は思った。何もかも敵わない。これから氷入りのオレンジジュースが出されたら、迷わず飲もう。僕はまだまだ、子供だ。認めたら認めたで、何だか虚しかった。