【電子書籍化決定】転生したら悪役令嬢だったので、好きなように生きてみました
強欲の毒蛇、策略の魔女、アマルテの傾国。
イヴ・アストリッドというキャラクターを示す言葉は全くどれも碌なものではなかったが、それはある意味至極当然のことであり、仕方のないことでもあった。
何せイヴ・アストリッドは悪役令嬢。乙女ゲーム『常春のシンシア』に登場する、歴とした悪女であるのだ。
あらゆる悪事に手を伸ばし、メイン攻略対象の父親である国王を籠絡し国を傾け、ヒロインや攻略キャラクターをどこまでも追い詰める敵役。時にはヒロインの故郷の村を焼いたり、攻略対象の家族の目玉を瓶詰めにしてプレゼントしたりと、とにかく救いようがない。
夜のように深い黒髪と、人を食べたような血の色の瞳。正しく毒婦らしい姿の少女。
それがイヴ・アストリッドであるのだ。
イヴ・アストリッドは、そもそもの家系からして悪行に塗れている少女だった。母は禁止されている奴隷売買の元締め、父は権力の為なら手段を選ばず、前教皇暗殺の首謀者も手掛けた人物。他にも脅迫買収私刑その他諸々と悪事は色々やっていて、二重帳簿の不正なんて可愛いものだ。
そんな一家で生まれ育ったイヴがまともな人間になれるかというと、まさかそんな筈はなかった。というか仮にイヴが何かの間違いで奇跡的に善人として育っても、家族の悪行が一族郎党処刑ものの悪行なので、どの道破滅は免れないのだ。
ヒロインや攻略対象が存在している以上、アストリッド家の悪行が世に出ないという未来はあり得ないという事実もある。
そういうわけで、イヴ・アストリッドは生まれながらに詰んでいる。
だからそんなイヴ・アストリッドに転生してしまった元日本人の少女は、当然生まれた瞬間に頭を抱えた。どう足掻いてもまともに生き残れる気がしないと絶望し、生まれて何年間の間は無気力に生きて。
最後には、とうとう開き直ってしまったのである。
いくつかのきっかけもあって、折角得た第二の人生、落ち込んで過ごすのは余りにも勿体無いと思い直したのだ。どうせ20歳になる前に死んでしまうのなら、いっそ思うままに生きてみようと考えた。
ボーナスタイムの様なものだと思えば、20年未満の人生も悪いものではない。だって前世のイヴは、倫理や道徳、社会的常識や同調圧力に負け続けた人生だった。今は違う。権力者で悪人の家系だ。
我慢しなくていいのである。欲望を欲望のままに過ごして良いのだ。良き人であろうと悪人になろうと、どうせゲームのストーリーが始まれば、イヴは20歳になる前に死んでしまうのだから。
精々死ぬ前に、ありとあらゆるこの世の悦楽を我が物にして生きてやろう、とイヴは決心したのである。
誰に気遣うこともなく、自分のやりたいことだけをして、弱者を顧みず善悪を顧みず、ただ自分の為だけに生きようと。
自暴自棄になったとも言えるだろう。
けれどイヴは自身の凡庸さを嫌な程に理解している人間だったのだ。小説や漫画なんかでは、悪役令嬢に転生した人間が自分の運命を変えるストーリーがよく見受けられたけれど、イヴにそんな力はない。
だからイヴは精々このアストリッド家という名の泥舟を、我が世の春としてめいいっぱい楽しんでやることに決めたのである。
それが、イヴが7つの歳になった頃のこと。
イヴの享年から数えて、十二年も前のことだった。
▪︎
悪女が死んだ。
享年19歳。呆気ない最期だった。
イヴ・アストリッドが死んだという知らせに、世間は大いに沸き立っていた。
アストリッド侯爵夫妻の罪と悪事が暴かれ、アストリッドが一族郎党の処刑対象となった中でも、たった一人逃げ延びていた直系の一人娘。
アマルテの黒真珠と名高かった社交界の女王は、しかし誰に看取られることもなく、処刑の日を待つこともなく、一人ひっそりと獄中でその生涯を終えたのだ。
王太子、アドルフ・リューデン。
黄金の髪を持つ第一王子。国中が歓喜に包まれる中、かつてイヴ・アストリッドの婚約者でもあったアドルフは、届けられた訃報をただ静かに見下ろしていた。
そうか、と思う。
イヴは死んだのか。
喜ばしいことだとは思う。アストリッドの侯爵家はこの国にとって悪夢そのものであり、癌のようなものでもあったのだ。
何百年も前に禁止された奴隷売買を復活させ、秘密裏に運用し、莫大な利益を生み出していたこともそうだ。その流れを止めようと立ち上がった前教皇の不審な死もそうだ。誰もがその犯人を察していながら、けれど誰も何も出来なかった時代がずっと続いていた。
アストリッド家の影響力は代を重ねるごとに増していき、彼らの罪は、しかし公然の秘密のようにして扱われていたのだ。
王家の力が弱まりつつある中で、アストリッドは貴族社会の頂点も同然だった。特に今代の侯爵は王の外戚となることを目論んで、半ば無理矢理娘であるイヴをアドルフの婚約者として押し上げたのである。
傲慢かつ強欲。尊大で奔放で、ある意味誰よりも『貴族』らしくあったイヴ・アストリッド。
真っ白なウサギのぬいぐるみを持っていた、黒い髪の小さな女の子。
アドルフははじめて会った時から、イヴのことが嫌いだった。
アストリッドの一人娘を婚約者としてあてがわれた時、幼かったアドルフがどれだけ絶望したか分からない。
本当にイヴを妻にしたら、いつかイヴを王妃にしたら、きっと国が駄目になると思ったのだ。
そしてもしもイヴが自分の子を、王家の血を引く子供を産んでしまった時には、それがアドルフの命日になるだろうとも思った。
だからアドルフはイヴのことが嫌いだった。
あの血の色の瞳で見つめられるたび、背筋がゾッと凍りついた。疎ましくて憎らしくて、「お兄様」と呼ばれるたび繋いだ手を振り払ってしまいたかった。アドルフの隣で本を読む時の、イヴの横顔が嫌いだった。いつもは我儘ばかりをして騒ぐくせに、そういう時だけ静かになるところを嫌悪していた。外国語をまだ覚えきれていない小さな女の子が、アドルフが本に書かれた言葉の意味を教えるたび、「ありがとう」とはにかむのが嫌だった。
小さなキャンディを渡すだけで、まるでただの子供みたいに喜ばないで欲しかったのだ。マカロンが好きだなんて知りたくもなかった。
いつか国を堕落させる一族の娘。
いつかアドルフの死を産み落とすであろう娘。
アドルフ・リューデンは、イヴ・アストリッドを憎んでいた。
そうするべきだと分かっていたから。
だからイヴが15歳になった頃、あからさまに男遊びを始めた時には本当に安堵したのだ。軽蔑もしたけれど、それ以上に安堵した。
ああ、やはりイヴはアストリッドの娘だった!と。
一世を風靡した舞台俳優。
浮き名を流すことを芸術のようにしていた貴族の子息。
イヴ・アストリッドのたった一枚の肖像画を遺して姿を消した若い画家。
砂漠の貴族や東方の王族に手を出したという噂もあった。
イヴはいつだって違う男を連れていて、いつだって楽しげに喉をくすぐらせて笑っていた。
アドルフのパートナーとして参加した社交界でさえ、いつの間にか姿を消しているのだって日常茶飯事だった。レースの手袋に覆われていた細い指先は、いつだってアドルフではない男の頬に伸ばされたのだ。
軽薄な女。
大嫌いだった。
アストリッドの凋落の日を覚えている。
ようやく公になった侯爵夫妻の罪状。アストリッド家に属する人間が、揃って処刑されることが決まった日。騎士団よりも先に民衆が侯爵家に詰め寄って、アドルフが率いる騎士団が侯爵家に辿り着いた時には、屋敷は既に火の海に変わっていた。
大義名分を得た民衆の力は凄まじく、アストリッドはその名を持つ分家どころか、屋敷で働いていた使用人達すら無事では済まなかったのだ。屋敷は踏み躙られ、家財道具は強盗のように盗まれて、黄金の庭と呼ばれた庭園は見る影もなかった。
だけど、転がる死体の中にイヴの姿は無かった。イヴを捕まえたという話はどこからも聞こえなかった。
イヴ・アストリッドはあの時確かに逃げ果せたのだ。
思い出すのは、ずっと昔、春の舟遊びの時期のこと。アドルフの正面に座る白いワンピースの少女。レースの日傘をさして、「お兄様」と微笑んだまだ面立ちに幼さを残していた頃のイヴ。
「大丈夫よ、お兄様。そんなに怖がらなくても大丈夫」
穏やかな声。春の風のように静かだった。悪辣なアストリッドの娘は、けれどその時だけはまるで花のように儚く見えた。
「悪いことをした人はね、いつか必ず報いを受けるの。良いひとの側にはね、必ずそれに相応しい人がやって来るの」
「……イヴ?」
「私はきっと、お兄様の王妃にはなれないわ。お兄様はいつか、もっと素敵で優しくて、真っ直ぐな心を持つ女の子と出会って結婚するの。だからそんなに苦しまなくたって大丈夫。怖がらなくたって、大丈夫」
大丈夫よ、と微笑んだあの日の少女。
まるで自分の罪を認識しているように、まるで自分は罪ある娘だと思い込んでいるようだった少女。
その日の悦楽を追い求めるように生きて、けれど権力で誰かを追い詰めたりはしなかった。両親の行う、悪行に塗れたビジネスに関わっても居なかった。
生まれ持った財を、両親が悪行を以て積み上げた財を思うように使って、婚約者のいる身でありながら、人よりも多く恋をしていただけの悪女。
いくら公然の秘密として扱われているとは言え、禁止されている奴隷を何人も囲っていた。死にかけた奴隷を拾い上げて飽きるまで遊んで、だけど飽きたら適当に金を持たせて故郷に帰らせてやっていた。その動機は決して善意などではなくて、ただ死体を見るのが嫌だという理由で、飽きた奴隷を殺すことをしなかっただけ。
秘密主義で嘘吐きで、どれだけの恋人を連れ立っても、いつもどこか寂しそうだった。いつも笑っているのに、時々まるで泣いているようですらあった。誰よりも自由で、だけどきっと誰よりも孤独だったイヴ・アストリッド。
ざまぁみろ!と思った。
お前が俺に話したことなど、結局何一つとして真実にはならない。捕まると言ったくせに、結局お前は逃げ果せたではないか!
当然だ。当たり前だ。そうだと思った。だってお前はアストリッドの娘で、嘘吐きなのだから!!
燃えたアストリッドの屋敷。あちこちをくまなく探して、それでも見つからなかったイヴに、アドルフは吐き捨てるようにそう思ったのだ。
悔しくて憎らしくて堪らなくて、だけどどこかで、良かったと。イヴがアストリッドらしい娘で、嘘吐きで良かった、やはりイヴはアストリッドだったと安心したのに。
なのに、イヴは。あの子はそれから一年もしないうちに、十ヶ月も経たないうちに騎士団の前に現れた。出頭したのだ。
処刑された侯爵夫妻。広場にはまだ腐りかけの首が掲げられていた。そこにイヴは薄汚れたローブで現れて、自ら騎士に捕まった。
そして、誰に看取られることもなく、決して清潔とは言えない鬱屈とした牢の中で一人息を引き取ったのである。
王太子、アドルフ・リューデン。
かつてのイヴ・アストリッドの婚約者でもあった、黄金の髪を持つ第一王子。国の未来を救うため、アストリッドの悪事を暴いた張本人。
アドルフは、自らのもとに届けられたイヴ・アストリッドの訃報を、ただ静かに見下ろしていた。
唇を噛み締めて、強く拳を握り込みながら、ただ静かに。
目蓋に浮かぶのは、あの日の、レースの日傘をさす少女の姿。
なぁ、イヴ。
どうしてそのまま逃げなかった。
どうしてそのまま、俺の目も届かないどこかへ逃げてくれなかった。
どうして、俺が知る由もないどこか遠くで、誰か、他の男でも良い。お前を愛する誰かの腕の中で死んでくれなかった。
▪︎
なんて綺麗。お姫様みたい。
マリア・エルシアは初めてイヴ・アストリッドに出会った時、心からそう思ったのだ。
平凡な街角。平民の服を着ながらも、その人だけが輝いているようだった。肌には傷一つなく、髪のひと房さえとても綺麗で、毎日よく手入れがされていることがよく分かった。
街を見渡しながら、困ったように眉を下げるとても綺麗な女の子。それも、その背後には今まさに彼女に声をかけようとしている男達がいる状況。しかもあからさまにガラが悪い。
声をかけずにはいられなかったのだ。
「お、お姉ちゃん!もう、探したんだよっ……!」
そんなことを言って、マリアは咄嗟にその子の手を掴んだ。滑らかな白い肌の女の子。まんまると見開かれた、さくらんぼみたいに鮮やかな赤い目がマリアのことを映していた。
「い、行こう?お母さんがあっちで呼んでる!」
ピンクの髪を持ったマリアと、黒い髪の女の子。
金色の目を持ったマリアと、赤い目を持った女の子。
どう考えても姉妹には見えない二人だったけれど、咄嗟だったのだ。言ってしまったものは仕方がない。驚いて言葉が告げられずにいる女の子の手を、マリアは半ば無理矢理引っ張ってその場を離れたのである。
それからマリアはその子の手を引きながら、広場までを少し走った。肩で息をしながら後ろを振り返ると、女の子は赤い瞳をぱちくりとさせてマリアを見ていた。
とても不思議そうな顔だった。マリアはそれにハッとしたように我に返って、「あ、あの、実はさっき男の人が!」とあたふたと説明したように思う。
お人形さんみたいに綺麗な子にあんな風にまっすぐと見つめられるのははじめてのことで、もっと言えば何も説明しないまま連れ出してしまったから随分と焦ってしまって、あんまり覚えていないのだ。
でも、女の子はそんなマリアにとても優しくて、焦って要領の得ないマリアの言葉をちゃんと聞いてくれていた。そしてくすくすと肩を揺らして笑って、「大丈夫だから、そんなに慌てないで」とマリアの手を取って宥めてくれたのだ。
「ありがとう。実は付き添いとはぐれてしまって、一人で不安だったの。貴女に助けて貰えて良かった」
髪を耳にかけて、その子は柔らかに微笑んだ。
それだけでマリアは胸がドキドキとして、もう一度、心から思ったのだ。
なんて綺麗な女の子、と。
「っ、あ、あの!それなら、良ければ私、その付き添いの人を一緒に探しても良いかな?私この辺りに住んでるから、土地勘あるし!役に立てると思う!」
「え?」
「私、マリア・エルシア。パン屋で働いてるの。あ、怪しい人間じゃないと思う!きっと!」
言い募るマリアに、女の子はパチパチとまばたきをした後、やがて小さく笑って「……ええ」と頷いてくれた。
「ありがとう、マリア。私のことは……、そうね。……リリスと、そう呼んで」
握手の形に差し出された手のひら。名乗られた名前が偽名であることは何となく分かっていたけれど、その子を呼ぶ名前を得られたことは、そんなことが気にならないくらいに嬉しかった。
リリスが見ただけで分かるくらいのお嬢様だったこともある。貴族だろうと思ったのだ。そんなやんごとないお嬢様なら、簡単に名前を明かせないのも当然だと思った。
それからマリアとリリスは、度々街で会うようになった。
リリスはこの辺りに恋人が居るようで、時々お忍びで街まで降りて来ていたのだ。それでデートをした帰りなんかにはマリアの働くパン屋にも顔を出してくれて、リリスが来てくれる時にはおかみさんが休憩時間をくれるから、甘いパンを持って広場でおしゃべりを楽しんだりもした。
楽しかった。嬉しかった。とても綺麗なマリアの新しい友人は、とても賢い人でもあって、マリアの知らない色んなことを知っていた。
花の名前、星の名前、御伽話にもなっている歴史の話。沢山のことを教えてくれた。
マリアはリリスのことが大好きだった。
大切に思っていたのだ。本当に。
マリアがリリスの正体を知ったのは、二人が出会ってから、一年ほどが経った頃だった。
マリアがある時、ちょっとした事件に巻き込まれたことがきっかけだった。
とても小さなきっかけだ。だけどそれはやがてマリアを大きな真相にまで導いてくれた。毎日を過ごす当たり前の平穏の陰で、どれだけ沢山の人が苦しんでいるのか。どれだけ沢山の子供が売られているのか。
マリア自身も知らなかったマリアの出自。自分の一族がどうして消えてしまったのか。何故母は、マリアを孤児院に捨てたのか。捨てざるを得なかったのかも。
マリアの生まれた家門は、もともと代々騎士団長を輩出しているような名門貴族だったという。
マリアの父はとても正義感の強い人で、年々増え続ける非合法な奴隷の問題を解決するべく水面下で動いていた。
それをアストリッドという、悪くて、だけどとても強い権力を持つ貴族に嗅ぎ付けられたのだ。そして一族もろとも、不名誉な冤罪を被せられて滅ぼされた。
マリアの生みの親を殺したアストリッドは今も健在で、今も悪行を重ねていて、今も多くの人を不幸にしている。多くの犠牲者を出している。
巻き込まれてしまったというのもある。
だけどそれ以上に、知ってしまったからには、放ってはおけなかった。
アストリッドの打倒を目指す五人の青年。王太子であるアドルフや、天才と呼び声高い最年少の騎士であった少年、裏町の闇医者まで居た。色んな分野のエキスパートが集まっているアジト。
マリアはその仲間に入ることを選んだのだ。
彼らと共に幾つもの事件を解決した。事件を解決するたびにマリア達はアストリッドの真実に近付いた。
マリアがリリスの正体。彼女がアマルテの黒真珠、毒婦と呼ばれるイヴ・アストリッドだと知ったのは、その最中でのことだった。
イヴがマリアを逃がしてくれたのだ。
マリア達が社交界に潜入して、アストリッド侯爵が行う不正な取引の証拠を手に入れようとしていた時だった。危うくアストリッド侯爵に見つかりそうだったところを、それよりも先にマリアの存在に気が付いたイヴが誤魔化して、マリア達を逃がしてくれたのだ。
「どうしてアストリッドの令嬢が……」
呆然とした言葉。それは、その時マリアと一緒にいたアッシュという少年が呟いたものだった。そうしてマリアはリリスの正体を知ったのである。
イヴは聡明な子だった。きっとマリア達が何をしようとしていたのか、ある程度察していたはずだ。それでもマリア達を助けてくれた。あの時マリアやアッシュがアストリッド侯爵に見つかっていたら、きっとただでは済まなかった。
あの時、イヴがどうしてマリア達を助けてくれたのかは最後まで分からなかった。あれきり、イヴがリリスとしてマリアの前に現れることは無かったのである。マリアがイヴに会うためにどれだけ頑張っても、イヴはまるで分かっているみたいに、マリアを避け続けた。
両親の仇。悪虐の限りを尽くしているアストリッド家。だけどイヴの家族で、イヴはアストリッド。
迷わなかったと言ったら嘘になる。躊躇わなかったと言ったら嘘になる。どうしてリリスがイヴなのかと、足元が崩れ落ちるような感覚だった。マリアはずっとずっと悩んだし、眠れない夜を何度も過ごした。
だけど、そうしている間にも被害者は増え続ける。今更止まるわけにはいかなかったのだ。
皆でアストリッドの悪事を暴いた。
王太子であるアドルフは、貴族議会の中心に立ち、とうとうアストリッドの悪事を公のものにした。
アストリッドは追い詰められて、没落した。
侯爵家が火に包まれた日、マリアはイヴの姿を必死に探した。せめて怒りを抱きながらイヴを探す民衆よりも、先に見つけないとと思ったのだ。そうでないと、あの子がどんな目に遭うかわからない。
でも、どれだけ探しても、イヴはどこにも見つけられなかった。
アストリッドが滅んだ事実に貴族も平民も、国中が喜んでいた。だけど、アストリッド打倒に大きく貢献したとして、革命の乙女と呼ばれるようになったマリアは、それを手放しに喜ぶことが出来なかった。
自分がやったことだ。アストリッドを倒したことに後悔はない。だけどイヴのことだけは別だった。行方不明になったイヴをマリアはずっと探し続けた。綺麗な黒髪。マリアのリリス。アストリッドのイヴ。大切な友達。マリアをあの時、確かに助けてくれた人。
どんなに探しても見つからなかった。もどかしくて堪らなかった。だけど、アストリッドの屋敷が炎に包まれた日から、何日も経った頃である。
一人で暮らすマリアのアパートを、イヴが訪ねて来たのだ。
傷だらけでボロボロだった。
ドレスのあちこちに赤黒い血が滲んでいた。
マリアの知らない、顔に大きな傷痕のある背の高い男の人に支えられていた。
「お、ねがい、マリア。お願い、少しだけかくまって。死ねなくなってしまったの、この子を産むまで、私、死ねなくなってしまった……っ」
引き攣るような叫びだった。さくらんぼの瞳からは、ぽろぽろと涙がただ静かに流れていた。
いつだって穏やかで高貴な微笑みを携えていた、マリアの友人。マリアにとってお姫様にも等しかったイヴは、けれどボロボロになりながら、そう言ってマリアに縋ったのだ。
マリアが一体、どうしてそれを拒めただろう。拒めるはずがなかった。だってリリスが、イヴがマリアに助けを求めてくれたのだ。
そうしてマリアは考える間も無く、何かを考えるよりも先に、二人を家に引っ張り込んだ。
そしてその瞬間、イヴはきっと元々限界だったのだろう。まるで糸が切れたように気を失って、崩れ落ちるように倒れた。
▪︎
「イヴを、助けてくれ。どうか、後生だ……」
喉が焼けているのだろうと、ほんの一言で分かる声だった。血の滲むような掠れた声、言葉ひとつ話すのにも苦痛であろう満身創痍の男は、けれど自らの傷も命もどうでも良いみたいな姿で頭を下げた。
───ずっと憎んでいたはずの女が、ずっと昔に死んだはずの父の腕の中で、まるで守られるみたいに抱え込まれながら、ぐったりと倒れている。
アッシュ・ヴァリスはその瞬間、言い表すことが出来ない程の強い動揺に胸を貫かれた。
アッシュはただ呆然と立ち尽くす。だけどそんなアッシュを他所に、今現在アッシュの保護者のような立ち位置にもあるクロード先生は、テキパキとマリアに指示を出して動き始めていた。
クロード先生は、アッシュの下宿先である裏町の診療所の主人である。
非合法な医者、つまり闇医者を生業としていて、色んな人を金の大小に依らずに治療している聖人じみたひと。そしていつだって、どんな命にも真摯に向き合う人だった。
アッシュはそんなクロード先生の芯の強さを尊敬している。
だけど、そんなクロード先生の真っ直ぐさを、どうしても今ばかりは手放しに喜べなかった。
だって、だってその女は父の仇で。
だけどそこにいるひとは、アッシュが生まれたことさえ知らず、ずっと昔にアストリッドに殺された、アッシュの父のはずで。
生まれてはじめて会う、父のはずで。
頭が上手く働かない。今の状況を飲み込めない。
「──シュ、アッシュ!!」
「っ、ぁ、」
「診療所から消毒液と解熱剤、それから包帯を持って来てください!ありったけ!」
「せ、んせい……」
「貴方の気持ちも、言いたいことも分かります。ですがこのままでは彼女が命を落としかねない。どうか協力してください、アッシュ。恨み言も質問も、命が無くなれば何の意味もなくなってしまう!!」
二の腕を掴まれて、アッシュはハッとしたように我に返った。
叫ばれたのは、クロード先生の過去の後悔から来る、ただただ真剣な言葉。
アッシュはぎゅっと胸元のペンダントを握り締めながら、なんとかそれに頷いてマリアのアパートを飛び出た。
暮れかけた街の路地裏。地面を強く蹴り付けるように走ったのは、きっと八つ当たりのようなものだったのだろう。アッシュはそれ以外に、胸にわだかまるこの感情を発散する術を持たなかったのだ。
アッシュ・ヴァリスがこの世界に生まれ落ちたのは、16年も前。
アッシュの母は、下町の酒場で働く歌手だった。
アッシュの母は、しかし母親には全く向いていないような人だった。
美しいけれど派手で、どこか品のないあからさまな下町の女。愛されていなかったというわけでもなかったのだろう。アッシュがまだ幼かった頃、母の客がアッシュを女の子だと思ってちょっかいをかけた日には、掴みかかって引き摺り回して店の外まで追い出してくれたことだってあった。
だけどそれと同時、アッシュの母はたとえ相手が我が子であっても、自分以外の誰かの為に生きるということは出来ない人であったのだ。
隙間風も吹くような古いアパート。アッシュが家に帰ると、知らない男の靴が玄関に転がっていることも珍しくなかった。赤く塗られた長い爪。
アッシュの帰宅に、服を着ないままの母がベッドの上できょとんとまばたき、「そっか、ご飯」と納得したように頷くのもいつもだった。小遣いを渡されて、「好きなもの食べてきな」と頭を撫でられるのだ。
恋多きひとだった。美しく華やかで、碌な母親ではないともよく言われたけれど、アッシュは母が嫌いではなかった。
そんな母が、アッシュに父の話をしてくれたことが一度だけある。
七年戦争の英雄、ロキ・ヴァリス。ある時忽然と姿を消した、伝説の騎士がアッシュの父なのだと母は語った。
「良い男だったのよ、あいつ。女は沢山居たけどね。背が高くて格好良くて、何より優しかった。年下だけど頼り甲斐があったし、英雄なのに女を馬鹿にするようなことも言わなかった。あたしが客に殴られかけた時なんて、あっという間にひっぺがして、やっつけてくれたんだから」
煙草の煙を吐きながら、酔った母はクスクスと笑った。目はとろんとしていて、どこか遠くを見つめるようだった。アッシュに微笑んで、「あんた父さんに似てるわ」とアッシュの頬を撫でた。
「一体どこに行っちゃったのかしらね。あんなに強かったのに。……あたしが妊娠したって分かった時には、もうとっくに連絡が付かなくなってた。あいつの恋人だった街のどの女も、ある日いきなり、あいつを見つけられなくなったの」
漁師は港ごとに女が居るというけれど、ロキ・ヴァリスは店ごとに女を囲っていると言われるほどの女好き。だけど妙に憎めない男だし、金払いも良かったから、ロキの女は皆それを許していたのだと母は言った。
だけど、恨みを買っていないわけでも無かったらしいとも。
最後の頃には、明らかに堅気のものではない奴らに追われているようだったし、どこぞでのたれ死んだのかもしれない。英雄だったけど、どうしようもない人でもあったからと。
「ね、アッシュ。あんたいつか、剣でもやってみなさいよ。きっと一番になれるから。なんたってあんたは、あのロキ・ヴァリスの息子なんだからね」
そんな些細なきっかけが、アッシュが剣を取るようになった理由だった。
下町の生まれでは珍しくない、苗字のない人間だったアッシュが、アッシュ・ヴァリスと名乗るようになった理由でもあった。
それからアッシュは毎日のように質の悪い木刀を振り回した。幸いにも母の言葉は真実であったようで、アッシュは程なくして当時の騎士団長にその才能を見出され、騎士になった。
史上最年少の騎士だ。貧しい人間ばかりが住むアッシュの故郷の町では、アッシュは稀に見る大出世と大躍進を遂げた少年で、町中がお祭り騒ぎ。
母は「まさかあんな一言で」と呆気に取られるというか呆れながら、アッシュに父の肖像画が入ったペンダント。7年戦争が終わった頃沢山売り出されていた、大量生産の記念品だけど、とにかく大事に持っていたそれをアッシュに持たせて、アッシュを送り出してくれた。
そうして入った騎士団でも、アッシュは年と才能を理由に大層持て囃された。
時々そんなアッシュを面白く思わない先輩に喧嘩をふっかけられることもあったけれど、その全部を返り討ちにする内にアッシュは誰にもその実力を認められるようになったのだ。
馬鹿騒ぎもした。騎士団での日々は楽しかった。
けれど、アッシュが段々とより力をつけて、段々とより重要な任務にも参加するようになった頃だった。
重要な任務に参加ということは、それだけの責任が増えるということ。責任が増えるということは、それだけより多くのことを知れるということでもある。
アッシュはそこで、この国に巣食う悪夢というものを知ったのである。
どうして禁止されているはずの奴隷売買が、それでも中々無くならないのか。
ただ攫われたからという理由で、決して主に逆らえない刻印を刻まれるなどという非人道的なことが行われてしまうのか。
奴隷が売られている拠点も犯人も暗黙の了解のように分かっているのに、誰もそこに踏み込めない理由。
アッシュを取り立ててくれた騎士団長が死んだ事故の不自然さ。正義感が強く、正しいやつから死んでいく騎士団。
金と権力に腐敗した上層部。
ショックだった。正義に夢を見ていたつもりも騎士に夢を見ていたつもりもなかったけれど、どうやらアッシュは自分でも知らないところで、思ったよりも夢見がちな人間だったらしい。
楽しかった日々には、途端に暗雲が立ち込めた。
それでもアッシュは何とか騎士を続けていて、だけどある時、とうとう決壊してしまった。
一定以上の権限がなければ見ることのできない、奴隷売買の被害者リストを見たのだ。行方不明者の中から、特に『探してはいけない人間』のリストである。アストリッドに奴隷に落とされた人間だから、手出しは無用。探すことはしてはいけない。どうせ殆どは死んでいるだろうから、意味もないとも扱われていた。
そんなリストの中に、ロキ・ヴァリスの名前があったのだ。
顔と名前しか知らない父。アッシュの存在すら知らないアッシュの父。アッシュが剣を取ったきっかけであり、騎士になってその逸話を知れば知るほど憧れた七年戦争の英雄、ロキ・ヴァリス。
ロキはアストリッドの奴隷になっていたのである。数年間を地下の闘技場で、国の英雄と呼ばれた男の剣をひたすらに振るわされていた。しかし何年か前の試合の最中、利き腕を負傷したことで引退。
その後はどうやらイヴ・アストリッドに引き取られたようだが、その後の消息は不明であり、恐らくはアストリッドの娘に遊ばれた挙句死亡したと思われると資料には書かれていた。
アッシュは騎士団を辞めた。
アッシュを引き留めるものは多かった。騎士団の上層部はともかくとして仲間たちは皆、根はいいやつらだった。「お前は沢山の秘密を知ってしまったから、このまま辞めたらきっとただでは済まない」と忠告してくれたやつも多くて、だけどアッシュがそれに従うことはなかった。
もううんざりだったのだ。仮にも正義を掲げる組織が、アストリッドが関わっているというだけの理由で奴隷売買や不正を見逃す現実も、それに加担する日々も。
それからアッシュは暫く、その身を追われるようにして過ごしていた。路地裏に身を隠し、追っ手のことを時々切り捨てて、ゴミ捨て場で寝たことだってある。
そんな時のアッシュを見つけて、拾い上げてくれたのがクロード先生だったのである。
先生は元々教会に所属していた聖職者だった。父のように慕っていた前教皇が暗殺された時、下手人の姿を見てしまったことで、かえって犯人に仕立て上げられ教会を追われてしまったのだ。本当の犯人は今正に教皇の座に就いていて、それを押し上げたのはアストリッド。
クロード先生はアストリッドを憎んでいて、同じようにアストリッドに恨みを持つ者同士で小さな組合を作っていた。王太子であるアドルフも参加する組織である。
そしてクロード先生はアッシュが回復すると、もしも良ければとアッシュをそこに誘ってくれたのだ。
あれから二年。いつの間にか仲間も増えて、アッシュ達はとうとうアストリッドの打倒を果たしていた。
特にマリアという少女がアッシュ達の仲間に加わってからは事態は急加速的に変化して、アッシュ達は今や民衆の英雄である。
アドルフなどは国中から支持を集めて、最早誰も彼をアストリッドの傀儡などとは嘲らなかった。
ようやく終わった、と思ったのだ。
燃え盛るアストリッドの屋敷を見た時、アッシュはそうして、本当に安堵したのだ。
酷く安らかな気持ちだった。娘の姿が見つからなかったけれど、あの大火ではタダでは済まないだろうとも分かっていた。
侯爵夫妻が捕まって大元が無くなったのだから、きっともう騎士団も大丈夫だと思った。どんな子供もどんな親も、これからは安心して騎士を頼ることが出来る。
腐った上層部はまだ残っているが、アドルフが王太子として、アストリッド侯爵の邪魔なくその手腕を振るえるのだ。それも時間の問題だろうとアッシュは胸を撫で下ろした。
そうして、数年ぶりの穏やかな休日を過ごしていた時だった。
顔色を真っ青にしたマリアがクロード先生の診療所を叩いたのだ。
「助けて、助けて先生!すごく血が、お腹に赤ちゃんが居るの!死んじゃう、」
「マリア!?一体何が、どうしたんですか。いえそれよりも落ち着いて、誰がどんな状態にあるのかを話してください」
「ボロボロなの、傷だらけなの、気を失ってる!お腹に赤ちゃんが居て、どうしよう先生。死んじゃう、イヴが死んじゃう!!」
血を吐くような叫びだった。クロードの服を掴みながら、いっそ鬼気迫るほどの形相でマリアは言った。
イヴ。その名前に何も思わなかったわけではない。けれどクロード先生は、相手が誰であっても、死に瀕している患者がいると聞けば駆け付けずには居られない人だ。
医療器具を持って走り出したクロードに、居候であるアッシュも当然付いて走った。マリアが話したイヴという名前にどこか引っ掛かりながらも、まさか、よくある名前だろうと無理やり飲み込もうとして。
けれどマリアのアパートで、血塗れになりながら倒れていたのは、ああそうだ。アッシュが見間違えるはずもない。
アストリッドの娘。消息が掴めなくなった七年戦争の英雄、戦闘奴隷ロキ・ヴァリスの主、アッシュの父の仇であったはずのイヴ・アストリッド。
それをまるで冬眠から起こされた熊のように殺気立って、まさか守るように、ぐったりとした身体を抱え込む男。
死んだはずの父が、仇のはずの少女を、守るように抱いていた。
その事実は、アストリッドの凋落によって穏やかに凪いでいたはずのアッシュの心に爪を立て、ぐちゃぐちゃと無遠慮にかき回したのである。
▪︎
十数年も前には七年戦争の英雄と呼ばれていたロキ・ヴァリスは、しかしある時から、ほんの小さな小娘の奴隷として生きるようになった。
借金で首が回らなくなったのである。
戦争の英雄は、けれど平時にはただの人間に過ぎない。国から与えられた報奨金は慎ましく暮らせば一生食うに困らない額だったが、ロキは全く慎ましさとはかけ離れた人間だったのだ。莫大な金を配り歩くように遊んで周り、あちこちに女を作っていれば当然報奨金も底を尽く。
与えられた爵位を売っても土地を売っても足りなくなり、ついには金を借りてまでそんな生活を続けていたのだ。
やがてまともな銀行に行っても金を借りられなくなったロキは、最後には非合法なところに行ってまで遊ぶ資金を工面しようとした。借金で借金を返すような生活である。
その日暮らしのような日々だ。当然、いつか限界はやってくる。
借りた分をとうとう一銭も返せなくなると、ロキはその『働き』でもって借金を返すことを求められた。
首筋に刻まれた従属の刻印。ロキに施されたのはその中でも特に重いものであり、ロキは決して逃げることの許されない奴隷になったのだ。
最初の何年かは、戦闘奴隷として剣を握った。地下の闘技場で日々戦って、ロキは英雄のネームバリューもある上負けなしだったから大層な人気を得ていたのだ。
勝てば勝つだけロキの待遇はマシになって、まぁその期間は、奴隷にしてはそこそこの暮らしをさせて貰っていたとは思う。
それが変わったのは、ある試合の時のこと。
ロキを下した少年が居たのだ。ロキはその時はじめて負けて、ついでに利き腕も負傷した。深い傷である。肉が裂けて骨まで見えていた。
幸い処置が早かったおかげで残った後遺症は普通に暮らす分には問題ない程度のものだが、剣を振るうとなれば致命傷だ。ロキは左手でも剣を握れないわけではなかったが、やはり利き手が使えた時の全盛には劣る。
つまり、それが戦闘奴隷としてのロキ・ヴァリスの寿命だった。
闘技場からの引退が決まったロキは、それから間も無くして処分されることが決まった。
奴隷とはつまり人間であり、生き物だ。生き物というものは保有しているだけで食費やら管理費やらと、色々とかさむもの。
特にロキを飼っていたのはあの悪名高いアストリッドであり、金にならない奴隷をいつまでも飼うような温情を持ち合わせて居るはずもない。
ロキは、他の誰かに売られることが決まった。
それが一番良いと思ったのだろう。ロキはいくら負傷したとはいえ『英雄』というネームバリューもあるし、自分で言うのも何だが、中々端正な顔をしていた。
ゆるくウェーブが掛かった髪質、少し襟足を伸ばした髪型。濃い紺色の髪はかき上げただけで「色男」と呼ばれたし、戦争で付けられた頬の傷も、これが中々男前と評判だった。
ロキがあの『ロキ・ヴァリス』と知らない人間だって簡単にロキに靡いたし、兎に角若い頃から女に困ったことは無かったのだ。
ロキの管理をしていた世話役など、煙草を吸いながら「適当な夫人に、それこそ情夫として買ってもらえるかもな」と肩を竦めたほどだ。
まぁ、ロキがそれを相手にすることはなかったけれど。何と言ったってロキは知っているのだ。体力仕事をさせられるにしろ、情夫として飼われるにしろ、どの道奴隷を買おうなどと考える人間は碌なものではない。
飽きるまで散々こき使われた挙句、ゴミ屑のように捨てられることだって当たり前にあるだろうと分かっていた。何せ奴隷というものは、仮にも所有が禁止されている財産なのだ。非人道的だからという理由で違法になっているもの。
それを自分から迎えようなどという人間が主人になったとして、一体どれほどの間生き延びられることか。全く分かったものではない。
ロキはうんざりとした気持ちで、売りに出される日を待っていた。
だけど、ロキが出品されるオークション。その、前日のことである。
「………ロキ・ヴァリス?」
ロキの牢の前を立ち止まった少女が居た。丸く見開かれた赤い目。
明日のオークションの為、せっせと働く大人達の間で、一人だけ手持ち無沙汰に歩いていたのだと分かる様子。子供はお揃いの目を持つうさぎのぬいぐるみを持ってまっすぐに、牢の壁に背中を預けて座り込むロキを見下ろしていた。
「なんだ、餓鬼のくせに俺を知ってるのか」
ふ、とこぼすように僅かにロキは笑った。
こくんと頷いた小さな背丈。
それが、ロキ・ヴァリスとイヴ・アストリッドの出会いであったのだ。
▪︎
あの後ロキは、オークションに売り出されるのを待つことなく『新しい主人』の元に運ばれることになった。
新しい主人とはあの時の子供で、つまりあの子供はアストリッドの娘だというのだ。親の仕事に着いてきていたらしい。我が子がはじめて奴隷に興味を持ったということで、アストリッドの侯爵夫人がロキを娘に与えたのだ。
侯爵夫人がそれまでのロキの所有者であると同時、オークションの主催者でもあったから、そんなことは簡単だったのだろう。
イヴは全く、子供らしくない子供だった。
我儘も言わなければ好き嫌いの主張すら曖昧で、いつも同じうさぎのぬいぐるみを抱いてぼんやりとしていた。
これは母親が心配するのも、はじめて興味を持ったからと売る予定だった奴隷をすぐさま引き取るのも分かるな、とロキも理解するくらいには心配な子供だった。
まるで何かに怯えるように毎日を暮らしていて、仮にも自分の奴隷であるロキをこき使ったりだとか、痛め付けたりだとか、そういう考え自体が思い付かないようだったのだ。
生まれだけで傲慢に振る舞う貴族の子供は好かないが、これはこれでやり難い。生まれからして恵まれているはずの子供が、子供らしく振る舞えないことは何だかあまり良い気分では無かった。
最初こそロキも仕事がないのを良いことに殆ど毎日をぐうたらと過ごしていたが、そんな日が長く続くと流石のロキも居心地が悪くなってくる。肝心の主人が毎日のように部屋に引きこもって、本だけを読んで過ごしているとなれば尚更だ。
仕方がないから、ロキは時々イヴのところに自分から行くようになったのだ。
イヴはロキをわざわざ近くに呼び寄せることもしなかったが、かといってロキが近付いても文句を言うことも無かった。
色んな話をしてやった。ロキが親の無かった子供の頃、路地裏で一緒に育った犬の話とか、元々傭兵として戦争に出ていたロキがどうやって騎士なんてものになったのか。出来るだけ子供に聞かせても良いような話題を選びながら戦場のことも話して、花の名前やそれにまつわる逸話なんかも教えてやった。女を口説く為に覚えた話だが、子供に聞かせるにはぴったりだと思ったのだ。
イヴはその全部を静かに聞いていて、だけど段々と、時々思わずと言ったようにくすくすと笑うようにもなっていった。
不器用ながら、子供特有の柔らかい黒髪を三つ編みに結ってやったこともある。その時は不思議そうにきょとんとしていた癖に、何が気に入ったのか、時々リボンを持ってロキのところに来るようにもなった。お付きのメイドの方が余程上手く出来るだろうに、つやつやとしたシルクのリボンを持って、わざわざ朝からロキのところまで来るのだ。
アストリッドのお嬢様が自分から奴隷の元に、それも使用人宿舎の、特に古くて埃っぽくて、みすぼらしい物置部屋に来て髪を結ばせるのだ。侍女長など最初にそれを知った時は卒倒して、慌てて侯爵夫妻に相談の上ロキの部屋を本館に移したほどである。
ロキの新しい部屋は本館の、イヴの部屋のすぐ近くだった。イヴが立ち入っても大丈夫な部屋にする為に、全くロキ・ヴァリスという名前にそぐわないような、ドールハウスみたいな少女趣味全開のふりふりとした一室を与えられたのだ。
最初はまぁ力が抜けたが、ロキはあまり寝る場所の見た目には拘らない方である。
どれくらい拘らないかと言うと、やがて何かを面白がったイヴが、せっせとロキのベッドの周りに色んなぬいぐるみを持ってきても放っておいてやるくらいには拘りがなかった。
そのうちイヴはロキの部屋のぬいぐるみに埋もれて昼寝をするようになって、ロキはその隣で適当に本でも眺めながら子守唄を歌ってやるのが日常になった。
ロキは親無し家無しの育ちで文字も碌に読めなかったけれど、イヴの為だけに作られた絵本は、芸術品のようにページ一つ一つが煌びやかで、絵が飛び出すような仕掛けもあって、見るだけで中々楽しかったのだ。
イヴが眠っている間、昔何かで聞いて覚えていた子守唄を歌いながら、ロキはそうやってイヴの本を適当にめくっていたのである。
子供のくせに不眠症を持っているイヴの眠りを邪魔しないように。
「十年後に死ぬぅ?」
イヴがロキの後ろを着いて歩くのも、ロキがイヴを抱えて散歩をするのも当たり前になったような頃だった。
アストリッドの敷地内。ここのところイヴがよく持っている本の絵を真似るために、ロキが不器用に不恰好な花冠を作っていた時。
七歳になったイヴが、ふと顔を上げて言ったのだ。ロキを見上げて、自分は十年後に死ぬのだと。
ロキは思わず「何馬鹿なこと言ってんだ」と呆れたように言いかけて、けれどその寸前、イヴの目を見て言葉を飲み込んだ。
うさぎみたいな真っ赤な目。ガラス玉みたいなイヴの瞳。イヴは確かに同年代の子供と比べて表情が変わり難いし、何を考えているのかもよくわからないが、少なくともこんな馬鹿な冗談を言う子供ではない。
ロキはグッと押し黙り、少し何を言うかを考えて、結局口を出たのは当たり障りのない言葉。
手元の作りかけの花冠を持ちながら、「十年後って、お前まだ17だろうが」と言ったロキに、けれどイヴはそれでも当然のことのように「うん」と頷いた。
「正確には、十一年とかかも知れないけど。18か19歳の時にね、私、多分死ぬの。あと十年もしたらアストリッドはなくなって、お父様もお母様も捕まって、私もその時きっと死ぬ。生まれた時から決まってるの。私はイヴ・アストリッドだから」
「そりゃまた随分と物騒な話だな。誰がそんなこと吹き込んだ?」
「生まれた時から知ってたよ」
「じゃあ神様か。全く神ってのは古今東西どこにおいても碌なもんじゃねえな」
うげ、と顔を顰めるようにしながらロキは言った。ロキは基本的に神というものも、神による救済なんてものも信じてはいない。たとえ居たとしても、人々に信じられている程素晴らしいものではないだろうと思っていた。というか、間違いなくろくでなしだ。
神様が本当に我等を見ていて、敬虔な信徒をお救いくださるのであれば、戦場でロキを師のように慕ったあの少年が死ぬはずは無かった。戦線近くの村で、祈るように手を組んで事切れていた腐りかけの死体も無かっただろう。
あいつらを差し置いて、貧しく親もなく、洗礼すら受けたことのないロキが戦争を生き残り英雄と呼ばれるようになったことからして明らかである。
「しかし、そうか。イヴお前、そんなことを気にして毎日死んでるみたいな顔で生きてたのか?」
「……死んでるみたいだった?わたし」
「そりゃあもう。顔は青白くていつ何してても不安そうで、あと何より暗いし。俺は一体どんな馬鹿にどういう風にいじめられたらそうなるのかって、結構お前の過去とか心配してたくらいなんだぜ」
「………」
「それが蓋を開けてみればそんな理由かよ。何だ、お前馬鹿だなぁ」
しみじみと言ったロキに、イヴはきゅっと下唇を噛み締めた。ハナから信じて貰えるとは思っていなかったが、それでもどこかで期待していたのだろう。そうでなければ、ロキに打ち明けてくれるはずもない。
ロキはそんなイヴにふ、と笑って、ぐりぐりとイヴの頭を撫でた。いきなり無造作に撫でられてきょとんとするイヴに、ロキは「なぁイヴ」と呆れたように笑う。
「あと十年もあるんだろう?上等じゃねえか。俺なんか傭兵の雑用とはいえ、最初に戦場に立ったのは11の頃だったし、俺の兄貴分は12で死んだぜ。俺だっていつ死んでもおかしく無かったし、不利な戦況の時には、毎日みたいに明日死ぬと思ってた」
「ロキが?」
「臆病だろう?だけど男なんてそんなもんだ。運良くその戦場を生き残っても、ようやく屋根のある部屋でまともなベッドで眠れるようになっても、次の戦争では死ぬだろうなって気がしてた。だから好きに生きた」
少しでも悔いのないように。来なかった明日の備えの為に何かを我慢して、死の瀬戸際に後悔するのは真っ平だった。
「宵越しの金は持たなかった。好きなように酒を飲んで、好きなように物を食って、好きなように女を、アー……。とにかく我慢をしなかった。まぁ俺の場合、平和になった後もその生活が染み付いちまったせいで、借金で首が回らなくなってこうなっちまったんだが……」
まぁ、こればっかりは仕方がない。今でこそ英雄などと呼ばれているが、元々ロキなんて、まともな大人と言えるような人間ではないのだ。子供の頃は苗字も無かった。
戦果を上げたことで騎士になれたが、傭兵であった頃などもっと碌でもない人間だったのだ。本来ロキは英雄などと持ち上げられるに相応しい人間では無かったし、だからこそ戦場を失うなり破滅したのである。
「ま、イヴの場合その心配もないわけだしな。何をしたって金は尽きないだろうし、両親にも愛されてる。侯爵も侯爵夫人もそりゃあ間違っても善人とは言えない所業ばかりしているが、お前のことを何よりも大事にして、愛してるのだけは本当だ。分かるな?」
「………うん」
「なら何を恐れることがある。良いか、イヴ。十年後に死ぬことなんか、本当は何も怖くないんだ。本当に怖いのは、何もやれないまま、死に際にあれをすれば良かったこうすれば良かったって後悔することだからな。その点お前はやろうと思えばその十年で、普通の人間が一生かかっても味わえないような物凄く楽しい人生を送れる」
だから大丈夫だ、とロキは笑った。話している間に出来上がっていた花冠をイヴの頭に乗せると、イヴはきょとんとまばたきをした。
あちこちが飛び出して、中々悲惨な出来である。けれどイヴは頭の上の花冠を確かめるように何度か触ると、やがてへにゃりと笑って「ありがとう」と言った。
つまるところ、後に悪女と呼ばれることになるイヴ・アストリッドは、この日から、このロキの言葉をきっかけとして始まったのである。
それからのイヴは、これまでの無気力さが嘘のように意欲的に生き始めた。
欲しいものを我慢しない、やりたいことを我慢しない。自分から外に出てドレスを買って、劇を見て、公園で鳩のいる地面にパンを撒き散らしたりもした。
ロキに付き添われて買い物に行った先で、「ここからここまで、全部ちょうだい!」と嘘みたいな金の使い方もして、かと思えばその足で道端の露店に行き、串焼きを頬張ったこともある。
イヴは本当に悔いのない日々を過ごすことを大切にしていたようで、貴族としてのあるべき姿、淑女としてのあるべき姿、常識や人倫、人の目を気にして何かを諦めることもなかった。
イヴは自由だった。世間から見れば、きっと堕落という言葉が正しく当てはまるほど。
だけどイヴの両親であるアストリッド侯爵夫妻は、そんなイヴの変化を心から歓迎して喜んだ。
何があったわけでもないのに、それまでずっと沈み込んで過ごしていた娘を、この国きっての悪人である両親はそれでも心から心配していたらしい。
イヴがどんなことをしても二人は胸を撫で下ろし喜んで、イヴにいくらでも好きなことをさせた。侯爵夫妻はイヴがどんなに奔放に振る舞っても娘を咎めることはなく、むしろ「うちには金も権力も尽きないほどあるのだから、お前はやりたいようにやりなさい」と背中を押したほどだ。
悦楽の日々は尽きなかった。
15歳になる頃には、イヴは少しずつ恋をすることも覚えていった。
まぁイヴの場合、誰ともそう長くは続かなかったけれど。
飽き性というよりは、執着を疎ましく思っていたところがあるのかもしれない。その日限りの悦楽を求めるイヴにとって誰かの執着は邪魔でしかなくて、相手がイヴに情を傾ける辺りでイヴは恋人との関係を切るのだ。
イヴはいっそ、ゾッとするほどに綺麗だった。あの瞳にジッと見つめられてたじろがない人間はいなかった。
夜のように美しく、傲慢で、溢れんばかりの権力と金を持つ侯爵家のお姫様。けれど気まぐれで、どれだけ求めても手を伸ばしても自分のものにはならない女。
たまにふと、限られている未来を思い出して寂しそうな顔をする、ガラス玉のような少女。
男はそういう女に弱い。イヴは愛されることこそ疎ましく思っていたが、仮にも恋人となった人間には比較的に心を許すところがあった。
イヴの内面に触れて、イヴにのめり込まない男は居なかったのだ。
一世を風靡した舞台俳優。
浮き名を流すことを芸術のようにしていた貴族の子息。
無名ながらに素晴らしい腕を持っていた若い画家。
誰も彼もが最初は遊びだとか、あの悪女と呼び声高い侯爵令嬢の相手なんてと面白半分にイヴに手を出して、最後にはイヴに捨てられて大火傷を負ったのだ。
別れたくないと追い縋った男もいた。大金と引き換えに愛人になった俳優は、もう金など要らないから側に居させて欲しいと必死に説得しても捨てられて、何日か後には『劇場の薔薇が自殺未遂!』と新聞に載っていたことも、遊び人と言われていた男がイヴとの交際を最後に女遊びをやめて、順番待ちをしていた女達が肩を落としたりしたこともあった。
同性の恋人が居たこともあって、彼女だけは比較的に長く続いたとは思う。一番相性が良かったのだろう。相手の結婚を機に別れて、その後二人が会うことはなかったけれど。
イヴが捨ててもあまり文句を言わなかったのは、それこそ奴隷達くらいのものだ。イヴは奴隷を捨てる時には身分を解放して、まとまった金を渡してやっていたから、あまり騒がれることはなかったのである。元々イヴの奴隷は入れ替わりが激しくて、そう長く続かないと分かっていたこともあるのだろう。
長い期間イヴの奴隷であり、ずっとの間イヴの側に居た人間は、ロキだけだったのだ。
イヴは悪女という呼び声に違わず、苛烈で傲慢な人間に育っていたが、ロキの言うことばかりは比較的によく聞いたのだ。
イヴはロキの前では、まるでただの少女のようだった。
時々イヴが悪夢にうなされて起きた時、イヴを慰めるのはいつだってロキの仕事だった。
そういう夜は、ぽろぽろと静かに涙を流したイヴがロキの部屋を訪ねるのだ。ロキは慣れたようにイヴを部屋に入れて、泣き止むまで膝の上で抱えてやった。ロキの胸元にしがみつくイヴを宥めるようにこめかみにキスを落として、昔と同じように子守唄を歌ってやった。
イヴはすると必ずと言って良いほど顔を上げて、ロキの頬に手を伸ばして背伸びをする。ロキがそれを拒むことはなかった。
いつだって、ロキはつくづく思うのだ。
自分は全く碌でもない人間であると。
本当にまともな人間であれば、きっとロキはとうの昔にイヴを止めていたし、そもそもこんな道に進ませなかっただろう。幼い頃から知る少女を抱くこともなかった。
でも、ロキは元々そういう、どうしようもない類の人間なのだ。人間としての屑なのだ。誰よりもロキ自身が分かっている。
生まれた時には既に一人だった。親の愛とやらも知らない。誰かに守られたこともない。側に居てくれた犬は気が付けば死んでいた。兄弟分は居たが、比較的早いうちに死んだし、どちらかといえば明日を生き抜くための同盟のようなものだったのだ。
愛されたこともなければ、誰かを愛したこともなかった。
だから大人になった後も、恋人は大勢居たけど、本心を傾けた相手はいなかった。そもそもそんな相手がいたらロキだって何股もしない。愛が何かも分からなかったから、当然かもしれないが。
空っぽなのだ。だからそれを埋めるみたいに、楽しいことだけで人生を満たした。そんなもので屑が一人前の人間になれるなら苦労はしないが、そうすることしか出来なかったのだから仕方がない。
そしてそんな生き方しか知らない人間が、子供にまともな人生というやつを教えられる筈がないのである。
きっとロキ・ヴァリスほど教育に悪くて、人生に悪影響を及ぼす人間は他に居ないだろう。
▪︎
それからまた何年かが経って、イヴは18歳になった。
いとけなさの残る顔立ちは、いつの間にかその間に壮絶な美を携えていた。イヴが社交界の女王、アマルテの黒真珠と囁かれるようになったのもその頃である。
だが、言ってしまえばそれだけだ。
アストリッドとはいえ、イヴは凡庸な娘だった。ただ美しいだけの平凡な娘。
血を見たら当然のように気分は悪くなるし、虫が苦手で見つけただけで悲鳴を上げる。ロキのひと言で生き方を変えたことからも分かるように人の影響を受けやすくて、まぁつまり、素質が無かったのである。
美しいだけのか弱い少女がイヴだった。富と権力で守られている間しか思いのままに生きることができない。親の庇護下になければ、きっと立つことさえ出来ない。アストリッドの名前に押し潰されかねない。
イヴの親であるアストリッド家の侯爵夫妻は、そのことをよく理解している人達だった。
だからイヴがある程度大人になっても一向に事業に関わらせ無かったし、イヴについては、ただ守ることだけを考えていたのだ。
きっとイヴが、もっと『アストリッドらしい』イヴだったらそうはならなかっただろう。
だが、イヴはあくまで凡庸な娘だった。
だから侯爵夫妻は娘を守るため、娘の身体に刻印を入れることに決めたのである。
本来奴隷を管理する為に使われる従属の刻印を、娘に入れるなど正気の沙汰ではない。
けれどそれが愛なのだと言われれば、やはり外野にはどうしようもないことだった。
刻印は、その種類によって内容を大きく変える。
その点イヴに刻まれた刻印の内容は随分とシンプルだった。
イヴ・アストリッドの現在地の把握と、イヴ・アストリッドの命の所有。
要するに、アストリッド侯爵夫妻がどちらもイヴの死を願った時。もしくはアストリッド侯爵夫妻がどちらも死んだ時、必ずイヴはその命を落とすのだ。
侯爵夫妻は悪人だが、馬鹿では無かった。悪虐の限りを尽くしながらも、万が一のことを考えられるくらいには理性的。もしもアストリッド家が無くなれば、自分達が死ねば娘がどんな目に遭うのかよく分かっていたのだ。
イヴが持つ中で、唯一平凡とはかけ離れた夢のような美貌も、権力が無ければ不幸に変わる。箱入りでただ愛と自由だけを与えられていた娘が転落に耐えられるはずもない。
それならばいっそ耐え切れないほどの不幸に陥る前に殺してやろうというのは、裏社会を仕切り、より多くの不幸を見てきた悪人たるあの夫婦こその愛情だったのだろう。
だからイヴは、あの日。アストリッドの滅びの日、ただ静かに終わりを待っていたのである。
ロキはその側に付き添っていた。イヴが死んだら、取り敢えず自分の喉にでも剣を刺すかな、などと軽く考えながら。
イヴは何もロキが一緒に死ぬことは求めていなかったけれど、ロキがそう決めていたのだ。
イヴはロキに逃げても良いと言って、奴隷の刻印を外すことも提案したけれど、ロキがそれを断った。ロキはイヴのものだから、イヴが終わるのならロキもまた同じように死ぬべきだと思ったのである。
いつも通りの日常が流れる屋敷の中。二人は終わりの時を待っていた。
朝に王城に向かった侯爵夫妻は、きっと今頃捕まっただろうか。
日の沈みかける頃には、きっとイヴは死ぬだろう。そう思って、二人はその時をただ待っていた。
だけど、どんなに待ってもイヴの終わりは訪れなかった。
ロキはそれに、一瞬アストリッドの凋落などやはり訪れないのかもしれないと期待した。けれどイヴは青い顔で「そんな筈はない」と首を振って、誰かの悲鳴が聞こえてきたのは、次の瞬間のことである。
騎士達よりも先に乗り込んで来た怒れる民衆達。
使用人達が悲鳴を上げて逃げ惑い、それと同時に「お逃げ下さいお嬢様!」と侍女長が叫んだのも分かった。
「どうして……」
血の気の引いた表情。お母様、と呟いたイヴの手を、ロキは咄嗟に掴んで抱き上げた。「きゃあ!」と驚くイヴをそのままに、窓から飛び降りて屋敷を飛び出す。
屋敷は燃えていた。火がイヴの部屋まで届かなかったのは、単にイヴの部屋が奥まった場所にあったからだ。
ほんの先程まで僅かに抱いていた期待は、瞬く間に砕かれた。
ロキは酷く嫌な予感を噛み締めて、燃える庭園。かつては黄金の庭と呼ばれたその場所を突っ切った。そこを通らないと、とても外には行けないのだ。正面を突っ切るには民衆が多すぎた。
楽な逃走劇では無かった。
いくら乗り込んで来た民衆の多くが正面の方に集まっているからとは言え、はやる人間はどこにでも居る。それも先陣を切る人間というのは、大抵が元騎士だったり闘技場で借金を返せるほど長く生き残れた人間だったりと、とにかくただの民衆とは質が違う。
少なくない人間がイヴを見るなり「アストリッドだ!!」と叫んで、イヴの方に、イヴを抱えるロキの元に向かってきた。
随分と無理をした。全盛期に戻りたいと、負傷した利き手を取り戻したいとあんなにも強く思ったことははじめてだった。イヴを抱えながら、イヴを庇いながらだと尚更だった。
「ロキ!」とイヴが叫んだ。「もう良い、私のことは置いて行きなさい!」とロキの腕から離れようとした。
けれどロキは生憎と、そんな理由でイヴを離せるほど安い執着をしていない。いくら想定外のこととは言え、イヴが生きているのだ。イヴの身と刻印に何が起こっているのかは分からないが、イヴが生きている限り、手放すつもりにはなれなかった。
だからロキはただ「良いからハンカチ当ててろ」と言って、どこまでもイヴを離さなかったのだ。
何とか屋敷を抜け出して、二人はやっとのことで今は使われていない何かの建物まで辿り着いた。一晩中を逃げ回った末のことだった。
治安が悪い分人の数も少なく、身を潜めるのにはうってつけの場所。育ちの悪いロキは似たような場所で育ったから、何となく勝手が分かるような場所でもあった。
ロキがイヴの刻印の異常に気が付いたのは、手当ての為に露になったイヴの胸の下のところを見た時である。
ここに来る途中で盗んだ洗濯物の布。それを引き裂いて作った即席の包帯をイヴに巻こうとした時に分かったのだ。
ロキは唯一、明るさのある場所でイヴの肌を見たことのある人間だった。だから正常な刻印の姿も知っていて、異常にもすぐに気が付けたのである。
色の薄くなったイヴの刻印。
それがどんな意味を持つか、ロキはよく知っていた。
炎の中、剣を振り回し激しく動いたせいで焼け爛れたロキの喉。掠れた声で、しかしそれでもロキはイヴにそのことを伝えた。
するとイヴは、ただでさえ青い顔を土色にして崩れ落ちた。そんな、と小さな言葉が呟かれたのをロキは聞いた。
主に奴隷に入れられる刻印は、個人を対象として刻まれることが多い。刻印はその身体に流れる血でもって対象を判断し、作動するような仕組みで動いているからだ。
けれど稀に、その刻印が正常に作動しなくなることがあった。効果が停止することがあるのだ。
期間はおおよそ十ヶ月。
自分以外の命を宿した女にだけ、その命が宿っている間、刻印は意味を無くすのである。
つまり、イヴは子供を宿していたのだ。
誰の子かは分からないが、イヴは最後までイヴ・アストリッドだった。心当たりがない筈がない。
対策はしていた筈だが、薬だろうが何だろうが結局のところ百パーセントでは無かったのだろう。
「どうする」とロキが聞いた。イヴはグッと押し黙った。
恐らく侯爵夫妻は既にイヴの刻印に命令を出したのだろう。今でこそ生き残れたが、十ヶ月後、子供を産み落とした瞬間にイヴは死ぬ。
ぬか喜びもいいところだ。あの屋敷からやっとのことで連れ出せても、ほんの十ヶ月程度しかイヴは生き残れない。先の分かりきっている命。それも、今までと違って贅沢も何もない。
その間を苦しみを味わわせてまで生かそうとすることは、あまりにも残酷だとも分かっていた。
無駄に苦しむだけの十ヶ月間を過ごさせることは、きっと女から子供を取り上げるのと同じくらいには残酷だろう。
だからロキは、イヴの判断に任せることにしたのである。
随分と長い沈黙だった。
イヴはかなり長い間、途方に暮れたように黙り込んでいた。割れた窓から差し込む朝日が、イヴの横顔を照らしていた。長い睫毛が頬に影を作っている。
「ロキ……」
囁くような言葉だった。噛み締めるような言葉でもあった。イヴがロキに何かを伝えるには、いつだってそれだけで充分だ。
焼けた喉。ロキはそれに、「ああ」と頷いた。
そうして二人は、夜が訪れるごとに闇に紛れて場所を移した。ロキは傷付いた身体を引きずりながら、三日という長い時間をかけてイヴが指を差した先の道を進んだ。
そうして辿り着いた先は、マリアという名の少女が住む小さなアパート。
イヴはそこでマリアが呼んだ医者に治療を受け、ある程度回復した頃にマリアのアパートから医者の診療所へ。
そうしてイヴはおおよそ十ヶ月の時を、その診療所の地下で過ごした末。
長い長い時間をかけて、一人の女の子を産み落とした。
ある春の日の、暁の頃のことだった。
▪︎
イヴ・アストリッドには前世の記憶がある。
それこそ物心付く前から備わっていた記憶だ。幼いイヴにとっては重荷でしかない、恐ろしい記憶だった。
イヴは怯えた。自分が死ぬ未来が怖くて仕方がなかった。民衆に石を投げられ、処刑台に登る最期なんて嫌だった。酷ければ狼に生きたまま食べられるかも知れない。怖くて怖くて堪らなくて、だけどそんな未来を変えようとすることも出来なかった。
分かっていたのだ。両親は自分のことを愛してくれているが、その為に悪事を辞めてくれることはない。
そもそも何もかもが手遅れだし、家から逃げ出すとしても、何の身分も後ろ盾もない女の子が一人で生きていけるほどこの世界は優しくないと分かっていた。
この世界のヒロインですら、後ろ盾である孤児院の先生を亡くした瞬間、あんな凄惨な目に遭ったのだからと。
現実を並べて、前世の記憶で知っているゲームの情報を並べて、言い訳じみた『何も出来ない理由』を並べ立てて、布団を被って悪夢に怯えることだけが、幼い頃のイヴに出来た全てであった。
きっとイヴがもっと勇敢な人間だったら良かったのだろう。
それともイヴの知る、本来の悪役令嬢『イヴ・アストリッド』だったのなら状況も変わっていたのかも知れない。
だけどイヴはそうでは無かった。
臆病で無力で非力で非才で、何よりもそんな自分の凡庸さを理解していた。そんなただの小さな子供が、今この世界に存在しているイヴ・アストリッドだったのだ。
毎日を怯えて生きていた。
何をするにも無気力だった。
両親はそんなイヴを心配して色んな医者や聖職者にも引き合わせたけれど、当然イヴの不安の元を知る人間など居ない。誰も何も意味は為さなくて、両親は結局、イヴを変えることを諦めた。
その代わり、争いにも悪行にも向かない弱々しい娘を守る為に、ひとつ対策を講じることに決めたのである。
───良い?イヴ。これはお守りよ。お母様とお父様に何かあった時、これが私達の代わりに貴女を守ってくれるわ。
胸の下に刻まれた従属の刻印。母の優しい手のひらが安心させるようにイヴの頭を撫でてくれた。
両親は悪人ではあるが、愚かな人ではなかった。万が一の可能性も、そうなった時娘がどんな目に遭うのかも考えられるくらいには、イヴのことを愛してくれる人たちだった。
だから両親は、イヴのために、イヴに刻印を入れたのだ。
本来奴隷に入れるための刻印を、娘に刻むなんてと両親を非難するひともいるだろう。
けれど、それが両親の、悪人なりの愛だったのだ。
それがたとえ、イヴを望まない死に連れて行くことになろうとも。
暁を力強く響いた、あの産声を覚えている。
小さな赤ちゃん。小さな命。イヴが産み落としたたった一人の女の子。イヴの胸の中で、ふにゃふにゃと手を伸ばしたイヴの赤ちゃん。
愛しかった。あたたかかった。可愛かった。
こんなに幸せなことはないと思った。
こんなに可愛い生き物が、イヴから分たれて生まれて来たなんて嘘みたいだと思った。
涙が出るほど、嬉しかった。
イヴがその子を産むと決めた理由に、明確な動機は無かった。何となくと言うにはあまりにも切実な感情であったことは間違いないけれど、イヴでさえどうして産むと決めたのか、産みたいと思って、この子が生まれるまでは生きようと必死になったのかは分からなかった。
元々子供が欲しかったのかと問われれば、やはりそれも違う。死に行くことを分かっていて我が子を望むほど、イヴだって馬鹿ではない。対策はしていたし、薬も飲んでいた。それに原作の『イヴ・アストリッド』にそんな描写はなかったから、まさか出来るはずもないとさえ思っていたのだ。
でも、幾ら可能性は低くても、そうなる時にはなるものらしい。
イヴのお腹に宿った、イヴではない命。
諦めたくなかったというよりは、諦めることが出来なかったという方が正しいかも知れない。
その為に原作ゲームのヒロインであるマリアを頼ったのは、彼女がクロードと繋がっていることを知っていたからだ。
裏町の闇医者、クロード。
正式な名前を、クロード・バレンタイン。
乙女ゲーム『常春のシンシア』に登場する攻略対象の一人。
イヴは彼が優れた医者であることを知っていた。
そして彼がまだ教会で働く聖職者であった時代、刻印というものについて特に造詣の深い一人であったことも。
もっともクロードの専門は、奴隷に刻まれる『従属の刻印』では無かったけれど、それにしたって他の一般人よりも詳しいことは事実である。
だから一縷の望みを懸けて、マリアの元に縋ったのだ。マリアはきっと、イヴ達をクロードと引き合わせてくれると思ったから。
結果は、そう芳しいものでは無かったけれど。
クロードは確かに、刻印に詳しい人物だった。イヴに刻まれた従属の刻印を幾分直して、本来子供を産み落としてすぐに死ぬはずだったイヴの寿命を延ばしてくれた。
数日という、僅かな時間を。
イヴは今度こそ、生きることを諦めた。
腕の中の小さな赤ちゃん。イヴの手を痛いくらいに掴んだロキを置いていくことはほんの少し気掛かりだったけれど、無理なものは仕方がない。
クロード先生と、彼の診療所に下宿しているアッシュ・ヴァリス。
アストリッドを恨んでいたはずの彼らも、ほんの十ヶ月を共に過ごしたお陰で幾分イヴに情を抱いてくれたのか、随分とやるせない顔をしてくれたけれど、うん。こればかりは仕方がなかった。
むしろ彼等がいなければ、イヴは子を産む以前に息絶えて居ただろうから、恩の方が大きいのだ。
あれだけ好き勝手に振る舞って生きたイヴが、本来の寿命より十ヶ月も長く生き延びて、あんなに可愛い赤ちゃんを産めたのだ。そう考えれば、数日の命すら過ぎたものと言えるだろう。
明くる朝。
イヴは子供を置いて、ロキを置いて、たった一人で診療所を出た。
生きることは諦めた。でも何日もしないうちに死ぬなら死ぬで、命の有効活用をしようと思ったのだ。
世間はまだイヴの消息を知らない。きっとイヴが死んだとして、民衆がそれを知ることはないだろう。イヴの生死が不明なままでは、町ごとの検問は厳しいままだし、いつか誰かが小さなあの子の血筋に気が付いてしまうこともあるかも知れない。
誰にでも知られる形で死のうと思った。
イヴはイヴ・アストリッドとして、『アストリッド最後の娘』として、その死を正式な記録にするのだ。
イヴは自ら騎士達の元に出頭した。
半年以上を逃げ延びていたアストリッドの娘が、わざわざ自首したことに騎士達は驚いていたけれど、イヴの手にはあっという間に手錠がかけられた。
暗い独房。じめじめとした牢屋。石の壁に寄りかかって瞳を閉じれば、まるでどこかから、聞き慣れた子守唄が聞こえてくるようだった。
アストリッドの凋落の日。あの日イヴは、与えられなかった死に絶望した。イヴを守ってくれるはずだった刻印が、大好きなお母様が、優しかったお父様がイヴを救ってくれないことがただ苦しかった。
今は、どうだろうか。
刻印が正常さを取り戻しつつある中、薄れ行く意識の中、イヴはぼんやりと考える。
ただ、穏やかな気分ではあった。
後悔はない。
イヴは好きなように生きた。やりたいことをして、楽しいことばかりの人生だった。
悪女イヴ・アストリッドは、その名と運命に違わず、19年という一生を華やかに幸福に生きたと断言できる。
アストリッドという家を無くして権力と富を失い、ただの凡庸な人間となったイヴは、きっと。その本性に違わず、19年という人生を静かに幸福に閉じようとしていた。
イヴがこのままここで死ねば、きっと国中が喜んで、それから安心するだろう。検問も無くなって、容易くこの都市を脱出できるようになる。
アストリッドの屋敷から逃げ出したあの時。イヴが身に付けていたネックレスは、見た目こそ華やかで上質な宝石を付けたものだったが、そう名のあるものではなかった。歴史もなければ、イヴが社交界で身に付けたこともない。全く新しいもの。
王都では屋敷も買えない。田舎なら、多少立派なものとは交換できるかも知れないけれど。あの首飾り自体は金さえ積めば買えるような、どこにでも売っているような宝石だ。売ってもアストリッドと結び付くことはない。それはきっと、イヴにとっての不幸中の幸いだった。
ロキはきっと、あの子を連れて逃げてくれる。
本来であれば、ゲームが始まる以前、イヴが18歳になるよりずっと前に死んでいたはずのアッシュ・ヴァリスの父親。
正史では既に存在していないはずのロキならばこそ、きっとあの子を、ゲームなんて影響の届かない遠くに連れて行ってくれるだろう。
ロキならきっと。いつか、まだロキがイヴの刻印を知らなかった頃。イヴに「一緒に逃げるか」と戯れのように言ってくれた通りに、どこか遠く、誰の手も届かない場所に家を建てて、穏やかに暮らしてくれるだろう。
あの宝石が、きっとその手助けをしてくれる。イヴがロキとあの子にあげられる、たった一つの残り滓。
守る為に死ねるのだ。
意味のある死を抱けるのだ。
悪女と呼ばれ、その呼び名に相応しく生きてきた自分が。
こんなに幸福なことはない。
ああ、全く。
欲のままに生きた。愛した命を遺せた。
『悪女』なんかには勿体無いくらいの、とても満ち足りた人生だった。
▪︎
アッシュ・ヴァリスにとって、イヴ・アストリッドは長らく憎むべきアストリッドの象徴であった。
傲慢であり苛烈。強欲であり尊大。華麗な悪女として知られている、社交界の女王。アストリッドの娘。
だけど、はじめて直接目にして、言葉を交わしたイヴ・アストリッドはあまりにもか弱くて儚くて、あの女は随分と弱々しく見えた。
よく見ればどこもかしこも細くて薄くて、豊満な美女というよりはガラス細工のような繊細さの美貌。戯曲にされるくらいの悪女のくせして、案外ささやかなことで喜ぶし、我儘三昧のアストリッドの娘のはずが全く我儘を言わない。
マリアのアパートが怪我人を匿うには手狭だからと、二人をクロードの診療所。その地下室に住まわせるようになってからも、イヴの仮面は剥がれなかった。
平民が用意するランチなんて粗末なものだろうに、「ありがとう」と微笑んで、大切そうに食事を摂るのである。
食べ物に関するつわりが無かったということもあるのだろうが、イヴは一度だって出されたものを残さなかった。
アッシュはイヴが分からなかった。何の苦労もなく育てられたはずの侯爵家のお嬢様のはずなのに、誰かに見られるといけないからと、殆ど地下に閉じ込められているような生活にも文句一つ言ったことがない。
絹のドレスしか着たことがないような身分のくせに、麻の寝巻きを大切に着る。はじめて何かを要求したと思えば、かぎ針でレースを編んで「入院費の代わりに」と手渡してきた。レースなんて人の手でしか編めないものだから、売るだけでそこそこの金になるのだ。
貴族の娘は教養として手芸をすることもあるというけれど、それにしたって繊細な編み方で、聞けば趣味だったのだという。
趣味!アストリッドの悪女の趣味が、レース編み!!
しかもそれを渡して、どうか金にしてくれと頼むのだ。迷惑をかけてごめんなさいと、申し訳なさそうに下げられた眉毛。
毒のような女だと思った。
じわじわと、無意識のうちに心を侵食する。
申し訳なさそうな顔も、人を気遣う仕草も、遠慮の仕方も、決して芝居のような安っぽい仕草ではない。
つまり、あれもまたイヴ・アストリッドの持つ一側面だったのだろう。散財、豪遊、男遊び。華やかな悪女はしかしほんの少し内面に触れただけで、こんなにもか弱くて儚くて、まるで優しいみたいな顔をするのだ。
悪事で以て築き上げられた財を謳歌し、何人もの恋人を捨てて、何年か前にはイヴに会いたくて自殺騒ぎを起こした男を見舞うことさえしなかったことも真実のはずなのに。
何か理由があったのかも知れない、悪気は無かったに違いない。このひとを理解してあげられるのは自分だけだという気持ちにさせてくる。
騙されてなるものかと思っていた。
決して自分は絆されない。クロード先生は既にイヴに同情的で、マリアに至っては友人と言って憚らず、イヴがこの診療所に移ってからも度々訪ねるほど懐柔されてしまっているようだが、アッシュだけはあのアストリッドの娘を憎み続けようと思っていた。
クロード先生はこんな治安も悪ければ決して豊かとも言えない裏町で、特に財産のない相手には殆ど無償で治療を施すほど優しい。マリアは人の悪意や本性に鈍感だ。だからその分、アッシュだけは警戒し続けて居ようと思った。
決して目を合わさず、会話も極力最低限。常にイヴの隣を守るロキ・ヴァリスとも関わらなかった。
イヴもロキもそんなアッシュに、やはり文句も言わずにアッシュの態度に付き合っていて、それがますますアッシュを苛立たせた。
アッシュがイヴに抱く感情など、軽蔑と憎しみのほかになかった。
あの日、あの暁の時。
産声を上げた小さな赤ちゃん。それを胸に抱いて、ただ静かに、幸福に涙をこぼすイヴを見るまでは。
しわくちゃの顔。ふにゃふにゃとイヴに手を伸ばす赤ん坊。娼婦も多く住む町で生まれ育ったアッシュは、誰もがあんな風に、宝物のように我が子を抱けるわけではないということを知っていた。
あんなに幸せそうに、あんなに愛しているのだと全部で訴えかけるように微笑む母親が全てじゃないことを知っていた。
その時なんだか、馬鹿らしくなったのだ。力が抜けるようだった。ああ、そうか、と思った。
確かにイヴ・アストリッドは悪女だったのだろう。
悪事で以て築き上げられた財を謳歌し、何人もの恋人を捨てて、一度捨てた恋人には見向きもしない。派手で傲慢で強欲なアストリッドの娘。
だけど同時に、粗末なサンドイッチを大切に食べて、施された一つ一つに「ありがとう」と微笑んで、自分の死をも意味する我が子の誕生の時を待ち侘びて、生まれてきた赤ちゃんにあんなにも幸せに微笑むことの出来るひとでもあったのだ。
そのどちらも同じイヴ・アストリッドという人間の、一側面であったのだ。
アストリッドを、憎んでいないというと嘘になる。
イヴのことだって嫌いだ。だけど、あの小さな赤ちゃんにとっては、誰よりもその誕生を祝福して喜んでくれたひと。
イヴは確かに、生まれてきた赤ちゃんを誰よりも愛した、あの子のお母さんなのだ。
たとえイヴが『悪女』であろうと、その事実が揺らぐことはない。
汗に張り付く頬の髪。
微笑むひとの姿を覚えている。
難しい顔をして眉を寄せるロキを引き寄せた細い腕。
「ねえ、ロキ。見て。こんなにかわいい」
噛み締めるような言葉。ロキはそれに、「……ああ」と泣きそうな顔で笑った。
「ほんとうに、お前にそっくりだ」
イヴはそれに、花の綻ぶようにはにかんだ。
イヴが「出頭する」と言い出したのは、それからすぐのことだった。
▪︎
「万歳、万歳!国王様、王太子様、万歳!!アマルテ、万歳!!」
国中が歓喜に包まれていた。アストリッドの終焉を、イヴ・アストリッドの死を誰もが喜んでいた。広場で叫ばれているはずの民衆の声が、裏町の診療所に聞こえてくるほどだ。
かつてのイヴ・アストリッドの婚約者。アドルフは今、一体どんな気持ちで人々の前に立っているのだろう。
王太子であるアドルフは共にアストリッドの打倒を果たした仲間でもあるが、彼は色々と後始末で忙しいのか、ここ最近は滅多に会っていない。
イヴのことも、イヴが産んだ娘のことも、彼には伝えないままだった。アドルフは強くイヴを嫌悪していたから、伝えるべきではないと判断したのだ。少なくとも、ロキとあの子がまだ王都を出ない今はまだ。
国中に喜ばれているイヴの死。
マリアは泣いて、すっかり沈み込んでいるようだった。
クロード先生は一見いつも通りに患者を診ているが、時々イヴが編んだレースや子供のための靴下を見ては唇を噛んでいる。
アッシュは、ほんの少し後悔していた。
もう少しイヴと話してみたら良かったかもしれないと思ったのだ。
あんなに頑なにならないで、イヴ・アストリッドという人間を、ちゃんと見てみたら良かったと思った。
まぁ、もう全部遅いのだけれど。
「関所の検問、明日には元通りになるって」
もう誰も立ち入らない、焼け果てたアストリッドの屋敷跡。恐らくは庭園だったのだろう場所の、煤汚れたベンチの上に、ロキ・ヴァリスは居た。
イヴが死んだ今だから来ることのできた場所。アッシュの言葉に、眠る赤ちゃんを抱いたかつての英雄は「そうか」と頷いた。
「……アンタらには、世話になったな。先生にも随分良くしてもらった」
「クロード先生は優しいからね。敬虔な教徒でもあるから、困ってる人間がいたら助けないと気が済まないんだ」
「そうなんだろうな。先生ほどまともな大人はそう居ない。俺はそうなれなかった、碌でなしの方だ」
赤ん坊を見下ろしたまま、静かな瞳でロキは言った。遠くを思い出すような声だった。
「……やっぱり、後悔してる?イヴを一人で行かせたこと」
「そりゃあな。俺は元々あいつと一緒に死ぬはずだった。イヴは子供を残したが、こいつは可愛いけど、イヴじゃない。泣き虫で怖がりな、あの娘じゃない」
「………その子のこと、嫌い?」
「ほんの少しな。けど、それ以上に大事だし、大切なのも本当だ。憎らしいけど可愛くて、愛しいけど、時々無性に会いたくなる」
そう言うと、ロキはグッと目蓋を閉じた。
赤ちゃんは相変わらずスヤスヤと眠っている。
アッシュは思わず、そんなロキに「なら」と声を上げた。
「なら。……その子、診療所で育てようか?あんたがもし、辛いって言うんなら」
そこでようやく、ロキは顔を上げてアッシュを見た。アッシュと同じ琥珀の目。多分、はじめてちゃんと見た。
ロキは何度か、ゆっくりとまばたきをした。それからふ、と顔をくしゃりと小さく笑わせて、「いや」と苦笑のように首を振る。
「こいつは俺が育てるさ。名前も考えてる。イヴが俺に頼んだことだからな」
「そっか……」
「俺はイヴのものだ。それはずっと、イヴが死んだとしても、これからだって変わらない。俺はあいつの物だから、あいつが頼んできたことは断れない。イヴはそれをよく分かってた」
田舎に家を買うのだとロキは言った。
いつかイヴと戯れのように話した、叶わなかった逃避行のように。
豊かな自然に囲まれた場所。庭付きの一軒家。小さな畑で野菜を育てて、穏やかに暮らす。王都のような都会も悪くはないけれど、疲れるから。木陰に寝転ぶだけの日を作って、休日にはジャムを作ってパイを焼く。
そんな穏やかであたたかな、夢物語みたいな暮らしをこの子にあげるのだと。
権力なんて社交界なんて碌なものではないから、そんな汚らわしいものとはかけ離れた日々を過ごしてみたいと笑った、いつかの少女の為に。
「まぁ、こいつが大きくなって、都会の方がいいとか言い出した時には別だけどな。せいぜい稼いで、苦労のない暮らしをさせてやるさ」
「?イヴの首飾りがあるんじゃないの?」
「母親の形見だぜ?そりゃあこいつに渡すさ」
琥珀の瞳が、柔らかに細められた。
ああ、と思う。この人も、ロキもこの子を愛しているのだ。そりゃ、愛一色とは言えないかもしれないけれど、確かにロキはこの子を何よりも大切に思っているらしい。イヴの子だから。
アッシュの懸念は、全く的外れだったというわけだ。
「……ここは昔、そりゃあ見事な庭園だった。イヴはこの庭を愛して、時々帽子を被って土いじりまでしてたんだぜ」
「へえ……。思ってたけど、あのひとの趣味って案外素朴だよね」
「そうだな。イヴは元々、ずっとそういう、ただの女の子だった」
眠る赤ちゃんの頬をロキが優しく指先でなぞる。
頬をくすぐられた赤ん坊は、ほんの少しふにゃふにゃと身じろぎをした。
ロキがそれに、ふは、と柔らかく吹き出す。
「なぁ、アリシア。覚えていてくれよ。ここはお前の母さんが愛した場所で、この場所で笑うお前の母さんは、世界で一番、誰よりも綺麗だった」
穏やかな語り口。宝物のように、大切に呼ばれた赤ん坊の名前。
アッシュはそれを、眩しいもののように見つめていた。
アリシアと名付けられた、イヴが残した小さな赤ちゃん。父親は誰かも分からないのだという。だけどきっと、ロキにとってそんなことは重要ではないのだろう。
彼にとって大事なのは、その子がイヴの子であるということで、その子をイヴから託されたという事実なのだ。
おくるみに包まれた小さなこの子は、今、母親のことをどれくらい覚えているのだろう。
あんなにも誕生を祝福してくれた、あんなにも強く愛してくれたお母さんのことを、きっとこの子は歳を重ねる頃には忘れてしまう。
だけど、きっとそれでも大丈夫だろうとアッシュは思った。
だってロキがいる。彼はきっとアリシアに、何度だって話してくれるはずだ。イヴのことを。この子を産んだあのひとが、どれだけこの子を愛していたのか。
次の日の朝、ロキはアリシアを連れて王都を出た。時々手紙を寄越してくれるらしい。
アッシュはそれを、クロード先生と共に見送った。
もちろんアッシュだって、今のロキの姿に思うところがなかったというわけではない。なんと言ったって、今までアッシュの存在すら知らなかった父親が、自分の子かも怪しい子供を、その母親を愛していたからと言って大切に抱えているのだ。複雑な気持ちになるのが子供心というもの。
だけど、まぁ。
それについては、見送りの時。「さようなら」のついでとばかりにアッシュが母と、母の語った父親のことを話したことである程度吹っ切れた。ロキが顎が外れそうなくらいに驚いて慌てふためいたところを見れたから、気が済んだのだ。
父親に甘えたいという気持ちを抱くには、アッシュは既に父親の居ない状況にも慣れて、大人になってしまったし。
そうでなくとも昔は大勢の女を恋人にしても足りないとばかりに遊び歩いていたひとが、たった一人を、あれだけ愛した姿を見てしまったのだ。
今更親子として過ごせる自信はない。だから、告げたのも別れ際。
アッシュが父に思うことなんて、精々その妹かもしれない子供と、のんびり穏やかに、幸せに暮らしてくれということくらいである。
▪︎
ロキ・ヴァリスはずっと、愛が何かも分からない人間だった。
愛されたこともなければ愛したこともない幼少期を大人になっても引き摺って、出来上がったのがロキ・ヴァリスという名前の空っぽな碌でなし。
どうしようもない人間だから、真っさらな小さな女の子を、自分と同じような生き方にしか導けなかった。イヴ・アストリッドに、そんな人生しかやれなかった。
でも、そんなロキでさえ、愛さずには居られなかった少女が居た。
夜のように美しく、傲慢で、溢れんばかりの権力と金を持つ侯爵家のお姫様。けれど気まぐれで、どれだけ求めても手を伸ばしても自分のものにはならない女。
たまにふと、限られている未来を思い出して寂しそうな顔をする、ガラス玉のような少女。
臆病で弱虫で泣き虫で、悪夢を見るたびロキに泣きついて、ロキが抱きしめてやらないとまともに寝れもしない。
ロキの歌う子守唄に安心したようにへらりと笑って、ロキの手を握って眠る、幼い寝顔。
イヴの内面に触れて、イヴと同じ時間を過ごして、イヴを愛さない男は居なかった。
ロキでさえも。
「お父さーん!りんご見つけたーっ!」
抱っこしてー!と背伸びをした女の子が大きく手を振る。ロキはそれに仕方がないように苦笑して、「今行く」と歩き出す。
アリシアが被っている、少し大きな麦わら帽子はロキのものだった。自分のものがあるくせに、あの娘はロキのものばかり使いたがるのだ。
アリシアは、年々イヴと顔立ちを似せるように育っていた。
違うのは、夜のような黒髪が緩やかなウェーブを描いていることと、琥珀の瞳くらい。あとは、青空みたいにさっぱりとした笑い方だろうか。
少なくともイヴはあんな風に笑ったり、きゃらきゃらとはしゃいで森の中を歩くことはなかった。
アリシアはイヴではない。
ロキが愛した、唯一と決めたあの日の少女ではない。
だけどロキにとって大切な、最愛の娘である。
「もう、お父さん遅い!早くしないとお兄ちゃん来ちゃうんだよ。アップルパイ焼く時間無くなっちゃう!先生もマリアちゃんも来るんだから、いっぱい用意しないとだめなんだからね!」
「はいはい、お姫様。仰せの通りに」
ぷんすかと頬を膨らませるアリシアを、ロキはひょいと抱き上げる。
そうして林檎を取ろうと一生懸命に手を伸ばす横顔を見つめて、ロキはそっと、眩しいものを見るみたいに目を細めた。
もうすぐでアリシアの誕生日。アリシアの存在を知るマリアやクロード。それにアッシュは、毎年それに合わせてここに来るのだ。
着くのはきっと夕方だろうに、お祝いされる立場のはずのアリシアは朝から大層張り切って、嬉しそうに用意のために走り回っていた。
誰よりも祝福されて生まれてきた子供。
誰よりも愛されて生まれてきた子供。
アリシアは明日で10歳。きっと明日には、山程のプレゼントに喜んではしゃいでくれるだろう。
イヴが愛した小さな命は、もうこんなにも大きくなった。
きっとロキは今、イヴの望んでいた未来に生きている。