封印の谷
王都を出て北東に三日。馬でも容易には近づけぬ断崖の先に、その谷はあった。
「封印の谷」――過去と記憶の深層に沈む場所。
かつてこの地は、禁術を使った者たちが“魂ごと封じられた”とされる聖域だった。今では廃れた古代信仰の跡地で、王国の地図からも消されて久しい。
谷に近づくにつれ、空気が変わっていく。風は止み、鳥の声も消えた。空さえも、どこか灰色に濁って見える。
レオンは剣を背に、アリシアを振り返った。
「ここから先は、おそらく……見るもの、感じるもの、すべてがお前自身の“内側”と繋がってる。
何が現れても、俺がそばにいる。それだけは、忘れるな」
アリシアは、静かに頷いた。
「ありがとう。でも、これは……私が“向き合わなきゃいけない”ものだから」
谷の裂け目に、かすかに光る紋様が見える。そこに手をかざすと、まるで心臓に触れたかのように熱が走った。
次の瞬間、景色が歪んだ。
◆
霧の中、アリシアはひとり立っていた。
何もない、白い空間。足元には影もなく、ただ、重く湿った空気だけが漂っている。
「……ここは……?」
そのとき、前方に“誰か”の姿が現れた。
それは、幼い頃に見た母の姿だった。優しく微笑みながら、手を差し伸べてくる。
「アリシア……あなたを守れなくて、ごめんなさい」
「お母さん……?」
「私たちは、“見えないもの”を恐れたの。あなたが生まれたとき、その印を見て……私は、抱きしめるより先に、目をそらしてしまった」
アリシアの胸が痛む。
「私のせいで、家族が……いなくなったと、ずっと思ってた……」
母の姿は首を振る。
「違うわ。私たちは“守れなかった”。でも、あなたは今もこうして立っている。
それだけで、私たちの願いは……救われるの」
光が差し込む。白い空間に、裂け目のような亀裂が走り、空が青く染まっていく。
そして、その光の中に、もう一人の影が立っていた。
それは――レオンだった。
だが彼は、少年の姿をしていた。剣ではなく、血に濡れた布を抱え、膝をついていた。
「……母さん、どうして……」
アリシアは直感した。これも、谷が見せる“記憶”。レオン自身の過去――彼の痛み。
少年レオンの前には、斃れた女性。きっと、彼の母だったのだろう。
「俺が……守れなかった。もっと強ければ……もっと早く気づけたら……!」
その叫びは、アリシアの胸にも突き刺さった。
「……レオン……あなたも、ずっと苦しんでたんだね……」
彼の過去もまた、呪いのように彼を縛っていた。
霧の中、アリシアは自分の手を見つめた。その掌が、光を帯びていた。
「私が、傷ついているだけじゃない……
レオンも、他の人たちも、みんな、何かを背負ってる」
そのとき、空間全体が激しく震えた。断片的に砕けていく記憶の世界。霧が晴れ、景色が砕け、アリシアとレオンは現実へと引き戻される。
◆
谷の入口。二人は地面に膝をつき、呼吸を整えていた。
レオンが先に口を開いた。
「……見たのか。俺の過去も」
アリシアは、静かに頷いた。
「うん。でも、それを恥じる必要はないよ。
だって、あなたは――今、私のそばにいる。
同じように、私も……もう、自分の過去から逃げない」
彼女の背中の烙印は、さらに色を薄めていた。
レオンはそっと手を差し出した。
「じゃあ、これからも……一緒に進むか?」
アリシアは、迷わずその手を取った。
彼らは初めて、真に“並んで”歩き始めたのだった。