夜影獣の試練
泉の上空に、不意に風が渦巻いた。
木々がざわめき、空気が一変する。レオンが剣を半ば抜き、アリシアを背後にかばうように立つ。足元の泉が、再び淡く光を放つ。その中心から、まるで影が染み出すようにして、黒い霧が立ち昇った。
「……出たか。やっぱり、ここにいたか」
レオンが呟いた直後、霧の中から、四足の獣が姿を現した。全身を黒煙で包まれた異形の魔物。眼だけが真紅に輝き、口からは涎のような影が滴っている。
それは“夜影獣”。呪いに惹かれ、浄化の力をかき消す存在。
「アリシア、下がってろ。こいつは俺が――」
「待って!」
レオンが前に出ようとした瞬間、アリシアは彼の腕を掴んだ。
「この泉は……私に反応したの。だったら、私にも“やるべきこと”があるはず」
彼女の声は震えていたが、恐怖ではなく、覚悟の揺れだった。
「……わかった。だが、俺の背中から離れるな」
レオンは一歩前へ出て、剣を構える。アリシアはすぐ後ろ、泉の縁に片膝をつき、両手を水に浸した。
「この泉の力……もし、まだ残っているなら――私に、応えて」
夜影獣が吠えた。音は風を切り、耳を貫く。黒煙の尾が鞭のように襲いかかる。それをレオンが跳躍して受け止め、体ごと吹き飛ばされながらも、獣の注意を自分へ向け続けた。
「アリシア! 急げ!」
水が熱を帯びる。まるで、内側から何かが目覚めようとしているような感覚。
そして、アリシアの意識に、声が届いた。
「受け入れよ。己の穢れを。拒むことなかれ」
「……そんなの、できない……でも、私は……」
「否、できる。すでにその兆しは、そばにある。
心に灯りをくれたものを、忘れるな」
アリシアの胸に浮かんだのは、昨夜のスープの温かさ。
「無理しすぎるな」という、レオンの短い言葉。
――見てくれている人がいる。
彼女は目を見開き、叫んだ。
「私は、穢れてなんか……ない! この印があっても、私は、私だ!」
その瞬間、泉の水が眩い光を放ち、アリシアの手から天へと放射状に広がった。光は夜影獣に向かって伸び、黒い霧を貫いた。
獣は苦悶の咆哮を上げ、その体を砕かれながら霧と共に消えていった。
静寂が戻った。
レオンが剣を下ろし、荒く息をつきながらアリシアのもとへ歩み寄る。
「……やるじゃねえか」
アリシアは、泉の水面に映る自分の背中を見つめた。
そこには、まだ“烙印”は残っていた。だが、赤黒い紋様の一部が、わずかに色を薄めていた。
レオンが、そっと呟く。
「……少し、光ってるな。その印」
アリシアは、ゆっくりと頷いた。
「うん……たぶん、“始まった”んだと思う。呪いを、呪いじゃなくする旅が」
彼女の言葉に、レオンは小さく笑った。
「なら、最後まで付き合うよ」