目をそらさない者
空がまだ白んでいない早朝。アリシアは、いつものように冷たい水で顔を洗った。
昨夜のスープは、身体の芯まで染み渡るような味だった。誰かの手で温められ、誰かの気持ちが添えられたものを食べたのは、いつ以来だっただろうか。
たった一杯のスープに涙が浮かんだことが、今は少し恥ずかしくもある。
――でも、それでもよかった。
顔を拭きながら、アリシアは鏡に映った自分を見つめた。白銀の髪、痩せた頬、そして背中に隠された烙印。それは今も消えていない。相変わらず、彼女の運命を縛る呪いの象徴だった。
だけど、不思議なことに今朝は――ほんの少しだけ、違って見えた。
◆
アリシアが初めて“浄化”という言葉に出会ったのは、まだ十代の頃だった。
図書塔の一角、誰も足を踏み入れない古文書の間。そこに積まれていた年代不明の羊皮紙に、こう記されていた。
「汚れなき魂の光にて、穢れの印は洗われん。だがその光は、他者によって灯されるものなり」
他者によって、灯される――
その言葉を見たとき、アリシアは強く拒否した。
「他人の光なんか、頼らない。私のことを“呪われてる”って言う人たちに、光なんてあるはずない」
そう言いながら、彼女はそれでも文献を読み続けた。自分の力だけで烙印を消す方法を、ずっと探し続けた。
けれど。
レオンの一言が、頭から離れない。
> 「お前のこと……見てるやつは、ちゃんといる」
あの時の目は、決して哀れみではなかった。同情でも、恐れでもなかった。
まっすぐで、痛いほどに静かで。
あんなふうに見つめられたのは、生まれて初めてだった。
◆
昼になり、アリシアは王都の南にある「古の市場跡」へと向かった。
そこには、今はもう使われていない聖泉があるという。前に調べた資料のひとつに、**「天恵の器は、静寂の泉にて満たされる」**という記述があった。
その泉に“反応”があるかどうか。可能性は低い。でも、やらずに諦める理由にはしたくなかった。
廃墟のようになった市場跡。倒れた石柱、苔むした石段。誰もいないその場所に、確かに泉はあった。澄んだ水が、小さく波紋を描いている。
アリシアはゆっくりと泉の縁に手を置き、呟いた。
「私は……私を許したい。できるなら、受け入れたい。そうじゃなきゃ、前に進めないから」
静寂が戻る。
だが次の瞬間、水面がほんのわずかに光った。
アリシアは息を呑んだ。
「……今、光った……?」
手を伸ばそうとした、その時。
「動くな」
低く鋭い声。アリシアが振り返ると、そこにいたのは――レオン。
「何で……ここに?」
彼は剣の柄に手をかけ、周囲を睨んでいる。
「“夜影獣”の痕跡があった。お前が市場跡を調べてるって聞いたから、まさかと思って来た。まさか、本当に来てるとはな」
“夜影獣”――穢れに引き寄せられる魔物。その存在は、アリシアが探している“浄化”の鍵と、奇妙に関係していた。
レオンが言葉を続ける。
「アリシア。俺に、お前の探してるものを教えてくれ。……一人で行くには、あまりに深すぎる道を、お前は歩いてる」
その言葉に、アリシアは初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……いいの? 呪いがうつるかもしれないって、みんな怖がるのに」
「そういうの、信じない質だから」
レオンの無骨な笑顔を見て、アリシアは小さく笑った。
この瞬間、彼女の中で何かが確かに変わり始めていた。