穢れの烙印
風が冷たい夜だった。石造りの家々が並ぶ街のはずれ、小さな宿舎の一室にアリシアは身を潜めるように暮らしていた。外では衛兵の掛け声が遠く響く。だが、そんなざわめきもこの部屋までは届かない。届いても、それは彼女にとって、何の意味も持たない音だった。
アリシア・クレイン。年は二十を越えたばかり。白銀の髪と、深い琥珀色の瞳を持つ娘。だが、その美しさを語る者はいない。むしろ、彼女の名が口に上れば、誰もが顔を曇らせた。
彼女の背には、忌まわしき紋章――「穢れの烙印」が刻まれていた。
生まれたときから背中に浮かんでいたその印は、王国に伝わる古き神話の中で「災厄を招く者の証」として語られている。神に見放された印。それを持つ者は、天恵の加護を受けることができず、時に周囲の幸運すら吸い取ってしまうと信じられていた。
アリシアの家族は、彼女が五つのときに姿を消した。遠縁の神官が引き取ってくれたが、村人の目は常に冷たく、彼女の居場所はどこにもなかった。学び舎に通うことも、働き口を得ることも、恋を語ることすら、彼女には許されなかった。
それでもアリシアは、諦めなかった。
「この烙印は……私のせいじゃない。それでも、生きていくって、決めたんだから」
古い文献に記された、烙印を“浄化”するという儀式。千年の昔、同じ印を持つ者がいたという伝説。アリシアは希望を手放さず、王都の図書塔に通い、時に辺境の村へ旅をした。危険を冒してでも、その手がかりを探し続けてきた。
今夜もまた、失敗の夜だった。
「……また、だめだった」
机にひとつだけ灯したランプが、アリシアの顔を照らしている。淡い光の中で、唇を噛む彼女の瞳には、悔しさと、ほんの少しの疲れがにじんでいた。
今日訪ねた古泉では、何の反応もなかった。文献にあった“真実を映す水鏡”など、存在しなかったのだ。いや――あったのかもしれない。ただ、自分では反応させられなかった。それだけかもしれない。
「私には……まだ、何かが足りない」
呟いたそのとき、扉の向こうでかすかに足音が止まった。すぐに小さく、ノックの音が響く。
「アリシア、起きてるか?」
低く、静かな声。聞き慣れた声だった。
「……レオン?」
返事をすると、扉がゆっくりと開いた。立っていたのは、王国警備団の青年、レオン・フェルガード。アリシアと同じく、王都の片隅に生きる者。彼もまた、人と深く交わることの少ない孤高の人だった。
「こんな時間に……どうしたの?」
アリシアが問いかけると、レオンは何も言わず、小さな包みを差し出した。
「……晩飯、食ってないと思ってな」
中には温かいパンと、煮込み野菜のスープが入っていた。
アリシアの喉が、かすかに鳴る。
「……ありがとう」
ただ、それだけを言って包みを受け取ると、レオンは静かに言った。
「無理しすぎるなよ。お前のこと……見てるやつは、ちゃんといる」
その言葉に、アリシアの胸の奥がわずかに揺れた。彼は何も知らないはずだ。彼女が何を求め、どれだけ彷徨い、何度諦めそうになったか――でも。
「……見てる?」
レオンは答えず、ただ一度だけうなずいた。そしてそのまま、また音もなく立ち去っていった。
部屋にひとり残されたアリシアは、まだ温かいスープの香りに、かすかな涙を浮かべながら、初めて“自分がここにいる意味”をほんの少しだけ感じたのだった。