思い出せないあの曲
「フン、フンフ~ン、フフ~ン……違うな。フフン~フ~ン、いや、うーん……」
朝、男はシャツのボタンを留めながら、鼻歌を繰り返していた。頭の中を漂う旋律の断片を何とか掴み取ろうとしているのだ。それはどこか懐かしくもあり、まったく新しいものでもあるような、説明しがたいが、確かに強く惹きつけられる何かがあった。
「フ~ン、フフン~フ~……んー」
何度試しても、しっくりこない。だが、あきらめる気にはなれなかった。この旋律には特別な何かがある。その確信は強まるばかりだ。もし完成させることができれば、とてつもない名曲になるかもしれない。いや、きっとそうなる。音楽家ではないが、そういった知り合いはいる。経験上、どんな些細なひらめきも軽視すべきではないと彼は知っていた。
家を出て、歩きながらも鼻歌を続けた。さすがに人とすれ違うときはいったんやめたが、誰もいなければ自然と声が大きくなった。
「フ~ンフフン~ん?」
だが、そのとき奇妙なことに気づいた。
――なぜ、みんなおれを見てくるんだ?
鼻歌が人目を引くのはわかる。だが、すれ違う人だけでなく、前を歩く者やスマートフォンを見ていた者までもが、ぞろぞろと振り向き、じっとこちらを見つめているのだ。
――なんなんだ、いったい……。
気味が悪い。だが、余計なことを考えてしまうと、この旋律を忘れてしまう。
男は焦り、ひとまず近くのコンビニへ逃げ込んだ。
入店のチャイムが鳴る。その瞬間、旋律がかき消されそうになり、彼は慌てて鼻歌を強めた。
それから店内を一巡りし、何も買わずに出口へ向かった。もう十分だろう。そう思ったが――。
「フフ~ン、フ~ンフ~ン……え?」
店の外に足を踏み出した瞬間、男は息を呑んだ。
店の前には、群衆がぎっしりと立ち並んでいたのだ。
何か事件でも起きたのだろうか。まさか、強盗か? そう思い、男は振り返った。
「フン~フフン~」
「いやああ!」「やめろ!」
「えっ」
「そ、その歌をやめるんだ!」
――おれか……?
男は気づいた。人々の視線が、自分に向けられていることに。どうやら鼻歌が原因のようだが、素晴らしいと感動しているわけではなさそうだ。群衆の顔にははっきりと恐怖が浮かび上がっていた。
だが、やめることはできない。この旋律には何かがある。素晴らしい曲の予感がしてならない。そして、あと少しでその全貌を思い出せそうなのだ。
「フ、フフ~ン、フ~ン」
「やめろ! 殺される!」「ああああああ!」「いやああああ!」
男が鼻歌を続けると、まるで蛙の合唱のように人々が一斉に喚き始めた。男は旋律をかき消されまいと耳を塞ぎ、意識を集中させ――
「フ~ン、フンフン~」
「おい馬鹿。いい加減やめろよ」
「ん、何が?」
「その鼻歌だよ」
「え、俺、鼻歌なんて歌ってた?」
「さっきからずっとな。小さな音だけどよ」
「じゃあ、いいじゃねえか。どうせ家主は隣の部屋でぐっすりなんだからよ。お前もあのいびきを聞いただろ?」
「まあな。情報によれば、睡眠薬を常飲しているらしいからな」
「それに、もし見つかったらやっちまえばいい。へへへ、しかしすげえな。金目のものがこんなにあるとは」
「ああ、若い頃はやり手だったとか、ん?」
「どうした?」
「……あのいびきが止んだな」
「あー、確かに……おい、今のは足音か? あ」
「おっ」
「あっ……フ~ンフフーン……」