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とある一日 後編

5.


 1号室には何もない。いや、そもそも扉を開ける事すらかなわない、と言うべきか。

 1号室の扉は釘で打ちつけられてよほどのことがない限り開かないようになっている。これはこの病院では唯一のことで、この病室の中に入っている人がどれだけ凶暴かを示している、なんて女医さんはうそぶく。だからこそ、この部屋の住人と話をするには食事を入れるための小さな窓からということになる。だから、僕は狂人さんがどんな姿をしているか知ることもない。僕がいる間、狂人さんは絶対に僕の前に姿を現さないから。

「「こんにちは、狂人さん」」

「#$%&”!?><@{’}#♪+*↑↓→←_|=」

 僕と小春ちゃんが声をそろえた挨拶に、狂人さんは何かを喚く。その言葉は大声で聞こえにくいし、何を言っているのかもわからない。

「朝食は……、食べたんですね。安心しました」

「                  !        ?!       !!!」

 狂人さんの声はもはや甲高い喚き声になって、聞いているだけで体がぐらぐらするような錯覚にとらわれる。がっしゃん、がしゃがしゃ。狂人さんが何をやっているのか、見えないから僕にはわからない。頭を打ち付けているのかもしれないし、何かを投げつけているのかもしれない。

「今日も元気に一日過ごしてくださいね。……それでは」

 多分これ以上話していても、僕たちにできる事はないだろう。この人には会話は通じない、少なくとも今日この時は。

「                                                          」

 僕たちは1号室前を後にした。


「本日も御勤め御苦労様だ、少年」

 1号室脇で短く刈られた清潔な黒髪を目印にした青年が話しかけてきた。

「どうも、保坂さん。交代ですか?」

「ああそうだ。あまり遅いと山下に怒られてしまうからな、時間が無いので勘弁してくれると助かる」

 保坂さんはここの看護師だ。この病院には看護師は2人しかいない。大体半々ぐらいずつここに勤めている。保坂さんは大体昼間にいる事が多い。彼は山下さんとは違い、ここの住人を心から好いてくれているようで、ときどきその行為がくすぐったかったりする。

「それじゃあ引き留めちゃ悪いですね。頑張ってください」

「ああ、お嬢ちゃんもまたね」

 今まで僕の影に隠れていた小春ちゃんがびくりと反応したのを見て、保坂さんは苦笑すると手を振って歩いて行った。


6.


 7つの部屋を回り終わったので、僕たちは診察室にやってきた。7号室から回り始めて最後に診察室に来るのが、毎日の巡回ルートなのだ。小春ちゃんがぺこっ、と可愛らしく挨拶をして診察室に入っていく。拒食症の彼女は日に一度、女医さんの診断を受けた上で点滴をうってもらい、その日の分の投薬を受けている。

 僕はその間特にやることもなくロビーで佇んでいた。この病院は基本的に誰かがやってくるということがないので椅子も雑誌もおいていない。それだけじゃない。テレビもないし、通信できるものはこの病院の中には女医さんが使っているノートパソコン以外にはない。それも何年も前のモデルで随分速度がかなり遅い。看護師2人でさえ、携帯電話を持ち込みもしない。玄関から外に出ることも出来るけど、そこにはただ森が広がっているだけなので面白みも何もあったものではない。ここには一般的な娯楽というものが存在しない。


 つまり、この病院は隔離されているのだ。丘の上に見えるあの街と、あるいはこの世界の全てと。


 この病院は表向き、長期治療用の施設だ。あの街にある黒い外壁の精神病院――ここでの通称は「魔窟」――で「更生にかかる時間が極めて長いと判断され」た人だけがここに連れてこられる。ここに連れてこられた人で、あの街に帰れた人はいないからさながらここは墓地なのだろう。あの街以外とは一切の連絡がつかないこの地を、たとえ盆であっても見舞いに来る客は一人としていない。

 5号室を出たときに小春ちゃんが暗い表情をしたのはきっとそのせいだ。ここの住人は彼らを追い出したあの街と、その象徴である「魔窟」を嫌っている。街から来たのが近いせいか明石さんだけはこっちのほうを嫌っていて出て行きたいと言いつづけている。それ以外では狂人さんはわからないけど、“おじいさん”も白石さんも魔法使いさんも街を嫌っているらしい。ここから出て行く人が少ないのも、それと関係があるのかもしれない。

「お兄ちゃん」

 考え事に没頭していた僕は後ろから声を掛けられるまで小春ちゃんの存在に気がつかなかった。

「え、あ、ああ。終わったの?」

「はい、だから次はお兄ちゃんの番です」

「うん、わかった。ここは少し冷えるから、先に戻っててよ。すぐに行くから」

 はい、と小春ちゃんがうなずくのを見ながらも、僕が出てきたときにはきっと小春ちゃんが待っていてくれるんだろうなぁと思うと少し嬉しい。そんなことがわかるくらいには僕と小春ちゃんは同じ時を過ごしてきた。だからあえて深くは追求せずに、僕は診察室の扉を開けた。


 診察室の中では薬品の匂いで鼻がツンとする。独特の匂いはだけど慣れてしまえば大したことはない。この部屋の主は、薬品棚に埋もれるようにして存在している机の上に座って僕のことを迎えた。

「良く来た」

「毎度思うんですけど、せめて椅子ぐらい買いませんか? 凄く見えそうなんですけど」

「別に見えたところで何も変わらないよ。そうだろう?」

「いやな質問をしますね。いや、肯定しかできない質問は質問ではなく尋問と呼ぶべきです」

「ははは、違いない」

 女医さんは白衣を揺らしてからからと笑う。ぴこぴこと動くアホ毛も気にせずに黒いマントを羽織っている姿はとても医者には見えない。むしろ魔術師にすら見えない。それでも一応免許だけは持っているようで、この病院内では誰も彼女に逆らえない。もっともむちゃな要求をする人ではないから安心できるというのもあるけど。

「それで、どうだった。今日の様子は」

「いつも通りです。変わらない一日ですよ。明石さんが少しぴりぴりしてましたけど、どうせ一過性のものでしょう」

「そうじゃないだろ? お前はどうだったかと聞いているんだ」

 僕の……、と考えたところで僕はそこでようやく質問の意味に思い当たり「ああ」と頭を掻いた。我ながら察しが悪すぎる。

「変わりませんよ。それも含めていつもと変わらないって表現してるんだから、当然でしょう」

 その返答に女医さんは少しだけ顔を歪めたようだったけど、それが何の感情を意味するものなのかは僕には理解できなかった。

「まあいいさ。それじゃあもう話すことはない」

「あ、待って下さい」

 話を打ち切ろうとする女医さんを思わず遮ってしまった。だけど、何を聞きたかったのかは忘れてしまった。

「……何だ?」

「……いえ、そういえば雨漏りを直すために誰か来るっていうのは本当ですか?」

「ん、ああ。本当だ。まだしばらく先だがな。そんときはお前だけでも出かけるか?」

 女医さんはあっけからんと僕をあの街に通すか、と聞く。こことあの街の隔絶なんてないだろうと、その目が訴えている。

「……考えておきます。それじゃ」

 僕はその目に答えを返せないまま、診察室を後にした。


7.


 今日も小春ちゃんと一緒にお風呂に入る。

 小春ちゃんは僕のことをどう思っているのだろう、と考えることはあるけど、決して好きで一緒に入ってもらっているわけじゃないだろう。ここの住人はどこか異質な雰囲気があってなんとなく一緒に居づらい部分があるから、馬のあった僕と仕方なく、というのが僕の考えだ。確かにこの病院ではあの女医さんや患者嫌いの看護師、インクが落ちるのが心底嫌でお風呂嫌いの女性患者のほかには女性が存在しない。入院直後なんて女医さんと僕くらいしかいなかったから、そうなってしまったのも仕方ない気はするし。

 小春ちゃんはここの住人の中で2番目に滞在期間が長い。その拒食症歴は13歳の誕生日に始まって18歳を過ぎたいまでも直る見込みがないし、もしかしたらこれからも直らないのかもしれない。ちなみに一番長いのは僕で、帰納法的に考えても部屋番号が大きいほうが滞在期間が長いというのがわかるだろう。だからこそ彼女は僕を呼ぶとき、「お兄ちゃん」という呼称を用いるのだ。

「お兄ちゃん、何をぶつぶつ言ってるんですか?」

 話しかけられたとき、小春ちゃんは既に服を脱ぎ終えていた。長く伸ばされた髪が覆っているのは18歳とは思えない、むしろ平均的には大学入学前というよりも中学卒業前といったほうがいいくらいの身長。特に腕は先天性の疾患か何かで普通の女子の半分ぐらいしかないらしい。彼女が拒食を始めた理由はそこにあって、どうやら体の伸びが止まれば腕と釣り合いが取れると考えたらしい。僕にはその考えはよく理解できなかったからなんとも説明しがたいけど……。

 そんな腕に比べて彼女の脚は身長に相応しい長さをしていて、彼女が言っていたところによると体育座りをしても手が爪先に届かないらしい。病院内で育ったがゆえに日光をほとんど浴びず、染みひとつ、怪我の痕ひとつない脚線美はたとえロリコンと呼ばれる属性を持っていない僕でもくらりとさせられる艶かしさを持っている。下腹部からおへそにかけての曲線も中学生の肉体とは思えぬ完成度だ。髪が絶妙な具合にその詳細を隠していて、まるで理不尽な漫画みたいだと思う。

 とはいえ拒食症をもった身だ。いかに日々の栄養を点滴で賄おうとも、成長できない部分というのも出てきてしまう。身長もそうだし、体重だってこの娘っこは驚くほど軽い。体脂肪率も低めだし、点滴を打つのをやめてしまったら本当に数日で死んでしまうだろう。

 小春ちゃんにせかされるがまま僕も服を脱ぎ終えてお風呂場に入る。女医さんと看護師2名はここを使わないからこのお風呂場を使うのは入院患者の7人だけだ。僕たちは時間がかかるから湯船が冷めないように大体最後に入る。一人用に作られたお風呂に二人が入るとさすがに少し狭いけど、なれれば大したことはない。

「それじゃあお願いします!」

「うんわかった、とりあえずそこに座って。いつもどおり頭から」

 小春ちゃんの髪は長いから、洗うのは結構大変だ。シャンプー・リンス・トリートメントとこの数年で慣れてしまった手つきを繰り返し、最後に髪が垂れてこないよう軽く結わえておく。

 髪を洗い終えると小春ちゃんは顔を洗い始めてしまうので、その間に僕も髪を洗ってしまう。洗い終わるのがほとんど同時になるのも長年の経験でわかっている。

 それも終わると小春ちゃんの体を洗うことになる。ここから先は一番気を遣うことになる場所だ。

 僕は脇に掛けられていたボディータオルを取ると、ボディーソープを垂らして泡立て始める。

「それじゃあ手をあげて」

「はい」

 小春ちゃんは言われたとおりに手を上げる。なんとも従順に。

 それを見ていた僕に、悪戯心を出させてしまうぐらいには。

 ……。

 ……。

 …………。


 僕はそんなつまらない葛藤を抑えて、ボディータオルで小春ちゃんの体を洗い始めた。洗いやすい背中や脇の下から初めて、小春ちゃんが自分でできるところは自分でやってもらいながら次第にタオルを下に下ろしていく。爪先まで洗い終わったら、後は泡を洗い落とすだけだ。

 シャワーを握ったところで僕はさっきの、愚にもつかないいたずら心を思い出した。……なんだか分からないけど、このまま引き下がるのは癪な気がしたのだ。

 僕はシャワーノズルの温度調整のところを小春ちゃんに気付かれないようにぐいっと回すと、勢いよく水を出した。


「ひ、ひゃあああああ!?」


 嵐を思わせるような勢いで冷水が飛び出す。温まっていた体に冷たい水を一気にかけたら、確かに驚くよな、と思って僕は水流を止めるために立ち上がった。

 その時耐えきれなくなったのか、濡れているお風呂場で小春ちゃんが立ち上がろうとした。そしてその結果として、彼女は足を滑らせてしまった。つるっ、という描写がふさわしい見事なまでの美しい転倒。


 その結果、ぎりぎりで小春ちゃんを支えた僕の顔は潤んだ彼女の瞳を真正面から見つめる事になった。


 何と表現すればいいのか、一番近いのは「魔性」だと思った。あまりにも弱者的な印象を放つその表情は、だけどあまりにも官能的で淫魔にすら勝るとも劣らない魔力を秘めていた。浅く繰り返される呼吸とそれに伴って動く平坦な胸が放つ色気は、テレビの中の美女が腰をしならせて作るものよりもずっとリアルで脳がそれに締め付けられたかのように酔っていた。何で僕たちはこんなところでお風呂を浴びているんだろう、もっと他にやることが「何やってんだ、お前ら?」


 邪魔した女医さんは、結局それだけを言って風呂場から立ち去った。


8.


 どうにも不自然だった。普段なら、女医さんは決してお風呂場には近づこうとはしないのだ。それが今日に限って来るなんて、何かがあったとしか思えない。小春ちゃんを寝かしつけると、僕は診察室へ急いだ。

 案の定、女医さんはいつも居る診察室ではなく、2号室の前に居た。まだ勤務時間中だったらしい保坂さんも一緒だ。これだけ見ると大きな事件なのに他の人は来ていない。大方、女医さんが胡散臭いことを言って退散させたんだろう。

「来たか」

 女医さんは小さく呟くと、顎をしゃくるようにして部屋の中を指差す。中にはいつも通り風船があふれかえっていて。

「ああ、これはなんというか、魔法使いさんですねぇ……」

 部屋の中には割られてぺしゃんこになったゴム風船が散乱していて、ところどころに血痕や白濁液のようなものが混じっている。女医さんの雰囲気から、これが明石さんらしいと読みとると途端に吐き気が襲ってきた。

「ああ、始末はつけておく。説教だけでもしといてくれ」

「……警察は来ないんですね?」

 僕の確認に、女医さんは何だ今更とばかりに「来るか」と一言吐き捨てる。

「ここに来るとしたら、私の患者かお前らを殺す兵隊か二者択一だ。覚悟しておけ」

 その目には妙な迫力があって、僕は暫くその場から動けなかった。


 僕は再び4号室を訪れた。こうして一日に二度訪れることは滅多にないから魔法使いさんには驚かれるかもしれない。いや、驚かないか。

 ノックをして入室すると僕の予想を裏切ってひどく慌てたような顔をした魔法使いさんがいた。でもさすがと言うべきか、すぐにいつもの笑みを張り付けたような顔に戻る。

「やぁやぁいらっしゃい、少年君。昼間はいきなり追い出してしまって悪かったね。もうわかっちゃっているかもしれないけどあれは僕なりの気遣いなんだ。許してくれたまえ。それにしても君が一日に二度も訪ねてきてくれるなんて驚いたよ。てっきり一日に一度嫌々ながら回らされているとばかり思っていたからね。ところで夕食に出たものを残してしまったんだけど魚だけでも食べていかないかい?」

 魔法使いさんが差し出した食器には白米と蒸かし芋以外全て残されている。

「いえ、大丈夫ですよ。僕も食べましたから」

「そうかい? ならそれでもいいんだけどね、たくさん食べないと大きくなれない……ってほど小さくもないか。君は本当に高校生か疑うぐらいには大きいからなぁ、羨ましいよ。どうやって大きくなったんだい?」

「そうですね、牛乳は必須ですけど……、案外野菜がいいんじゃないかと思うんですよね。僕も野菜、好きですし」

「ふうん、野菜か……。野菜なら何とか食べられるかな。今度山盛りで頼んでみようかな。

 うーん、元気がないみたいだけどなにか悩みごとかな?」

「いえ、そういうわけじゃ」

「ああいいよ、大体わかってるんだ。どうせ女医さんに僕に説教でもして来いとか言われちゃったんでしょ。いいよいいよ、実はこの時を待っていたんだ。どうせここには警察なんて来ないんだから、君に叱ってもらうしか贖罪の方法が無いんだからね。贖罪のためだったら今すぐ寝床を雨漏りしている場所の真下にしてもいいぐらいだよ」

「というかそれ、もうじき補修するんでしょう?」

「あれ、そうだったっけかな。まぁ何でも言ってよ。僕としてもこのまま何もないのは辛いというかね」

「お咎めは何もなしですよ」

「え、本当にいいの? ただ言ってみただけなんだけど言ってみるものだね。なにはともあれありがとう。僕は君たちに最大限のお礼を言わせてもらうよ。あ、感謝はするし、ある程度のことなら無条件に手を貸すけど、今回の件をネタに無理なことをさせるとかいうのはやらないよ? 特に魚を食べるとかね」

 魔法使いさんはそれを聞いて明らかに動揺したようだった。それを隠そうとして、なんだかいつも以上におかしなことになっていた。

「やりませんよ……。あ、でもですね」

「うん?」

「『次やったら殺す』ですって、女医さん」

 僕と魔法使いさんの間に、一瞬の沈黙が下りる。だけどしばらく固まったままだった時は、魔法使いさんの笑い声で引き裂かれた。

「あはは、あっはははははは! わかったよ! 了解了解。だけどまさか、君に魔法で負けるなんて思わなかったよ。意外とセンスあるんじゃないかな。どうせだったら修行とかしてみたらどうかな」

「遠慮しておきますよ。僕は魔法使いに興味はありませんから」

「へぇ、じゃあ君の望みってなんなんだい? 何かになりたい、ってわけじゃなさそうだけど」

「僕は……」


9.


 目隠しを外したら白衣のお姉さんが椅子に座っていた。

「お姉さんは、だれ?」

 白衣のお姉さんはゆっくりと足を組みかえると僕に問うた。

「それよりもだ、少年。君は何になりたい?」

 僕は質問に質問で返されたことに少しだけ腹を立てる。お父さんが言ってたんだぞ、質問に質問で返しちゃいけないって。そう言おうと思った口は、お姉さんの瞳の真剣さに負けてしまったのか、一向に動いてはくれなかった。

「もう一度問う。君は、何になりたい?」

 今から思えば、これはきっと魔法だったのだ。僕にその答えを言わせるだけの、些細な魔法。

「僕は……」

 さっきの文句が口から出なかったのが嘘のように、今度の言葉はあっさりと飛び出した。


  *


 僕は穏やかに、いつも通りの日常を過ごしたい。





      第1話《とある一日》 了

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