真夜中
私は、両親が起きている間に寝てしまうことにした。
シャワーを浴びるのもそこそこに、急いで髪を乾かす。
母が整えてくれたソファベッドには、先にシャワーを浴びていた拓海がキリンのぬいぐるみを胸に抱いて、すぅすぅと寝息を立てていた。
万が一夜中に起きて真っ暗なのは嫌だったから、眠りの妨げにならない程度の明かりをつけておいて欲しいと両親に頼んで、私は拓海の隣で横になった――。
隣に扉がある緊張から眠りが浅くなったのか、すぅっと眠りに落ちたかと思えば時々意識が引き戻されるような感覚があった。だけど、一度瞼を開けてしまったら、すっかり目が覚めてしまう気がした私は、真っ暗なうちは夜中だからと、頑なに瞼を開こうとはしなかった。
しゅるり……。
すぐ隣で衣擦れの音がする。
掛布団が持ち上がり、ベッドの中に留まっていた空気が少し冷えたものと入れ替わった。
「……たーくん?」
拓海がトイレに起きたのかもしれない。
私は仕方なく、そぅっと薄く瞼を開ける。
もぞ……、と。
上半身を起こして、正座を崩した形でその場に座り込んだ拓海の姿が、部屋の薄明りに浮かび上がった。
無表情な顔を俯ける拓海の、うっすらと開かれた目は虚ろにぼんやりとしている。
拓海は、ゆっくりと腕を上げ、手のひらで両耳を塞いだ。
そして。
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――」
ぶつぶつと平坦な声で、ひたすらに繰り返す。
私は驚きのあまり、一瞬、金縛りにあったように固まった。
「た―くん? ……どうしたの?」
咽から絞り出した声は、くぐもって掠れた。
すぐ隣で話し掛けたにもかかわらず、拓海は反応しない。
ちらりとも、こちらを見ない。
「――怖い怖い怖い怖い怖い怖い……」
一体、何が怖いのか、まったくわからない。
私には、拓海の声以外に何も聞こえなかった。
「なに? なんなの……?」
今すぐそこまで、得体の知れない怖いものが近づいてきているのではないか。そんな恐怖に駆られて私は震えあがった。
「お母さん、お母さん起きて……!」
震えて掠れた声は、決して大きなものではなかったが、母は気づいて起きて来てくれた。
そして、怖い怖いと言い続ける拓海の耳から手をどかして、寝かしつける。
「怖くない、怖くないよ」
横たわり、目を閉じた拓海の胸をさする母は、困惑の滲む声で言い聞かせた。
――けれど。
拓海はむくりと起き上がり、キリンのぬいぐるみをきちんと枕元に座らせた。
座らせられたキリンのやわらかな首が、ぐにゃり、と変な方向へ傾くと、キリンの前で正座をする拓海が、首を真っ直ぐに丁寧に直す。
再び、ぐにゃり、とキリンの首が傾いて。
項垂れる拓海は声も無く、しくしくとすすり泣く。
泣きながら、拓海はキリンの首を何度も直した。
こんな拓海を見たことがなくて、私はぞっとした。
頭から、さぁっと血の気が引いて、両目の端に涙が滲んだ。
「お母さんがここで拓海と一緒に寝るから、真帆はお父さんの隣で寝なさい」
母の言葉に、私はその場から逃げ出すようにして、父の隣のベッドの中に滑り込む。
頭から布団を被ってぎゅっと目を閉じる。
心臓の跳ねる音が頭にまで響き、呼気で籠る熱っぽい布団の中は息苦しかった。
布団を少しだけ持ち上げると、時折、母が拓海を宥めているのか「怖くないよ」や、「何も聞こえないよ」という声が微かに聞こえる。
否が応でも、先程の拓海の様子が瞼に浮かぶ。
寝ているのか寝ていないのかわからない時間が、有耶無耶に過ぎていく。
こんなにも、明るい朝を待ち遠しく思ったことはなかったかもしれない。
やがて、小さな物音が聞こえ始めると、意識ははっきりと明瞭になった。
生活感のある音。蛇口から水の流れる音や、カチッとコンロに火をつける音。
……誰かの歩く、規則的な足音。
薄目を開けて視界の中に窓らしきものを探す。薄明りの中、カーテンの隙間から細く見える窓が白んでいるのがわかった。
――朝が近い。
私が身体を起こすと、中二階で動いていた人影が、動きを止めた。
「お父さん……?」
声を掛けると、中二階の手すりに手を掛けた父が、疲れた顔をして私を眺め下ろした。
「まだ早いから、寝ていていいよ」
もう眠れそうになくて、私は首を横に振って父に応えた。
足許のずっと向こうにあるソファベッドでは、母と拓海が眠っている。
「お父さん、昨日拓海が……」
「知ってる。夜中に様子がおかしかったんだろう? 声がしたから気づいて、お母さんからも聞いた」
キッチンで父が淹れたのだろう。珈琲の香りがした。
「お父さん。もしかして、それから寝てないの?」
うん、と頷いた父は手に持っていたマグをダイニングテーブルに置いて、自身も椅子に腰かけると、ぐったりと突っ伏した。
「二人が起きるのを待って、支度が済んだら、すぐに帰ろう」
そうして。
父は静かに帰り支度を済ませた。
母と拓海が目を覚ますと、私たち家族はチェックアウトの時間よりも大分早くにコテージを後にした。
拓海が目を覚ました時に、両親や私が、昨夜のことを尋ねたのだけれど。
拓海は、何も覚えてはいなかった。
何度も起きたことすら、わからないようだった。
あんなにも、起きて動いて、……ぶつぶつと呟いていたのに。
車が森を抜けて、明るい町の中へ入ると、私は心からほっとして大きな溜め息を吐いた。
それは、車を走らせていた父も同じだったようで……。
ハンドルを握る父は、まっすぐに道路の先を見据えながら、緊張の糸が解けたように話し出したのだ。
――実はさ。
みんなが怖がるかと思って、言わなかったんだけど。
ネットで予約取る時にクチコミを読んでいたら一件、『夜中の一時に、コテージの黒い電話が急に鳴り出した。私の娘たちは、その後怖がって眠ることができなかった』っていう書き込みがあって、何か引っかかっていたんだ。
なにが……って。
コテージの管理事務所は、夕方五時半から翌日の朝六時までは無人になるから。
それにしても、夜中に電話が鳴ったくらいで、何が怖かったんだろうって腑に落ちなかったんだ。
――でも。
昨晩、電話が鳴っただろう?
ああ、別に管理事務所とか、間違い電話なら良かったんだけれど……。
ありえないんだ。
だって、電話が鳴った時。
……赤く点灯する内線のランプが、A棟を示していたから。