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餓鬼憑きにヒダル神

 吉良と沙夜子はお互いの顔を見合わせた。沙夜子が問いかけるように首を傾けるが、吉良は即座に首を横に振る。現時点ではさっぱりわからなかった。


 吉良が、い草の匂いのする畳の上に座ると同時に月岡が説明を続ける。


「当直の警官が家に向かうと、明かりもつけずに真っ暗だったそうだ。家族の案内で2階の娘の部屋に上がると、娘はいた。だが、異常な状態だった。これは最初に見たこの警官の印象だが、家族の訴え通りだった、と」


 つまりそれは、第三者から見ても「中身が違う」と思わざるを得ない状況だということ。通常、正常か異常かの判断は難しい。依頼人だってそうだ。話に耳を傾けて、何度も何度もじっくりと話を聴くことによってようやく異常さが見えてくる。最初から、一見してすぐに異常だとわかるということは、一般的な常識を遥かに超えた状態だったということ。


「暗闇の中だからな。最初は何が起きているのかわからなかったんだが、音だけがずっと聞こえていた」


「音?」


「咀嚼音だ。何かを食べているのはすぐに想像がついた。だが、音がおかしい。今まで聞いたことのないような音が咀嚼音に混じって聞こえてきた。その音のためにしばらく、部屋の明かりをつけるのも躊躇っていたのだが、そのうちにだんだんと目が暗闇に慣れていってしまった。咀嚼音も終わらず、不気味な音も止まない。明らかな異常を感じたんだろう。壁に設置されたスイッチを押すと、娘は食べていた。食べ物ではない。通常、食べる物じゃないと言った方がいいかもしれない。十二、十三になるかと思われるまだ幼い顔のその娘は、ボールペンを食べていた。いや、それだけじゃない。よく見れば部屋のあちこちがモノで散乱していた」


「ボールペン以外の物も食べていたということ?」


 沙夜子の質問に頷くと、月岡はページをペラペラと捲った。


「胃からの摘出物の一覧をまとめている。ティッシュ、紙類、鉛筆、シャープペンの芯。娘は中学生なのだが、教科書やノートをちぎって食べていたようだ。それから庭から持ってきたらしい大量の土や石、プラスチック類や貯金箱に入っていた硬貨も散らばっていた。あと、これはどこで口に入ったのかは不明だが、煤けた、焦げたような紙片におそらく熱で変形したガラス片も含まれていた。娘はすぐに病院へ連れて行かれて現在入院中。原因は不明」


 並べられた情報をエピソードとして頭の中に浮かべ、「異食症」か、と吉良は思った。同時にまた疑問も生まれる。確かに明らかな異常ではあるし、人格が変わったようにも思える。だがそれは異食症の症状であり、通常ならば病院に行くはずだ。娘の中身が行方不明になったと交番へ駆け込む理由が判然としない。


 吉良の問い掛けに答えるように、月岡は気だるそうに首に手を当てながらさらに話を続けた。


「摘出物はともかく、最も重要な問題は冒頭の奇妙な訴えだ。理由がある。娘は、その前日学校へ行ったきり全然帰ってこなかったようだ。心配した親は学校やクラスメートに連絡したが全く行方がわからない。ところがその日の遅く、もう明け方に近い午前4時頃に自分の足で帰宅した。帰ってきたはずの娘は、もうすでにそういう状態だったらしい」


 吉良は長く新緑のような色合いの畳を見ていたからか、ずり落ちそうになっていた眼鏡を上げた。


「病院の所見でも異常は見当たらなかったそうだ。今までならここで警察の出る幕はなくなる。異常だが病気として後は家族と病院に任せて、せいぜい噂話になっておしまいのはずだったが、あの法律ができてからそうはいかなくなった。異常な事件はあやかしとやらの仕業の可能性があるとして、警察の範疇に入ってしまったからな。それで実に面倒くさいことだが、俺のとこにこの事件が回ってきたということだ」


 手帳を閉じてまた胸ポケットにしまうと、月岡は代わりにタバコを取り出した。一本を口に挟むと、ライターを探して背広をまさぐる。


「ちょっと! 禁煙に決まってるでしょ!」


 何の遠慮もない舌打ちが聞こえる。


「外は?」


「境内全部禁煙! だけど、そんなに吸いたいの?」


「そうだな。少しはこのイライラも収まるかもしれない。じゃ、二人で話し合いでも講釈でもなんでもしててくれ」


「あ、ちょ……」


 止める声も聞かず、月岡はすぐに外へと出ていった。襖が乱暴に閉められ、続けて外へと繋がる扉が音を立てて閉められた。


 急に静まり返る。虫の音が急に大きく聞こえる。いよいよ陽は沈み、夜の帳が下りたのだろう。


「あいつ!」


 沙夜子は立ち上がると、真っ白な足袋を履いたまま何度か畳を蹴った。


「お、落ち着いて!」


 慌てて吉良が止めに入るが、静止はきかない。沙夜子はずんずんと仏像の置かれた内陣の方へ進むと、支えていた柱に手を当てた。近くにいかずともその腕が震えているのがわかる。


「その子がどんな気持ちで、家族がどんな気持ちでいるのかわからないくせに……」


「……沙夜子さん」


 柱から手を離すとくるりと振り返り、沙夜子は仏像へと手を合わせた。所々ひび割れ煤色の目立つ千手観音像。千の手で人々を救うとされる千手観音菩薩を形にしたもの。仏像を見ていると吉良は、妖がいるのなら仏もいるのではないかと、ときどき思索したくなる。そうでないのならば、この世界はあまりにも無慈悲だ。


「さて、やるわよ。吉良」


 高い笛の音のような凛とした声が響く。声にも表情にも般若のような怒りはもう含まれていなかった。


 柱にもたれかかると、沙夜子は腕を組んだ。


「吉良はどう思う? 今の話、あやかしが関わってると見て間違いないと思うけど」


 吉良も腕を組んだ。顎を撫でながらまた畳を見る。


 浮かぶ状況は恐ろしく見えるが、実態は単なる異食だ。そして実は異食よりも深刻だと思われるのは、食べた量。部屋には食したと思われる物が散乱していた。部屋の中にあったものを手当たり次第に食べても飽き足らず、庭から土や石を掘り出してまで食した。異常な食欲の方が問題かもしれない。


「ただ問題は、このあやかしが僕のところへ来たケースと同じ者かどうかということです」 


 食に関する怪異として考えられるのはやはり餓鬼憑きかヒダル神だ。餓鬼に取り憑かれた餓鬼憑き。そして、ヒダル神は餓鬼憑きの一種とされ、山道や峠など出現場所が限定されている。中学生の少女がどこへ行って、あるいは連れられて帰ってきたのかは定かではないが、もし該当の場所に行ったのだとしたらヒダル神の可能性もある。


 食の異常は様々だ。食べられない、食べ過ぎる、食べ物ではない物を食す、その他にもあまりにも極端な偏食、味がわからないーーなどと細分化されるように、餓鬼にもいくつかの種類があり、取り憑かれた際に現れる症状も異なる。


 そう考えればこの二つはそれぞれ原因が違うと考えられるが。


 ふと、吉良は顔を上げた。掛けていた眼鏡が僅かに揺れる。


「沙夜子さんの所にも食に関わる相談が来たんですよね。どういうものだったんですか?」


 高校時代からはもう何年も経っているのに、自然と敬語になってしまうのがなんとも情けないと思いつつ、たぶんこの関係はこの先も変わらないのだろうなと納得する。沙夜子の強い光を帯びた瞳が瞬いた。


 沙夜子が口を開く前に、足音が聞こえて襖が開かれた。


「さぁて。そろそろ何かわかったか?」


 若干、出ていくときとは上機嫌な口振りで月岡が帰ってきた。しかし、難しい顔をしている二人を見て盛大な溜め息が吐かれる。


「あんたら専門家なんだろ? そんなにのんびりしてて大丈夫なのか? あやかしの肩を持ち過ぎて上手い対策が浮かばないんじゃないのか?」


「! あんた……いい加減に!」


 詰め寄る沙夜子を嘲笑うように月岡は口笛を鳴らした。


「事実だろ? 現に吉良先生はあやかしと結婚して子どもまでつくったって聞いてる。そんな奴が人間を守るためにまともな対策が立てられるのか?」


 沙夜子の目が見開かれた。なくなったはずの怒りの形相が復活し、ニヤニヤと嘲る月岡に向かう。一度は抑え込んだ拳が今度は真っ直ぐにその対象目掛けて飛ぶ。


 両者の間に入った吉良の背中に沙夜子の右拳が当たった。鈍い音がした。


「……あっ……」


「沙夜子さん、その手はあやかしと戦うときに必要な手です。大事にしてください。それから月岡さん」


 吉良は衝撃でズレかけた眼鏡を上げた。上手く見られなかった月岡の瞳に、今度はしっかりと焦点を合わせる。


「僕と、パートナーの川瀬愛姫は結婚していません。あやかしと人間の結婚なんて法律上認められていないですから。そして、そのことと仕事は別です。話し合いが不可能なあやかしもいる。必要とあればもちろん、殺すことも(いと)いません」


 月岡の燃えるような視線がぶつけられる。ガンをつけられるとはこのことかもしれない。内心、吉良は冷静ではいられなかった。心臓は鼓動の音が聞こえるくらい激しく動揺しており、全身に汗が噴き出していた。呼吸の乱れを隠し、体の震えを隠すのに精一杯でこのあとの展開は何も考えられていない。吉良にしてみれば、とりあえず止めるために入っただけであって喧嘩を売るつもりはなかったし、ハッキリと物を言うつもりもなかった。ただただ穏便にことを済ませようとしていただけなのに。自分の口からは恐るべき程の喧嘩口上が並べ立てられていた。


 カッとなったのか? 不意を突かれたのは確かにある。まさか会ったばかりの刑事から愛姫のことが言われるとは思わなかった。それも侮蔑的に、だ。だけどそんなこと今に始まったわけではない。


 愛姫があやかしだと知って相談に現れなかった依頼人もいる。距離を置いた友人も、あらぬ噂を流す知人もいた。家族ですら関わりを絶った。その度に、何度も何度もぬめぬめとした黒い塊のような感情を呑み込んできたのだから。


 月岡の視線が離れた。背を向けるとポケットに片手を突っ込みボリボリと乱れた頭を掻く。


「ーーっで? じゃあ、何か策があるのか?」


 視線が外れたことで肩の力が抜ける。額には、もう真夏は過ぎたというのに玉の汗が噴いていた。汗を拭いながら、考えを纏めようとする。


 餓鬼憑きにヒダル神、拒食に過食。どこかへ行って、帰ってきた。


 集めた情報を改めて断片的に繋ぎ合わせたところで、まだ何か足りないことに気がつく。


「まずは、行ってみるわよ」


 沙夜子が右腕をさすりながら答えを出した。


「病院へ。警察のあんたなら病室に入れるでしょ? それこそ専門家の力を発揮してちょうだい」


 月岡は鼻を鳴らすと襖を広げて板張りの廊下へと出た。


「病院へ行って何をするつもりだ? 娘は昏睡状態で話を聞くこともできない。付き添っている両親の事情聴取はすでに終わっているしな」


「試したいことがあるのよ。形のあるあやかしと違って憑物は自分の形がない。だけど、私の『(じん)』ならその姿を形作ることができるかもしれない」


「怪異を起こしているあやかしの姿が見えると、そういうことか?」


「違うけど、まあ、わかりやすく言えばそういうこと」


「……何でもいい。事件の解決に繋がるのならな。さっさと行くぞ」


 そう言うと、月岡はさっさと一人で外に出てしまった。車のエンジンが駆動し、砂利がタイヤに巻き込まれていく音が静かに聞こえる。  

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