どこかへ行って帰ってきた
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ゆらゆらと漂う。目は見えない。どこかから聞こえる声は穏やかで、柔らかな匂いがする。ゆらゆらと漂う。ゆらゆらと。
何かが弾けて離れた。落ちてゆく、落ちてゆく。真っ逆さまに落ちてゆく。どこまでも、どこまでも。
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『……よろしくお願いします。娘を助けてください』『覚悟はあんのかって聞いてんだよ!』
吉良はハッと目を開けた。
いつの間にか腕の中で寝ていた我が子の口から哺乳瓶を外す。背中を立たせて背を撫でると、ゲプ、という音が口腔内から広がり、甘い香りがした。これで一安心だ。
優希は一度睫毛がいっぱいで重たそうな瞼を上げたがすぐに眠ってしまった。穏やかなリズムの寝息が夜の静けさの中に消えていく。
吉良はじっと小さな顔を眺めていた。目はやはり愛姫に似ている。全体に丸い輪郭は自分かもしれない。性格は……まだどちらともわからないな。
同じように愛姫のあやかしとしての力がどこまで受け継がれているのかもわからなかった。遺伝に由来するものなのか、環境によるところが大きいのか。そもそも愛姫の持つ力がいつから顕現されているのかは本人もわかっていない。人には無数の素質がある。どの素質が芽生え、育み、発揮されるのか。あるいはどの素質が眠ったままなのか。誰にもわからない。
滑らかな木製の白椅子に座って左右に揺れる。深い眠りに誘うように。
このままあやかしの力が発現しなければ平和で過ごせるのかもしれない。でも、そう願うのもまた親としては失格なのかもしれない。自分らしく生きられればいい。そう思ってもまた、どうなるかは誰にもわからない。
「せめて孫の顔だけでも見に来てくれればいいのにね」
吉良の両親も他の友人らと同様に愛姫のことを告げると離れていった。絶縁状が届いたのは一日後のことだ。初めて会ったときは「こんな素敵な方が」「うちの子にはもったいないくらいの娘さんだ」などと有頂天だったが、愛姫があやかし、だとその一点だけで容姿も性格も人生も全てを否定した。「息子をたぶらかすな」「うちの子を返してくれ」ーーと。
(客観的に見れば、それもまたしょうがないことかもしれないけど)
一息ついたところで吉良は階段を降りていった。間違えても落とさぬようにしっかりと胸に抱いたまま。一階に着くとベビーベッドに子どもを寝かせてその上に毛布を掛けた。どんな夢を見ているのか、可愛らしい寝顔をもう一度じっくり眺めてから吉良はそっと電気を消すと、奥の書斎に移動して仕事に取り掛かった。
眼鏡をかけ直す。机の上に相談時に使う白いメモ用紙を置くと、気になる点を書きつけていく。
餓鬼憑きあるいはヒダル神による一怪異ーー三名の女性、成人、高校生、中学生が食に関する異常を訴える。拒食に異食、そして過食。背後に餓鬼憑きかあるいはヒダル神による憑依が考えられる。三名の間の関係性は不明だが、おそらく接点はない。ニ名、異食と過食症状のあった女性と、鬼救寺に訪れた女性に「結界陣」を使用。効果はありあやかしは消滅。しかしすぐに同症状に襲われる。憑依と見られる。異食の一名の女性のみ、「どこかへ行って帰ってきた」。
「そして、あやかしの特徴はーー」
不定形の形。かろうじて三次元に存在することができるが半透明。具象化できないほど力が弱い。だが、その数は未知数。
「こんなあやかし、本当にいるのか?」




